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悪 その2:悪は現実に存在するものか?  [探求]

 クレア・カーライル女史による「悪」の本性について考えるシリーズの2回目。 
 
 4世紀のキリスト教の哲学者アウグスティヌスの考え方と、それと同じ洞察が今日の精神病理学の研究者であるサイモン・バロン-コーエンの理論に見出されることが述べられている。

 ちなみに、バロン-コーエンの理論については、以下を参照されたい。

「悪についての科学」  ・・・  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-19



Evil, part two: does it exist?
Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 22 October 2012 08.30 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/oct/22/evil-does-it-exist





悪 その2:悪は現実に存在するものか? 

聖アウグスティヌスの理論は、悪とは「善の不在以外の何ものでもない」というものだった――これは現代の科学によって支持される考え方だ


  
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山の上での誘惑:ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Duccio di Buoninsegna)作『キリストの受難と復活のエピソード』の一部




 私たちの世界に悪が存在することは、慈愛に満ちた創造主である神に対する信仰と軋轢(あつれき)を起こし、手ごわい疑問という火花を散らすことになる。信仰心の厚い人にとって、信仰が懐疑や困惑と相争うことになるのだから、そうした問いは何よりも自分の存在を賭けた問いとなる。聖書に出てくるヨブは、自分にとって大切なすべて失ってしまう正義の人だが、彼は今でも、信仰と懐疑が相争う様子を強力に伝えてくれる。しかし、「悪の問題」は、何世紀もの間、哲学者や神学者の心に重くのしかかってきた知的な問題でもあるのだ。



 悪の問題に対する回答で最も影響力のあったのは聖アウグスティヌスに由来する。若い頃、アウグスティヌスはマニ教というキリスト教的な宗派の教えに従っていた。マニ教の神学の中心には、善と悪の勢力が宇宙規模で戦いをくり広げているという考え方があった。もちろん、この考え方は、悪の問題に対する一つの考えられる解決策を提起するものだ。つまり、すべての善性や純粋さや光は神に由来し、悪の闇は別の起源をもっている、という解決策である。



  しかし、それは神の全能の権限を損なうものなので、アウグスティヌスはこうした宇宙的二元論を異端と見なすようになった。もちろん、彼は神が絶対的に善であることに固持しようとした。しかし、もし神が万物の起源であるならば、悪はどこからやって来たのか? この問いに対するアウグスティヌスのラディカルな答えは、悪は実際にはどこからかやって来きたものではない、というものだった。悪が積極的な力であるという考え方を拒絶しながら、アウグスティヌスは、悪とは「善の不在にすぎないものを表わす名前」にすぎない、と主張したのである。


 一見これは哲学的なごまかしのように見える。アウグスティヌスは、悪を存在から締めだす形で定義しようとしたのかもしれないが、そう定義したからといって、悪の問題を最初に生み出すきっかけとなった苦痛や苦しみや残忍な行為が現実に存在しなくなることにはなりえない。20世紀のカトリックの作家であるシャルル・ジュルネ(Charles Journet)が言ったように、悪が非存在だとしても、それは「石に刻まれた文字のように、恐ろしい現実性を持つことがあるのだ」。アウグスティヌスの見解をどのように擁護するとしても、それは、悪についてのアウグスティヌスの説明は経験的というよりも形而上学的なものであることを指摘することから始めなくてはならない。言い換えれば、アウグスティヌスは、私たちの悪の経験が非現実的であると言っているわけではない。それどころか、神が創造した世界は当然ながら善に向けられているのだから、善の欠如は、いかなるものであれ、苦痛で、不正で、すぐにでも修復する必要があるものに感じられるだろう。空腹とは「単に」食べ物の不在であるにすぎないと言ったからといって、空腹が強烈な苦痛を伴うことを否定することにはならないのである。



 悪とは善が「存在しないこと」、善が失われている状態だというアウグスティヌスの成熟した考え方の一つの帰結は、悪は私たちの理解によっては捉えられないものだ、という点にある。不当な残虐行為や子供の癌のような無意味な「自然の」出来事に直面したときに私たちは直感的に「不可解だ」といった反応を示すが、アウグスティヌスの洗練された悪の形而上学はそうした反応の裏づけとなるものなのだ。アウグスティヌスが強調するのは、悪は実体的な存在をもっていないので、最終的には説明しえぬものだということだ。「それゆえ何人も、私が知らないと知っていること(what I know that I do not know)を私から知ろうとしてはならない。ただし、知りえないものであると知っておかなけらばならないこと(what must be known to be incapable of being known)を、知らないでおこうとするためであるならば、話は別であろうが」。ついでに言うと、興味深いことだが、悪についてのこの不可知論は、神は私たちの理解の限界を超えるものだと主張する「否定神学」の反映なのである。



 だから、彼自身認めるように、悪の問題に対するアウグスティヌスの 「解決策」は、神に対する信仰は擁護するが、宗教的な信念に重圧を与えるような悪の行為をきちんと説明することはないのである。悪の及ぼす結果は破壊と無秩序になりがちだ――自然や人心を歪め深い傷をのこす――と彼が指摘するのは正しいだろう。しかし、信者も非信者も、この考え方が悪の力を正当に評価するものではないと感じるだろう。明らかに悪は消極的ではない仕方で存在していることについて――たとえば、ホロコーストや大虐殺がしばしば綿密な計画や技術革新や正当化の創造的なプロセスを含んでいるという事実について――もっとましな説明を私たちは求たくなるだろう。



 しかし、驚くべきことに、アウグスティヌスの神義論の根本洞察は、最近の科学で支持を得たのだ。2011年に出版された著作『ゼロ度の共感(Zero Degrees of Empathy)』において、ケンブリッジ大学の精神病理学の教授であるサイモン・バロン-コーエン(Simon Baron-Cohen)は「人間の残忍さについての新しい理論」を提唱している。彼の目標は、「悪」という「非科学的」な語を「共感の低下(empathy erosion)」という観念によって置き換えることである。「残酷であるとか悪であると言われる人々は、単に、共感スペクトルの一方の極に位置しているだけなのである」と彼は書いている。(もっとも彼が指摘しているように、この極にいる人でも、共感のスケールの上位にいる人々と同じように何の残忍さも示さない人もいる――そういう人間は単に社会的に孤立しているのだ)。



 共感の喪失[という概念]は、積極的な力というよりも善性の欠如であるという点で――あるいは、もっと道徳的ではない言葉を使うならば、正常な機能の停止であるという点で――、アウグスティヌスの悪の概念に似ているものがある。少なくともこの点で、バロン-コーエンの理論は、アウグスティヌスがマニ教に対して行なった主張、つまり、悪とは独立した現実の存在ではなく、本質的に欠如あるいは喪失であるという主張をくり返しているのである。



 アウグスティヌスと同様、バロン-コーエンは、悪という概念は、それ自体が不可解なので、何かを説明する力を何ももっていないと強調する。しかし、まさにこの理由のために、彼は悪の観念をミスリーディングなものと見なすのだ。「悪」に換えて「共感の停止」を用いるとき、彼は焦点を科学的に研究できるものにシフトさせる。もちろん、残忍な人の脳や遺伝子を調べることがその人々の残忍さを本当に説明するのか、それとも純粋に物理的な言葉で言い換えているだけなのではないかという問いを発する哲学者もいるだろう。



 科学者たちは、人間の本性の研究を神学や哲学から心理学や遺伝学や神経科学へとシフトさせることに熱心だが、バロン-コーエンのような理論も、アウグスティヌスが4世紀に対処しなければならなかったのと同じやっかいな問いに直面することになるのだ。その問いとは、悪と自由との関係はどのようなものか? という問いだ。そして、いわゆる悪が、文字通り、無であるならば、道徳的責任はどこにいってしまうのだろう? 来週、私たちはこれらの問いに対する答えのをいくつか考察することになるだろう。



」(つづく)



















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