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アンリ・カルティエ=ブレッソン: このモノクロの巨匠に勝てるのは誰か? [海外メディア記事]

  色は写真にとって重要な要素かどうか、というテーマを掲げ、カルティエ=ブレッソンとその影響を受けた写真家のカラーの作品を集めた展示会がロンドンで開催された。イギリスの写真批評家ショーン・オヘイガン(Sean O'Hagan)がその展示会の印象を『ガーディアン』紙に書いた一文を紹介する。

  絵画において重要なのは色か形かという論争が印象派後期にあったと記憶しているが、何かそれを思い出させる企画である。だが、おそらく、色が重要かどうかという問いはそれほど重要ではないだろう。オヘイガンも、最終的には、対象の内面――この記事では「沈黙」という言葉で示唆されている――にどれほど迫っているかを決定的な基準と捉えているようだ。

  冒頭のブレッソンの写真からは、男性の内面――おそらく、彼の孤独――が直(じか)に伝わってくるような思いがする。ブレッソンといえば、とかく構図の完璧さといったテクニカルな面で引き合いに出されがちだが、それはブレッソンの表面にすぎない、ブレッソンが偉大だったのは内面をつかみ取ろうとする点においてだったということを再確認できるのではないか? 
 

 ショーン・オヘイガンは、以前ダイアン・アーバスに関する記事を紹介したことがある。アーバスの記事のときはあまり感じなかったけど、結構まともな批評を書く人のようだということを再確認した。


 ダイアン・アーバス:ヒューマニストかそれとも覗き見趣味か … http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-07-29





Henri Cartier-Bresson: who can beat the master of monochrome?


Sean O'Hagan
guardian.co.uk, Wednesday 7 November 2012 14.58 GMT


http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2012/nov/07/henri-cartier-bresson-photography






アンリ・カルティエ=ブレッソン: このモノクロの巨匠に勝てるのは誰か?


新たなタイプのエキサイティングなロンドンの展示会が、現代最高のカラー写真家の幾人かを、カラー写真を避けることで有名だったアンリ・カルティエ=ブレッソンと対比させ競わせている



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アンリ・カルティエ=ブレッソン ブルックリン、ニューヨーク(1947年)




 アンリ・カルティエ=ブレッソンはかつてこう言った。「 写真をカラーで撮るだって? そんなことは受け入れられない、どんな写真にもある3次元的な明度の否定だよ」。この拒絶は、気取り(色彩なんて商売と広告の媒体さ)と常識に立脚していた――ブレッソンが生きていた頃、カラーの写真は誕生したばかりの初歩的な媒体だったのだ。だからこそ、ブレッソンのあまり知られていない作品を慎重に選んだセレクションが、最近の偉大なカラー写真家――彼らは皆、程度の違いはあるが、カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」を追及する精神に忠実だ――の幾人かと対比され競わされているのを見るのは何と面白いことか。


 ロンドンのサマセット・ハウスで今週オープンした『カルティエ=ブレッソン:カラーに関する疑問(http://www.somersethouse.org.uk/about/press/press-releases/cartier-bresson-a-question-of-colour)』展のキュレーターは、この展示会を開催した理由を次のように説明した。「私の提案は単純なものです。「決定的瞬間」を求める精神を取りあげて、カラーの写真家が実際どのように奮闘しているかを見てくれ、というものです。言い換えると、もし私たちがカラー写真に対するカルティエ=ブレッソンの懐疑的な見方を課題として見なすならば、それに対する答えがどれほどの説得力があるか? ということを示したいわけなのです」。



 その疑問に対する答えは、ここにその作品が集められた15人の写真家を見る限り、圧倒的なまでに説得力があるということになるだろう。しかし、賭けの対象はあの巨匠なのだ。展示会では、ブレッソンのあまり知られていないアメリカで撮ったわずか10枚の画像が、ボリス・サヴェレフ(Boris Savelev http://www.b-savelev.com/Clair2011_web/index.htm)の美しいほど寡黙な色調の作品からロバート・ウォーカー(Robert Walker)の騒々しい街並みに至る90枚のカラー写真が対比的に展示されている。展示されている作品の多くは、いま私たちがストリート写真と呼んでいるものに該当するが、カルティエ=ブレッソンが撮ったストリート・シーンは、ウォーカーの騒々しさや、ジョエル・マイロウィッツ(Joel Meyerowitz http://www.joelmeyerowitz.com/)の動きや、トレント・パーク(Trent Parke)の仕事を特徴づける形式的な構図と光が極端に混じり合っている作品などの隣に置くと、挑発的なほどの静けさを漂わせている。




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ボリス・サヴェレフ


 
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トレント・パーク


 
 当然のことながら、カルティエ=ブレッソンの作品は、この展示会に含まれている古い時代の写真家、とくにヘレン・レヴィット(Helen Levitt、1913年生まれ)、エルンスト・ハース(Ernst Haas、1921年生まれ)、ソール・ライター(Saul Leiter、1923年生まれ)、フレッド・ヘルツォーク(Fred Herzog、1930)たちと雰囲気や美的基準を共有している。それは、当時のストリートが今よりも静かだったというだけではなく、写真を撮ることが今ほど自問にみちた行為ではなかったし、人気のあるメディアでもなかったからだ。ヘルツォークのストリート写真がこの展示会のサプライズの一つだったが、それは、彼が1950年代でもカラーで撮影していたからというだけでなく、彼の表現方法の幅広さのためでもあった。「オールド・マン・メイン」(1959)は、褪せた色に対する讃歌でもいうべき店先を背景に通りがかった人を撮った静かなポートレートだ。25年後のストリート・シーンである「通りを渡るパウエル」(1984)は、光、動き、雰囲気の熟練した捉え方において映画的になっている。


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フレッド・ヘルツォーク:「オールド・マン・メイン」(1959)


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フレッド・ヘルツォーク:「通りを渡るパウエル」(1984)





 同じくらい驚くべき作品は、インド、モロッコ、エジプト、アイルランド西部を歩き回り、独特な作品を制作したベルギー生まれのハリー・グリエール(Harry Gruyaert)
だ。ストリートを撮った『モロッコ、ウワルザザテの街』(http://www.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult&ALID=29YL53KWMEB、1986)は、北アフリカの港町をまるでアメリカの中西部の街のような画像として伝えているのだが、そんな風に見ていると、ふと印象的な細部に気がつくことになる。店頭にアラビア語の文字が書かれていたり、ジャラバを身に着けてた人が自転車に乗っていたりすることにふと気づくのだ。



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ハリー・グリエール




 キャロリン・ドレイク(Carolyn Drake)の、キルギスタン、ウクライナ、中国の農村を撮った奇妙で、いろいろな感慨を呼び起こす写真も、人の心をつかんで放さないような作品だ。見慣れないが奇妙にも親しみを覚える別種のストリート・カルチャーが垣間見れるのだ。しかし、一つの画像でカルティエ=ブレッソンの精神に最も近づいたのはソール・ライターだ。その画像は――やさしい詩的な響きとともに――「パリ 1959」と題された作品だ。ブレッソンを想起させるのはこの場面設定だけではない、カフェのテーブルで手紙を書いている女性を撮った地味なストリート・ポートレートが内面を伝えているからなのだ。カルティエ=ブレッソンはかつて、ポートレートを撮影するとき自分は「ある人が黙して語らないものを求めている」と語ったことがあった。ライターは確かにその沈黙を捉えたのだ。



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 キャロリン・ドレイク


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ソール・ライター:「パリ 1959」




 この展示会の中心にあるカルティエ=ブレッソンの10の画像を見ているときに私の印象に残ったことは、この沈黙に対する感覚が彼のすべての作品に繰り返し現われるモチーフだということだった。ワシントンの店の外に物思いにふける女性のポートレートにはメランコリックなものがあるし、ブルックリンのディナーのランチトレイの上でウトウトしている――あるいは疲れ切って眠りこけている――男性の画像には孤独を感じさせるものがある。モノクロの濃淡や質感はこうした暗い気分を増幅させるだけだが、これらの写真が投げかける多くの疑問の一つは、もしカラーが彼のメディアだったら、その気分はどれほど変わるだろうかという疑問だ。



 カイロのカフェの外にいる4人の男性を撮ったグリエールの作品を見れば、色彩は全く問題ではない、気分やトーンをいかに捉えるかが問題だ、とあなたは思うだろう。それから、けばけばしい巨大な電球を模した公共の広場の彫刻作品のかたわらで物思いにふけるスーツ姿の男性を撮ったメラニー・アインツィク(Melanie Einzig)の先見性のあるポートレートに出くわすと、あなたは、やはり色――明るく、厚かましく、光り輝く色――が写真を決定づける要因なのだと思いはじめる――それは、この電球が男性の表情と劇的なまでに対照をなしているからだ。


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メラニー・アインツィク




 この展示会は、答える以上の問題をいたずらっぽく提起しているが、おびただしいカラー写真は、確かに、私たちが住む過剰な世界を反映し――そして、時としてそれを誇張してもいる。カラーの写真よりもカルティエ=ブレッソンの白黒の写真の前にいる時間の方が長い人もいることだろう。それは、とりわけ、騒々しい色彩のただ中にあって、ブレッソンの写真はもっと無時間的で、観る人の心に共鳴を呼び起こすから――そして、もっと沈黙を守っているからなのである。





」(おわり)



















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