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ナルシシズムを擁護する [海外メディア記事]

 ちょっとアカデミックな感じの――しかし、判りやすい――一文を、イギリスBBCのサイトで見つけたので紹介する。フロイトの『ナルシシズム入門』に少しだけ関係した内容に魅かれたためである。
 
 筆者のマーク・ヴァーノンは、作家兼ジャーナリストで、友情や幸福や神や霊性や科学や哲学に関する著書を書いてきた人だそうだ。


 私の興味を引いたのは、冒頭に出てくる「赤ちゃん陛下(His Majesty the Baby)」の由来だった。確かに、フロイトの『ナルシシズム入門』にこの英語の表現が出てくるのだが、由来は不明だった。しかし、そうですか、絵のタイトルだったとは(絵というよりは、ポスターのようなものらしい)。それが判っただけでも、ちょっとした発見であった。


 ちなみにその絵を下に掲げておこう。Arthur Drummondという英国の画家の作品だそうだ。

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In defence of narcissism

Mark Vernon. 10 October 2012 Last updated at 01:34 GMT

http://www.bbc.co.uk/news/magazine-19876494



「 

ナルシシズムを擁護する


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ナルシシズムは病的な状態として非難の対象になるが、それは私たちの情緒的な生存にとって必要なものかもしれないとマーク・ヴァーノン(Mark Vernon)は主張する。




 1914年が始まったばかりでヨーロッパで戦争が起ころうとしていたころ、ロイヤル・アカデミーの展覧会にあった一枚の有名な絵がジクムント・フロイトの心を捉えた。


 それは通りの場面を描いたものだ。二人の警官が行きかう馬車を制止している。通りにあふれた馬と馬車の間を二人の人間が歩いている。乳母と、彼女が世話をしている幼児だった。その子は繊細でふわふわの服を着ていた。乳母は玩具を運んでいた。絵にはこう書かれていた。子供が通れるように世界は動きを停止しなければならない、と。その絵の題名は「赤ちゃん陛下(His Majesty the Baby)」だった。


 フロイトは、彼の最も重要な論文の一つとなる『ナルシシズム入門』を書いている最中だった。その論文は、人間が生まれついてもっている自己愛を探究する論文だった。ナルシシズムのおかげで、人間は自分の主たる養育者――それが親であれ乳母であれ――を、自分が必要とするあリとあらゆるものを供給してくれる農奴のように扱うのである。


 フロイトによれば、ナルシシズムが愛の必然的な形態となるのは、人間は生まれるのがあまりにも早すぎるためなのだ。この点は今では多くの人が理解している。進化生物学の現在の理論によれば、私たちは、大きすぎる頭が産道を通れるように、自活できるようになるはるか以前に生まれなければならない。イヌやネコ、イルカや類人猿はそうした困難に直面することはないので、比較的速やかに自立した存在となるのだ。


 幼児の頃、そして子供になっても、私たちは、数週間や数ヶ月ではなく何年もの間、親が隷属的になるように求める。まさに誰もが赤ちゃん陛下なのである。


 そして、ナルシシズムは私たちが知る最初の愛の形態となるのだが、私たちにとって、このような自己愛は数々の奇跡を行うように見えるのだ。


 喉の渇きを感じて叫び声をあげると、まるで魔法のように、おいしいミルクがあなたのもの欲しげな舌に注がれる。不快を経験してうめき声をあげると、湿って冷たい感覚が消える。眠たくなると、暖かいシーツと毛布があなたを包みこんでくれる。


 すべてが幼児のためにあるように思える――ある意味で、すべてが幼児なのだ。幼児と世界は一体なのである。


 赤ちゃんを観察していると判るのだが、彼らは世界が自分の言いなりになるのを生まれたときから期待しているのだ。生後わずか15時間後、彼らは自分の母親の声を識別できるし、見知らぬ人の声よりも母親の声のほうを好む。母親の匂いや顔についても同様だ。別の実験が示したところによると、幼児は自分の叫び声を録音したものを聞くと泣きやみ、他の赤ちゃんの泣き声を聞くと動揺する。彼らは自分の声や母親の声の音声を聞くのが好きなのである。


 この指揮統制のメンタリティー(command-and-control mentality)は、別の巧妙な研究によって支持された。ある実験で、ある幼児にトレーニングさせて、音楽をオンにしたりオフにすることできると思い込ませた。幼児が指をしゃぶっているとき、その指しゃぶりのリズムに合わせて、音楽がオフになったりオンになったりするのである。


 子供はすぐに、指をしゃぶるパターンを変化させることによって音楽をオフにしたりオンにしたりできるのだと思い込むようになる。次に、実験者は指しゃぶりとは関係なく音楽をオフにする。音がその子に「従う」のをやめたわけだ。乳児は悲しみ、叫んだり泣いたりする。その子の陛下としての威厳に傷がついたわけだ。



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 赤ちゃんは世界が自分の言いなりだと思い込む



 ナルシスティックな関心と呼べそうなものは、かなり長い間、表面に顔をのぞかせそうなところにいる。兄弟間の争いや、幼い兄弟姉妹の間でいつでも爆発しそうな憎しみや怒りを考えてみてほしい。家族という温室でも、母や父の愛情を勝ちとろうとする競争があるものだ。


 私は最近、友達の家にいて、彼の3人の子供といっしょに食事をしたことがあった。一番下の子が突然スパゲッティ・リングを食べてのどを詰まらせてしまった。深刻なほどではなかったが、私たちが一瞬心配になるには十分だった。しかし、上の二人の子は――愛らしい子供だったが――、ちょっと困っている兄弟のほうを向いて、自然に「死ね、死ね、死ね!」と歌い始めたのだ。父親はショックを受けた。しかし、子供たちも、もう元に戻った一番下の子も含めて、滑稽な出来事だったことを思い返して、笑いだした。おそらく、いつもは抑圧されているものが表面に出ることで、気が晴れたのだろう。



 ナルシシズムはとても深いところに存在している。それは身体に根ざしている。ジャン・ピアジェが気づいたことだが、ある子供は、箱のふたを開けるという問題を、自分の口を開ける時になってやっと解決できた。自分自身の動きが、いかにして箱を開けるかについてのアイディアに形を与えたのである。言い換えれば、私たちが世界を把握するための最初のテンプレートを提供するのは私たちの身体なのである。私たちは、自分の身体と世界が密接につながっていると前提しているのである。


 私たちの言葉において、身体のメタファーが支配的なのは何ら驚くべきことではない。私たちはいろいろなアイデアを反芻する(digest:本来は「消化する」の意)。製品を消費する(consume:本来は「食べつくす」)。「一方では(on the one hand)」や「他方では(on the other hand)」といった表現は日常的によく使う。関係が気まずく(sour)なる前は愛は甘美(sweet)だった、と私たちは言う。落胆するとこぶしを握り、誇らしいときは背筋を伸ばす。



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 ナルキッソスの神話

・ ギリシャ神話には、水に映る自分の影に恋をする美しい青年。
・ バージョンで違うのだが、彼は自分に見とれて溺死したか衰弱した。
・ このストーリーはオウィディウスから上掲のカラヴァッジオにいたるまでの詩や絵画にインスピレーションを与えた。




  しかし、ナルシシズムという語には、醜く、人を非難するような意味合いが含まれている。私のもっている類語辞典は、虚栄心、うぬぼれ、自尊心や自己陶酔を類語として挙げている。これはある意味で残念なことだ。なぜなら、フロイトが幼児性と呼んだ第一次的ナルシシズムは正常で健全で善良なものであるからだ。それが子供にとって心理学的に悪いものになっていくのは、子供が人々の注意の中心に自分がいないと感じるようになるときである。安らぎと守られているという感覚がなければ、子供はつねにおびえた状態で暮らすようになり、人生は脅威であると思うようになるからだ。


 幼児は自分が愛されていることを知らなければならないのだが、それは、それを知っている場合にのみ、幼児は、他者を愛するというリスクを冒すことができるからなのだ。この最初の愛は、やがて繰り広げられる人生の下準備となり、自信や勇気、自発性や衝動、安心感や自分の居場所はここだという感覚をもたらすのである。




 ナルシシズムの本性は古代の世界でも探究されていた。


 たとえば、ナルキッソスの神話は、問題を抱えた美しい若者について語っているのだが、その問題とは彼が自分自身を愛しているということではなく、自分自身を愛することができないということだった。物語の中で、彼は森の中の池に自分自身の姿を見かけ、静かな水面が反映する自分の姿に釘づけになる。しかし、彼がその顔に近づき、その顔が彼に近づき、唇と唇が触れあおうとしたその瞬間に、その顔は消えてしまった。彼が彫像のようなその肉体を捉えようと手を伸ばしたとき、その美しい肉体は水の波紋の中に消え去ってしまうのである。


 テッド・ヒューズはオウィディウスの『変身物語』のこの重要な個所を見事に翻訳した。「自分自身とはつゆ知らず/彼は自分を求めたにすぎなかった(Not recognising himself/ He wanted only himself)」。



 その時のこの子供は、自分自身をあるがままに知るにいたっていなかったし、自分があるがままの姿で愛されていることを知るにいたってなかったのだ。彼は、あるがままの姿で快適にいることができ、自身自身に対して気楽でいられることを可能にするナルシシズムを発展させていなかったのだ。


 アリストテレスもこのテーマを取り上げており、善なる自己愛が内面にとって必要不可欠であると説明した。一つには、もし(良い面も悪い面もふくむ)自分自身と友になれなければ、(良い面も悪い面もふくむ)他の誰かとどうして友になれるだろうか、と彼は述べた。私は10代のころ見知らぬ人に会うたびに不安を感じていた記憶がある。振り返ってみて判ることだが、問題は見知らぬ人間ではなかったのだ。むしろ私自身が自分にとって見知らぬ人間だったのだ。


 

 善なる自己愛によって得られるのは、自分をのり越える能力だ、とアリストテレスは続ける。それができれば、あなたは自分自身から解放され、自分の周りに世界があることが見えるのだ。あなたは王様でも女王でもない。代わりに、あなたは自分が多くの人の中の一人であることを知るようになる。その多くの人々は、あなたが愛したり一緒にいる人かもしれないし、あなたの知り合いかもしれないし、あなたとこれから知り合う人かもしれない。あなたが人と会う時間をもてるのは、すべての時間を自分自身に費やす必要がないからだ。あなたが一緒にいて楽しい人であるのは、あなたが親の最初の愛をとりこんで、今度は自分でその愛を生きることができる人であるからだ。



 ナルシシズムが今日ほとんど自動的に負の意味合いをもっているのはなぜかということは、問いかける価値がある問題だ。それは、受けとるよりも与える方が良いという考え方にある宗教的な命令に関係があるのかも知れないが、宗教のせいにするのはあまりに安易すぎるとも思う。一つには、律法の一つに、自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよというものがあるからだ。それは、自己愛についての成熟した理解を簡潔に言い表したものだ。自分自身であるかのように他人を愛せ、たしかにそうだ。しかし、これはまた、あなたが他人を愛することができるように、自分自身を愛せ、ということでもあるのだ。適切な自尊心は他者を尊重する心を準備するものなのだ。



  「利他主義(altruism)」という語――利己的なエゴイズムの反対語――が生まれてまだわずか100年ほどしか経っていないということも印象的なことだ。その語は、19世紀の社会学者のオーギュスト・コントによって生み出されたものだ。まるでコントが、善良な利己的愛を悪い利己的愛から区別し、それらをニ項対立的に識別する必要性を感じていたかのようだ。それは、いかにも現代的な区分だ。



  これが現代的な問題であることを示唆する証拠がある。それは自尊心やセルフ・イメージをどう扱うかという問題が、心理学者やセラピストの診察室でどのように現われるかに関する証言である。


  約10年前に、ジョゼフ・ラウントリー財団(Joseph Rowntree Foundation)によって独創的な報告が発表された。それは、低い自尊心が自殺や自殺未遂やうつ病や10代の妊娠やいじめ――そのどれもが増加中の大きな社会問題だが――におけるリスク要因の一つだと指摘したのだ。低い自尊心――または、混乱したナルシシズム――が唯一のリスク要因だというわけではない。しかし、それは決定的な要因であるように見えるのだ。



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アリストテレス:「もし自分自身と友になれなければ、他の誰かとどうして友になれるだろうか?」




 興味深いことに、その報告書は、自尊心の高低が男女間であまり違いがないことを示していた。自分を飾るという点では、男性が女性に引けを取ることはないのである。学校の成績の善し悪しは大きなインパクトをもっていない。また、社会・経済的な背景や遺伝(利己的な遺伝子と言うべきか)もインパクトをもってはいなかった。



 その報告書が明確な結論として述べていたのは、自尊心に最も大きな影響を及ぼすのは、その個人の両親であるということだった。承認し受け入れることが大事なのだ――子供のすることは何でも良く素晴らしいものであるかのような、つまらない受け入れでは駄目である。そんな受け入れは信じられないので、かえって台無しにしてしまうのだ。むしろ、善なる自己愛を育むような受け入れとは、その子の良い面も悪い面も受け入れるものであるが、それは、良い面も悪い面も受け入れる、それでもその子の人間を愛しているのだということを意味するのである。



  おそらく、私たちの自己理解はあまりにも個人主義的で、あまりにも機械的になってしまったのだろう。私たちは、人とのつながりよりも自分が自律的であるかどうかの方に関心を向けるし、義務よりも自由の方に、共通の善よりも個人の権利の方に関心を向ける。


 西洋人が自分自身について抱くデフォルトのイメージはビリヤードの玉であるかのようだ。私たちは、お互いに触れたり抱き合ったりするのを恐れるあまり、互いを押しのけあったりぶつかり合ったりしているのだ。ナルシシズムという言葉に対する警戒心があるのは、私たちの文化が、密かに、不健康なまでに、ナルシスティックだからなのではないだろうか? だから、私たちはその言葉から後ずさりするのである。




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 フロイトのナルシシズム論
・ 1914年論文『ナルシシズム入門』は、フロイトの前期と後期の作品の間にある中軸的な作品と見なされている。
・ それは、幼児の健全な第一次的ナルシシズムと、病的になりうる二次的ナルシシズムを区別する。
・ 「愛する者は、いわば、自分のナルシシズムの一部を質に入れてしまったのだ」。




 同様に、もし愛らしいという特質が、所有物やパフォーマンスと見なされ、したがって私たちのイメージや成功に関わる問題と見なされるならば、それは、他者の愛を受けとったり発見することの妨げとなってしまうだろう。


 完璧な肉体の探求は、それは表面的なイメージに吸収されてしまうのだから、ナルキッソスの運命を繰り返すだけだ。それは、束の間のレベルに囚われて浅薄なものに嵌まってしまうのだ。そういう人は、自分の心の奥底を見たことがないために、他人の心の奥底を見ることはできないのである。



 ラウントリーの報告書は、自尊心の問題を解決するにはセラピストが介入すべきだという主張は警戒心をもって見るべきだと結論づけている。短期的な介入は特に疑わしい。それは、人間の子供を育てるのに時間がかかるように、時間がかかる問題なのだ。また、人が活躍することを可能にするような自己愛は、求めて得られたりプログラム化することはできない。それは、自分自らが子供を愛することによって他者を愛する能力を子供に与える母親のように、(無償の)贈り物として私たちに与えられなければならないものである。


 そのような愛は、もし個人的にやり取りされなければ、空虚なものだ。セラピーでのマニュアル化された試みは、自分自身に自分は愛らしい存在だと言い聞かせる演習や手順を教えてはくれるが、最も必要とされ望まれている特質を欠いているのだ。やはり大事なのは、個人と個人の関係なのである。



 だから自尊心に関わる難問からの簡単な抜け道はないのだが、自己愛をもっと慎重に分析してみるならば、なんらかの洞察や希望が与えられるかもしれない。フロイトや、彼の洞察を発展させたり批判したセラピストの仕事が重要なリソースを提供してくれるだろう。ナルキッソスの物語りもそうだ。



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 ナルキッソスの神話では、若者が倒れた場所に花が咲き出た


 
 その物語りはひどい終わり方だ。美しい若者は、水に映る影が自分自身の姿であることを理解する。そして彼は、自分の姿を眺めるという習慣を破ることができないことも理解するのだ。唯一の打開策は死ぬことである。


 しかし、ナルキッソス(Narcissus)の肉体が滅びると、一本の花が現れる――柔らかい黄色の花を咲かせる水仙(narcissus)だ。この神話が示唆しているのは、幼児期のナルシシズムは死に絶え存在の根底に沈みこんでしまうが、そこで土壌が花に養分を与えるように、ナルシシズムは私たちに養分を与えることができるということだ。このことが生ずるのは、幼い子供が善良な親をもっている場合だ。私たちを最初に養育する者は、自分が赤ちゃん陛下であるという幻想に従ってくれる。しかし、そういう条件があって初めて、私たちは、その後に、その錯覚を克服するリスクを冒すことができるのだ。



 他者を愛するというリスクを取ることは決定的な一歩であり、おそらくそれに勝る一歩は、他者に愛されるというリスクしかないだろう。概してそのリスクはやってみるだけの価値はあるのだ。それは、満ち足りた人生のためになるからだ。


」(おわり)



















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