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悪 その3 : 自由が私たちを悪にするのか? [探求]

 クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの3回目。アウグスティヌスから19世紀のキルケゴールへとステージは移る。

 まだこのシリーズ、しばらくは続きそうかな? 
 





Evil, part 3: does freedom make us evil?
Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 29 October 2012 08.30 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/oct/29/does-freedom-make-us-evil





悪 その3 : 自由が私たちを悪にするのか?

キルケゴールは、人間の罪は自由に直面したときの高慢と恐れの結合の結果だと考えた




Kierkegaard-008.jpg

19世紀のデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールのスケッチ




 先週見たように、アウグスティヌスは、悪が積極的な力ではなく善の欠如であると主張することによって、神に対する信仰と悪の経験を両立させようとした。これは知的には意味のある形而上学的教義かもしれないが、悪が現実に及ぼす影響が正当に捉えられていないと感じる人も多いだろう。結局のところ、こうした悪の影響に私たちは耐え忍ばなければならないわけだし、そのために、どうして神がこんなおかしい世界を創造したのかという問いが生じるからだ。


 アウグスティヌスの神義論の第二の側面は、しばしば「自由意志擁護論」と呼ばれるが、それはこうした反論に対する強力な答えを提供するものだ。この論証は、人間による不正行為、あるいは「道徳的な悪(moral evil:ここでは、人間の手による悪という意味)」にしか当てはまらないものだが――しかし、アウグスティヌスにとって、それは間接的にありとあらゆる悪を説明するものだ。というのも、そうした悪は罪に対する正当な罰であるからだ。これは、多くの理性的でリベラルな人々にとって納得するのが難しい考え方だ。しかし、少なくとも、苦痛を与える他の原因よりも道徳的な悪は説明の必要があるという考え方は擁護できるかもしれない。現代の世界では、「道徳」的悪(moral evil)と「自然」の悪(natural evil)との区別はかつてほど明確でなくなっているのだが、それは、人間の行動が、飢饉や干ばつや洪水や疫病のような環境問題に一役買っているからである。こうした問題が防止ができなくても、普通はその影響を減らすためにもっと多くのことができるものだ。私たちは膨大な物的資源や信じられないほどの科学技術をもっているので、悪の問題は、神と同じくらい私たち自身にも関わっているのだ。確かに私たちは、一体となって、世界をより良い場所にすることができるわけだが――なぜそうしないのか? 


 アウグスティヌスは、神によって創造されたすべての事物――もちろん、人間も含めて――が善であるのは、神の善性を共有する限りで善なるものだ、と考えた。この考え方は、「善」とは私たちにとって何を意味するのかを定義するとともに、私たちの善性は神に由来し神に完全に依存しているということを示唆してもいるのだ。「意志が上にあるものを見捨てて低いものに向かうとき、意志は悪になる――それは、意志が向かうのが悪だからなのではなく、上から下に向きを変えること自体が邪悪だからなのだ」と彼は『神の国』で書いている。


 アウグスティヌスによれば、私たちは自由なので、神に背を向け、神に逆らい、神に頼らずに――あたかも、神がまったく存在していないかのように――生きようとすることもできるのでなければならない。自由意志擁護論の巧妙なところは、その理論が神を信じる人も信じない人も含んでいることだ。アウグスティヌスは、無神論者に対して、君たちの無信仰は、神によって与えられた自由(それが、神を拒む自由であっても)の表明なのだと指摘することで、答えることができた。悪は自由の帰結なのだというのが、自由意思擁護論の言い分だ。自由は善なるものであり、それゆえ、私たちは悪を自由の不都合な副作用として受け入れなければならない、というわけである。


 しかし、なぜこれほど多くの人々が、本当に善なるものを損なうような形で、自由を行使しようとするのだろうか? アウグスティヌスによれば、神を拒絶することは普遍的な人間の傾向である。そこには、神の存在をキッパリ否定する立場だけではなく、ありとあらゆる自己主張も含まれる。この上なく素敵で品行方正な人々の造反はとても微妙で取るに足らないかもしれません。それでも、ちょっとした利己的な行動や欲望が証言しているのは、アウグスティヌスにとって、人間の罪深さの根源である私たちの高慢である。私たちは皆、自分のやりたいようにやろうと思う高慢さである。



 19世紀には、セーレン・キルケゴールは興味深い仕方でアウグスティヌスの神学のこの側面を発展させた。キルケゴールは、形而上学的な悪の問題を解決することにほとんど関心をもっていなかった。彼が焦点を当てたのは、人間の置かれた状況とキリスト教の信仰という実存的な課題だった。しかし、影響力のあった不安の分析の中で、彼はアウグスティヌスの神義論の二つの重要な考え方を結合させた。その二つとは、悪とは本質的に消極的なものだという考え方と、悪は自由の帰結であるという考え方である。


 キルケゴールは、私たちの自由自体が大きな無(a big nothing)であると考えた。彼は自由を、人間の存在の中心であくびをしている裂け目――決断や行為で満たされなければならない裂け目――として描写した。しかし、もちろん、この空虚が満たされることは決してない。自分の自由の深淵をのぞきこむとき、私たちは気分が悪くなりめまいを感じる、とキルケゴールは言う。私たちは後づさりする。その程度の無であっても、私たちは不安になる。私たちは、実は、自分の自由を恐れているのである。


 人間は根本的に高慢で、常に背伸びをしようと望み、自分に課される制約を破ろうとし、神に依存していることを否定しようとするという点で、キルケゴールはアウグスティヌスに同意する。しかし彼はまた、人間が高慢であるとともに恐れを抱いていること――私たちが自分の存在の制限のない次元――それが自由なのだ――から尻込みするものであることを強調した。そのために私たちは非常に矛盾した存在になるのだ。私たちはすべての制約から自由になりたいと思いながら、同時に、この自由は私たちを怯えさせてもいるのだ。人間の罪深さは、高慢と恐れとのこの不幸な結合の結果なのだ、とキルケゴールは言う。だから、アウグスティヌスは謙虚さの美徳を強調したのに対し、キルケゴールは、私たちが自由に対して謙虚であると同時に勇敢でもある必要があると指摘する。「謙虚な勇気」だけが、罪へと傾斜する人間の普遍的な傾向に対抗することができるというのだ。



 キリスト教の罪の概念については多くの人が疑わしく思っているが、しかしこの伝統的な教義のキルケゴールによる再解釈は、宗教的な観点からだけでなく心理学的な観点から見ても示唆に富むものだ。アウグスティヌスは、アダムとイヴの原罪が子孫へと――性交を通して――生物学的に伝えられていくと考えたが、キルケゴールは罪のこの文字通りの説明を拒絶する。私たちが善になれないのは、私たちが自分の望むほど自由になれなかったり、自分の望む以上に自由になろうとすることに対処する仕方に起因する、とキルケゴールは主張する。反抗的で不安定なティーンエイジャーのように、私たちは自立を切望し権威を嫌っていながら、自分に対する責任を取ることを恐れる。謙虚さと勇気の重要性を強調することで、キルケゴールはこうした苦境に対処する方法――道徳のための非道徳的な根拠――を示唆するのだ。そして、悪の根底には恐れがあることを指摘することで、キルケゴールは被害者と加害者の両方に共通するものを露わにするのである。



」(つづく)


















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