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悪 その5:苦しみを意味づける [探求]

クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの5回目。

 ニーチェがメインに取り上げられるが、おそらく「悪の問題」に対するニーチェの貢献はあまりないようだ。むしろ、「悪」が「苦しみ」に置き換えられたうえで、「苦しみからの解放」という点に関しては、ブッダやイエス・キリストの考え方の方がラディカルだった、という結論をカーライル女史は下している。 




Evil, part 5: making sense of suffering

Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 12 November 2012 09.00 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/nov/12/evil-making-sense-of-suffering






  悪 その5:苦しみを意味づける


 私たちの文化の基本的な目的の一つは、苦しみを解釈し、苦しみを意味あるものにすることである。神話も芸術も宗教もすべてはこの課題を果たすものなのだ


 

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 「ニーチェにとって現代の悪の問題は虚無的な世界のうちに意味の発生源を見つけることだった」




 人間の経験のいたるところに悪と苦痛が満ちていることが、神を信ずることに対する最も深刻な課題を提示していることは確かなことだ。しかし他方で、この同じ悪と苦しみこそが、なぜかくも多くの人々が宗教の必要性を感じる重要な理由ともなっているのである。フリードリヒ・ニーチェが神の死を宣言したことは有名だが、彼はこの問題にひどく敏感だった。ニーチェには古典的な悪の問題を扱う時間があまりなかったが。キリスト教道徳を激しく批判した彼によれば、善悪の概念とは、複雑な権力闘争の過程で作り上げられたものであり、弱者がより強大な抑圧者の自然の衝動を切り崩す手段だった。


 
 しかし、苦しみは、ニーチェにとっても、哲学の中心的な問題の一つだった。同じドイツ人だったアルトゥール・ショーペンハウアー――有名な悲観主義者だったショーペンハウアーは、「長生きすればするほど、よりはっきりと、人生は総じて失望だ、いや虚偽だと感じることになるだろうと書いた人だ――の影響下にあったニーチェは、苦しみと悲劇を生にとって不可欠なものと見た。しかし、人間にとって本当に耐えがたいものは苦しみそのものではなく、意味のない苦しみなのだ、と彼は主張した。私たちの文化の基本的な目的の一つは、苦しみを解釈し、苦しみを意味あるものにすること、それゆえ苦しみを耐えられるものにすることにある。神話も芸術も宗教もすべてはこの課題を果たすものなのだ。



 ニーチェによれば、われわれが神を創造したのであって、その逆ではない。われわれは、苦しみの説明やその慰めを与えてもらうために、まず神々を作り上げ、次いで唯一神を作り上げた。神が存在することになって、われわれは――アウグスティヌスと同様に――苦しみとは罪に対する罰なのだと信じることができるようになった。神はわれわれの苦しみの偉大な証人でもあって、神には測りがたい目的があるからわれわれの苦しみも価値あるものにしてくれ、われわれの痛ましい奮闘を最終的に配慮してくださることだろう。奇妙なことに、神はわれわれの苦痛に対する報酬を与えてくれるのかもしれないのだ。




 19世紀も終わり頃になると、神の観念はもはや支持できないものになったとニーチェは考えた。科学的な説明が宗教的な説明にとって代わってしまったからだ――科学への信仰が強くなるにつれて、神への信仰が減少したからだ。しかし、当然ながら、苦しみに意味を与えようとする必要性は、それまでと変わらずに差し迫ったものだった。だから、ニーチェにとって現代の「悪の問題」とは、宗教的信念を擁護したり悪の存在の原因をつきとめることにあるのではなく、虚無的な世界のうちに意味の発生源を見つけることだった。そして、苦しみの最中に頻繁に発せられる「なぜ(こんなに苦しまなければならないのか)? 」という問いは、苦しみの原因を求めているというよりも、苦しむことの意味を知りたいという欲求を表わしている、と言うべきなのである。



 苦しみに対する21世紀の反応について、ニーチェが生きていたらどのように考えただろうか? 現代は苦しみを意味あるものにすることよりも、苦しみを回避したりその埋め合わせを求めたりすることに熱心だ、と彼は不平を述べたかもしれない。創造性――それをニーチェは、私たちを救うものと見なしたのだが――は、もうかる商売になってしまった。広告会社の幹部やハリウッドの映画製作者たちがその想像力を傾けて何をしているかといえば、富を得たり財産を貯めたり愛を見つけたりすることで、われわれは苦しみから逃れられる、と信じ込ませようとしているからだ。

 
 確かに、たとえば、TVタレントのショーで見かけるように、「逆境に打ち勝つ」ことは皆が好む文化的なテーマだ。ここには、死に至らない程度の苦しみは人間を強くすることがあるというニーチェの見解にわずかに似たものがあるだろう。この見解のもっと啓発的な例は、勝利へと登りつめる中で苦痛やけがや障害を克服するスポーツのヒーローたちが与えてくれる高揚感である。しかし、こうした例があるからといって、苦しみそのものがもっと有意義になったりするだろうか? それらの例が、ポップスターやプロサッカーの選手やオリンピックのメダリストになれない人々の苦しみを変えたりできるのだろうか? もしあるとしても、どうしてできるかはハッキリしない。


 現代の西欧人が仏教の教えに関心を向けているのは多分もっと有望なのだ。仏教は苦しみについての無神論的な解釈を提供しているからだ。悪の問題に関して言えば、仏教はキリスト教とは逆のアプローチをとる。神が創造した世界の本質的な善性で始める代わりに、仏教の世界観は苦しみを根本的な原理と見なす。ブッダは四つの「高貴な真実(四聖諦)」の概要を解くことで自分の教えを要約したが、その真実のうちの最初は、苦しみが生きる上での普遍的な性格であるということだった。このことは、キリスト教の神学が「悪の問題」と格闘しなければならないのに対して、仏教徒は人生が価値あるものであるだけでなく、時には楽しいものですらあるのは何故かを説明するひつようがある、ということを意味する。とても面白いことだが、仏教徒の答えは、悪そのものは現実に存在しているものではないというキリスト教の考え方に似ているのである。普通、幸福が世界のどこに由来するかといえば、それは幻想に由来する、と仏教徒は主張するのだ。



 仏教の教えによると、高貴な真実の最初が人間の生に意味と価値と形を与えるのだが、それは、人間が苦しみから自分自身を解き放つことができるからだ。この解放の詳細は他の三つの真実で述べられるが、その三つの真実は、苦しみの原因、それを終わらせる可能性、その解放を成し遂げる方法に関わっている。ブッダは、自分の苦しみを深く親密に知ることによってのみ人間にそなわる真の潜在的可能性を果たすことができる、ということを見出したのだ。


 

  ニーチェは、ショーペンハウアーから仏教について聞いていたのだが、仏教についてはほとんど無知だった。ニーチェは仏教的世界観を――キリスト教とまったく同じように――徹底的に厭世的で虚無的なものと見なした。しかし、ニーチェは西欧のすべての哲学者の中でも最もラディカルだったが、イエス・キリストとブッダはニーチェ以上にラディカルだった。ニーチェは既成の信仰に対して恐るべきほど知的な戦いを挑んだのだが、これら二人の宗教の師は、苦しみからの解放は知性以上のものを必要とするのだと強調した。とくにブッダは、思考の習慣はわれわれが陥っている罠の一部であることに気づき、だから彼は、苦しみから抜け出る道は考えて得られるものではないと主張したのであった。そして、イエスも、心の転換を説いたのであって、観念や価値観(といった知性の産物)の転換を説いたのではなかったのである。




  」(つづく)



















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