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悪 その7:アドルフ・アイヒマンの裁判(2) [探求]

 クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの7回目。

 ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』がひき続き論じられるのだが、筆者がキルケゴールの専門家ということもあって、ハンナ・アレントの斬新な洞察からキリスト教的な悪の見方に逆戻りしているような印象を私は受ける。





Evil, part 7: the trial of Adolf Eichmann (2)


Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 26 November 2012 09.00 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/nov/26/adolf-eichmann-trial-evil






 悪 その7:アドルフ・アイヒマンの裁判(2)

アイヒマンの陳腐さの中心にあるのは無思考ではなく責任回避であり、「知識と意志の相互作用」である




Adolf-Eichmann-1961-008.jpg
アドルフ・アイヒマン、1961





 前回私たちは、その裁判がハンナ・アーレントの『悪の陳腐さについての報告』で分析されたナチスの官僚アドルフ・アイヒマンのケースを考察した。私の記事が提供したのは答えより問いかけだった。アイヒマンの行動の根本にあるのは、(もっと認識しやすい悪よりも)「思考しないこと(thoughtlessness)」だったとアーレントが主張したのは正しかったのか? カントの『実践理性批判』を読み、自分はカントの道徳の原理に従うことができないと結論づけた人に、どんな無思考を帰すことができるというのだろうか? 一連の決断(たとえば、ナチスや親衛隊に入党したこと)を下した挙句アイヒマンは輸送の責任者に任命されるわけだが、死の収容所へユダヤ人を移送する事業を組織化するのを拒否できるほどの自由が彼にどれほどあったのだろうか?  ナチス・ドイツの政治情勢を考えても、彼の罪はまったく軽減されないだろうか? 

 アーレントがアイヒマンの犯罪の凡庸さ、「陳腐さ」を指摘したのは確かに正しい。もちろん、明らかに正常な人間でもナチスの最も悪名高い犯罪者の一人になりえたという事実は、(当時のドイツで)道徳が深い部分で歪んでいたことを示している。(フィリップ・ジンバルドーのような心理学者ならば、社会的・制度的な要因が、被害者と加害者双方の人間性を曖昧にすることによって、この歪みに寄与するのだと、きっと主張することだろう)。しかし、アイヒマンが「全く思考しない」点で際だっていたというアーレントの主張は、明確化される必要がある。


 彼が思考しなかったとするならば、それは彼があえて思考しなかったからだ――これはつまり、無思考ということがここでは最も根本的な要因ではないことを意味するのだ。むしろ、アイヒマンの不道徳の核心にあるのは彼の責任逃れの姿勢だ。この姿勢は、戦後に逮捕を逃れようとした試み(彼は裁判にかけられるまで約15年逃亡していた)や、裁判の間に一貫して責任を否定していたことや、死刑判決に対する彼の無駄に終わった上訴などにおいて明らかだ。しかし、おそらく輸送の責任者だった時の彼の反省――カントの本を読んだこと、「自分はカントの要求に従って生きていたかったが、当分そんな生き方をするのはできそうもない」という結論――でさえも、微妙な言い逃れだったのかもしれない。もしそうならば、何も考えていないという見かけは、ある種の思考を回避することを覆い隠していることになるし、その回避と結託していることになる。


 アイヒマンの責任逃れは、キルケゴールが「知識と意志の弁証法的相互作用」と呼んだものによって特徴づけられるように思われる。キルケゴールの主張によると、悪の問題について、古代のギリシャ哲学とキリスト教の重要な違いは、ギリシア人(特にプラトン)が不道徳と無知をを同一視したのに対して、キリスト教徒は、悪とは意志の問題だと主張したことにあった。この原則がすでにアウグスティヌスの中で働いていたことはすでに見たとおりである。アウグスティヌスは罪を意志が神から離れてしまうことだと定義したのである。キルケゴールは、人間の自己欺瞞の機微には特に慣れていたので、受動的な無知のように見えるものは、実は常に、積極的な無視だと指摘した。不道徳な意志が自分の利益を追求する方法の一つは、選択的に知識を求めたり回避することだ。言い換えれば、何を考えるべきか、それについていつ、どのように考えるべきかを、われわれは選択しているのである。


 このキリスト教の道徳的な枠組みに従えば、アイヒマンは有罪とされなければならない。運命と真の無知――これこそギリシアの古典的な悲劇の根本的な要素なのだが――というキリスト教以前の観念が、何よりも人間の自由を重んずる考え方にとって代わられたことは、もちろん、宗教的とは言えないような哲学にも反映している。たとえばカントは「根本悪」の分析を提供したが、「根本悪」とは道徳的な命法よりも自己本位の好みを優先する意思の決断のことである。(こうした好みは、自然の因果的秩序に属していて、それゆえ不自由であるため、それ自体は悪の根源にはなりえない)。カントは、「悪に向かう性向」は普遍的で、「主観的に必然的で」、「人間の本性に織り込まれている」と主張する――しかし、それは私たちの自由にあるのだから、「悪に向かう性向」は、やはり私たち自身の責任なのである、とカントは主張する。実は、その性向は自由の構造そのものに属しているのである。


 カント的に考える人にとって、道徳と自由の問題は、円と同面積の正方形を求めるような難問である。そして、この困難は、カントの道徳哲学とキリスト教神学の密接な関係を指し示している。カントは倫理も宗教も理性だけに基づけられなければならないと考え、ゆえに神(または神に対する信仰)が道徳的価値の起源でありうることを彼は否定した。しかし、『たんなる理性の限界内の宗教』で、カントは原罪についてのアウグスティヌスの教義を哲学的に言い表わした――それは、その哲学的な擁護論だったと言えるだろう。キリスト教の罪とカントの「根本悪」はどちらも人間の本性の普遍的で避けられない一面であり、人間の自由の結果でもあると考えられるのである。


 ジャン=ポール・サルトルのような無神論の哲学者でさえこうした自由のキリスト教的な原則に従っているのである。この原理のサルトルならではの表現は彼の「自己欺瞞」の概念である。キルケゴールの「知識と意志の相互作用」と同じように、このサルトルの考え方も、アイヒマンの責任逃れの無思考の根底にある自由を明るみに出すものだ。サルトルによると、責任逃れをしたがるわれわれの傾向は自由そのものを目指す行為なのだ。自己欺瞞は自由の拒絶なのだが、その拒絶という行為は、それにもかかわらず、自由な行為なのである。アイヒマンは裁判で、「命令を受け取るしかない下っ端だったので、私は従うしかありませんでした、それを回避することはできませんでした」と主張した。しかし、サルトルにとって、この種の弁明は、それ自体自由を示すものであるのだから、常に虚偽となるような――皮肉を込めたものであれ自己欺瞞であれ――言い逃れに等しいものだった。



」(つづく)
















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