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悪 その1 : 悪についてどう考えたらいいのか?  [探求]

 イギリス『ガーディアン』紙に「悪」についてのシリーズものが登場したので、紹介することにしよう。何回続くのか、まだ判らないのだが。

  著者は、私は知らなかったのだが、 クレア・カーライル(Clare Carlisle)というまだ若い女性の哲学研究者で、キルケゴールについての著作がある人のようだ。


 何かと凶悪事件に事欠かない世の中であるので、「悪とは何か」という問いは、ジャーナリズムでも好んで取り上げられるテーマだ。このブログでも、下に掲げたように何度か取り上げたことがあった。しかし、一度包括的な見解を紹介するのもそれなりの意義があるだろうと思ったので、このシリーズものを紹介する次第である。


 これまで紹介した「悪」をテーマにした記事。
 
 「誰でも暴力的になりうるか?」 ・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-05-12
 「悪についての科学」  ・・・  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-19
 「陳腐な悪のテロリズム」 ・・・ http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-07-27

  


Evil, part one: how can we think about evil?
Clare Carlisle
guardian.co.uk, Monday 15 October 2012 08.30 BST

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/oct/15/think-about-evil






悪 その1:悪についてどう考えたらいいのか?


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悪について考えることは私たちすべての心の中にある闇と折り合うことを含むという宗教的な考え方は、今日でも考えるための材料を提供してくれるのだ


  
 
 「悪」とは強烈な言葉であり、物議をかもしてきた言葉だ。今日その語は、ムーアの殺人鬼(Moors Murderers)や組織的な幼児虐待や大量虐殺といった例外的に残忍な行為を言い表すのに取っておかれる傾向にある。そうした行為が悪と記されるのは、その行為――とその行為者――が忌まわしいからという理由だけではない。悪には何か計り知れないものがあるのである。それは、理性の光によっても理解できないような深く見通せない暗闇であるようなのだ。ある殺人者が人を殺したのはその殺人者が悪だからだと言うのは、実際は、動機の欠如を指し示すことだ。人間の動機というものは普通混乱しているものだが、悪はそれとはまったく違って、冷酷でぞっとさせるような純粋さをもっている。「想像を絶する悪」とか「言語道断の悪」といった言い回しは、悪という語の使用が、言いえないものを言い説明できないものを説明するためのものであることを明らかにしているのだ。


 であるならば、悪についてどう考えたらいいのだろうか? おそらく、我々はそんなことはできないし、すべきではないのかもしれないのだ。よく知られているように、ルートヴィヒ・ヴィットゲンシュタインは「語りえないこと」については沈黙しなければならないと書いた――この一文は、学術論文を終わらせる便利な方法を探す低レベルの哲学者によって好んで引用されるものだ。もっと現実的なレベルにたつと、悪の犠牲者のほとんどが見出すことだが、単に悪に対処するだけでも神経がすり減ってしまうのだ――苦しみの最中にある人は、「なぜだ?」とか「なぜ私なのか?」という問いに対する解決を見つけることだって難しいのかもしれないのだ。こうした問いかけは誰にでも身に覚えのある問いかけであるはずだが、このことは、悪にはさらに考えるべきものがあることを示唆している。語りえないものには沈黙しなければならないというヴィットゲンシュタインの見解は、哲学的思考の真の主題はまさに「思考されていないもの」であり、それどころか思考できないものでさえあるというマルティン・ハイデガーの主張によって反撃できるのである。



 キリスト教の伝統は、悪の本性や起源や意義についてどう考えればいいかについてぼう大な材料を提供してくれる。それは、ある意味、西洋の哲学の歴史がキリスト教と密接に関連していて、道徳や人間性についての世俗的に見える議論であっても神学的な観念を含んでいる――たとえ表立って言われていないとしても――からなのだ。しかしもっと具体的に言えば、キリスト教の創造の教義が、悪の問題をとりわけ差し迫ったものにするのだ。もし世界が完璧に善で、正義で全能である創造者によって設計され生み出されたものであるならば、なぜ世界は悪を含んでいるのか? 神が悪を創造しなかったならば、悪はどこから来たというのか? それに、神はなぜ人間がきわめて残忍な行為をなしうるようにしようと望んだのか? 



 この宗教的な文脈では、悪の概念は、単なる邪悪さよりも、ずっと捉えがたく包括的なものとなる。キリスト教の信者は、様々な種類や程度の苦しみ、不快、逸脱、無秩序を説明する必要に迫られる。「悪の問題」を議論する中で、神学者は人間の悪行という「道徳的な悪」と、地震や津波のような破壊的な事象によってもたらされた「自然の悪」を区別するようになった。神学者は、しばしば「形而上学的悪」と記述される――いつかは死ななければならないという私たちの運命、私たちの有限な知識、そして体力も限られていること等――明らかに不完全な生そのものの条件についても心を配らなければならなかった。なぜ神はすべてをよりいっそう良いものにしなかったのだろう? 



 デイヴィッド・ヒュームは1779年の『自然宗教に関する対話』において悪の問題の簡潔な要約を与えた。「神は悪を防ごうと望んでいるが、それが出来ないのか? もしそうならば神は無力だ。神は悪を防ぐことはできるが、それを望んでいないのか? もしそうならば、神は悪意ある存在となる。神は悪を防ぐこともできるしそれを望んでもいるのか? もしそうならば、悪はどこから来るのか? ――有神論的宗教の批判者の多くにとって――ヒュームもその一人だと見ていい――、これは解決できる問題ではなく、創造主である神への信仰に対する根本的で決定的な異議申し立てなのである。


 
 ヒュームの(修辞的な)疑問に対するハッキリした世俗的な応答は、世界があるがままにあり、悪もその他すべてもあるがままにあることを単純に受け入れることだ。この見解は、自然とは、きわめて複雑な網状の「生存のメカニズム」を含む進化のプロセスをとおして形成されてきたのだから、道徳的には中立的なものだ、と指摘することでさらに展開できるだろう。あるいは、「悪」とは人間が生のある側面を記述するために使用する言葉であって、私たちの倫理的あるいは宗教的な理想主義が悪を問題あるものに見せているにすぎない、という主張もあるかもしれない。



 こうした考え方は確かに調べてみる価値があるだろうが、非宗教的な観点から見た場合でも、こうした見解が悪についての問題に終止符を打つことにはならないはずなのだ。創造についてのユダヤ・キリスト教の教義は世界の起源についての疑似(エセ)科学的な説明なのだから受け入れられないとしても、その教義はそれを超える宗教的意義をもっている。創造[という宗教的な観念]が言い表しているのは、信者であれ非信者であれ多くの人によって共有​​されている根本的見解、つまり、世界とは善なるものである、生は価値がある、存在しないよりは存在する方がより善なのだという根本的見解なのである。(その見解を否定するものを実際生活で探すとすれば、それは結局のところ自殺であろう)。この信念ははっきりと言い表わされないことが多いが、きわめて残忍な行為や不正義に直面したときに生じる「侵害されてはならないものが侵害されてしまった」という感覚の根底にあるのはそうした信念であるように思われる。ある種の人間の権利は侵害されるべきではない――こうした権利は「神聖」なものでさえある――という考え方が含意しているのは、道徳的中立性ではなく、人間の根底にある良識の基準に対する信念なのである。悪に対してしばしば声に出して表明される怒りと抗議が指し示しているのは、善性と正義の規範に関して誰もが内心深いところに保持している信念なのである。


 
 

 悪について考えることは私たちすべての心の中にある闇――それは、伝統的に罪として理解されている――と折り合うことを含むという宗教的な考え方は、今日でも考えるための材料を提供してくれるものだ。タブロイド紙をにぎわせる悪の概念は氷山の目に見える先端にすぎず、水面下に広範囲にわたって没している多大な心理的傾向を暗示しているのだとすれば、悪を理解しようとする努力は、何らかの神学的な教義にではなく、「汝自身を知れ」というソクラテスの哲学の命法に応えるものなのである。


 キリスト教の神義論――それは、悪があるにもかかわらず、神を擁護しようとする努力のことであり、したがって世界が根本的に善であることを擁護しようとする努力である――の伝統は、私たちすべてに関わる生の意味と目的と価値についての問題につながっているのである。悲劇についてのフリードリッヒ・ニーチェの反省や古代のシーシュポスの神話についてのアルベール・カミュの「実存主義的」解釈のような、生の苦しみや無意味に対する無神論的反応もこの伝統のただ中に立つものである。この連載の終わりに私たちは、科学者と精神科医が残忍な行為についての説得力のある説明を提唱しているときに、悪についての宗教的・哲学的思考がまだ重要であるかどうかを考察することになるだろう。来週、私たちは、その悪についての考え方が教会の内と外で何世紀にもおよぶ論争を引き起こした4世紀のキリスト教神学者に向かうことにしよう。



」(つづく)



















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