So-net無料ブログ作成
ブログパーツ
 

悪 その4 : 社会的次元 [探求]

 クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの4回目。

 「悪」について語るとき必ずと言っていいほど引き合いに出されるミルグラムとジンバルドーの実験が今回のテーマである。

 この実験の概要は、どんな道徳的な人でも、ある種の条件下では、容易に非人間的な振る舞いをするようになる、ということだ。その「条件」とは実験室だったり牢獄だったりするのだが、しかし、今のネット社会の匿名性もそうした「条件」にきわめて類似したものがあり、悪の温床になりやすい。ある意味で、今のネット社会は、ミルグラムやジンバルドーの実験室の拡大版を提供していると見なすこともできるかもしれない。

 しかし、こうしたことは、とうの昔にプラトンが指摘していたことである。


 ・・・・という具合に、人間の暗黒面の存在を証明する20世紀の心理学の実験からネット社会の匿名性に話題が移り、最後にプラトンの『国家』に行きつくという素敵な構成になっている。





 Evil, part 4: the social dimension

Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 5 November 2012 08.29 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/nov/05/evil-social-dimension







悪 その4 : 社会的次元

現代社会は、これまで以上に悪を促す条件を生み出しているか?



Plato-and-Aristotle-008.jpg

ラファエロのフレスコ画『アテネの学堂』に描かれたプラトンとアリストテレス




 このシリーズではこれまで、私は悪を個人的問題――個人的な美徳の問題か、またはその欠如――であるかのように扱ってきた。罪と自由の関係を強調するとき、アウグスティヌスやキルケゴールのようなキリスト教の哲学者は、人間の置かれた条件をよく見れば、悪への洞察も得られるだろうと決めてかかっているように見える。そうした態度に含意されているのは、悪は歴史や文化とは何の関係もないということだ――少なくとも悪に関する限り、原罪が重要な唯一の歴史的な出来事であるかのようなのだ。



 20世紀になると、悪の心理についての一連の科学的実験がそれとは非常に異なったことを語ってくれた。とりわけ名高い実験としては、エール大学とスタンフォード大学で行なわれたスタンリー・ミルグラムとフィリップ・ジンバルドーによる実験がある。ミルグラムとジンバルドーがともに発見したことは、ある種の条件下では、教養が十分あり明らかに普通の人間である大学生たちが計り知れないほど残酷な行為をなしうるということだった。権威者の指示の下で、ミルグラムの学生たちは、貧弱な記憶に対する罰として苦痛を伴う電気ショックを喜んで与えた。その3分の2は、「被験者」が苦しみのあまり叫ぶ中、電圧を致命的なレベルにまで引き上げた。これらの結果は、服従がどれほど危険で不道徳なものになりうるかを証明した。ジンバルドはスタンフォード大学の心理学部で刑務所の環境を実験的に作り上げ、学部学生のグループに看守と囚人の役割を割りふった。数日たつうちに、看守は囚人をとても残忍で侮蔑的に扱ったので、実験は早期に終了しなければならなかったほどだった。



 2004年にスタンフォードの監獄実験のことを思い返しながら、ジンバルドーは、善なる人間に邪悪なことを行わせる条件について雄弁に書いた。刑務所は、通常の社会から切り離され、残虐行為が正当化されうる制度的な場所である。制服やサングラスを身に着け、囚人を番号で識別し看守を役職名で呼び、時計を撤去し自然光を遮る、こうしたすべてのことが参加者を非人間化しそれまでの個人とはかけ離れた存在へと変貌させるのに一役買った。この「全面的に権威主義的な状況」では、看守のほとんどがサディスティックになるが、囚人の多くは「感情的に崩壊する兆候を示した」。おそらく最も興味深いのは、ジンバルドー自身が、刑務所の所長の役割についたとき、すぐに変貌が起こったことに気づいたことである。「私はすぐに組織の厳格な権威者のように話したり歩いたり振舞い始め、心理学の研究者としての私の配慮を信頼している若者たちの欲求よりも「私の牢獄」の安全のほうを心配するようになったのである」。



 ジンバルドーは、「この強力な実験から引き出される永続的な負の帰結はなかった」と主張したが、彼の結論は科学的実験そのものについて倫理的な問いかけを提起した。研究室は、刑務所と同様に、苦痛を加えることが是認されうる特別な環境を提供しているのではないか? 白衣や非人称的な記録方法は、科学者と被験者の両方を非人間化するのではないか? 


 こうした疑問はさらに大きな哲学的な問題を指し示している。つまり、現代社会は、これまで以上に悪を促す条件を生み出しているか? 特に、科学やテクノロジーは私たちを非人間化しているのか? といった問題がそれである。現代のテクノロジーは、確かに人々がより安全に匿名のままでいられるコミュニケーションのあり方を生み出した。例えば、インターネットを考えてみよう。まさにこの場所である。近年では、偽名を隠れ蓑(みの)にしたネットでの荒らしや辛辣なコメンテーターのオンラインの悪意ある振る舞いが、大いに話題になり文化的な現象となった。誰にも知られずにふるまえる機会が与えられれば、自由と自分の力を味わえて甘美な気持ちになるのは自然のことかもしれない――夜になると街の裏側に好んで出かけ、出会いがしらに子供たちを踏みつけるスティーブンソンのジキル博士とハイド氏のように。しかし、そのような状況にあって、私たちは事態を本当にコントロールしているのだろうか? ミルグラムの電気ショックを与える被験者たちは、事態をコントロールできていると思っていたし、フィリップ・ジンバルドーもそう思っていた。しかし実は、彼らも実験の一部であったのだ。



 いつもそうだが、プラトンはこの論争に貢献できるだけのものをもっている。『国家』において、ソクラテスの弟子のグラウコンは羊飼いのギュゲスの物語りを語っている。ギュゲスは、地震にあって地下に降り、彼を見えない存在にしてくれる指輪を見つけた。「この発見をした後で、彼は王に報告することになっていた一団に何とかもぐりこみ、到着すると彼は女王を誘惑し、彼女の助けを借りて王を攻撃し殺害し、王位を奪い取ってしまった」とグラウコンは言った。



 プラトンはこの物語りを、彼自身が住むアテナイの社会に広まっていた不道徳を描くために用いた――アテナイは、結局のところ、最も賢明でもっとも有徳な市民に死刑の宣告を下した社会だからだ。プラトンは、同時代の人間が偽善と偽りを幸福にいたる最も確かなルートと見なしていると言いたいのだ――なぜなら彼らは皆、有徳である(あるいは正義の人である)という名声の恩恵を得たいと思っていながら、可能な時にはいつでも、悪徳(あるいは不正義)によって自分の利益を高めようとしているのだから。『国家』において、プラトンは、ソクラテスの声を借りて、真の幸福と自由は徳をもって生きることにのみ由来するがゆえに、こうした同時代人の考え方は道徳的に間違っているだけでなく見当違いでもあると主張したのだ。


 

  ギュゲスの指輪の物語りは、悪とは単に人間の本性の一つの事実にすぎないことを示唆しているように思われる。匿名性が行動に対する責任から私たちを解放するとき、私たちは喜んで道徳を捨て、自分を幸せにしてくれるだろうと思われるものの追求を邪魔する人に対して誰であれ危害を加えようとする。こうして、私たちはギュゲスのエピソードを指摘して、悪は特に現代的なものではないと主張できるのである。しかし、他方で、プラトンは、私たちの悪への傾向が現れる条件を具体的に説明するために、神話や魔法の指輪に頼らなければならなかった。現代では、テクノロジーがそうした魔法を生み出してしまい、誰からも見られないというおとぎ話が日常の現実になってしまったのである。






」(つづく)


















コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。