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何のための労働か? [海外メディア記事]

  働くことの意義を問いつめたエッセイを『ニューヨーク・タイムズ』紙より。筆者は、同紙によく寄稿しているノートル・ダム大学の哲学の教授のゲイリー・ガティング(Gary Gutting)。


  多くの人にとって、労働は生きるための手段にすぎないだろう。しかし、何のための手段なのか、何をしたいから働くのか、という点に考えをめぐらすと、思考停止状態に陥り、考えるだけ無駄だという気分になる。そして、いつのまにか、手段が目的にすり替わっているのかもしれない。


 ガティングは、アリストテレスの「われわれは余暇(leisure)を得るために働く」という考え方から出発する。労働はレジャーのためにあるのだと。

 もっとも、これは、労働はサーフィンやゲームのためにあるという意味ではない。アリストテレスの言う「余暇」とは、俗事から離れて「観想」にひたることなのだが、この点は脇に置こう。


 ガティングは、「余暇」を「それ自体として楽しめる生産的活動」という意味で捉え、労働はそういう活動のためにあるのだと考える。各個人にとって、そういう活動が善い人生をなすのだが、労働とは、そういう活動とリンクしている限りで善なるものとなるなのだという。しかし、現代の労働は、あまりにもそうした活動とのつながりを失ってしまっているので、多くの人にとって労働=(必要)悪という考え方が支配的になってしまい、労働の意義などなくなってしまうのだ。このエッセイの終わりは、こうした事態を改善するのは教育の役目だという方向に転じていくのだが、すくなくとも、労働の意義を考えたい人にとっては、前半部分だけでも役に立つかもしれない。




What Work Is Really For

By GARY GUTTING
September 8, 2012, 3:00 PM272 Comments


http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/09/08/work-good-or-bad/



「 

 何のための労働か?





 労働は善いものか悪いものか? 失業が差し迫った国民の関心事となっている今、こんな問いを発するのは愚かしく見えるかもしれない。(二人の大統領候補者の名前を別にすれば、政治関連の言葉として、共和党と民主党大会の演者によってもっとも使われたのは「職(jobs)」だった)。現在の悩みの種となっている問題から離れて考えるならば、労働が善いものだという考え方は私たちの文化に根深くある。私たちは、勤労意欲がある人々に拍手を送り、国の経済をその生産性から判断し、国民の祝日を設けて労働を称賛しているからだ。


 しかし、その根底には矛盾する感情があるのだ。私たちは、働くことを止めて「レイバー・デイ(労働者の日)」を祝うわけだし、創世記は、労働をアダムの罪に対する罰だと述べているし、私たちの多くは次の休暇まであと何日とカウントしたり、満ち足りた老後を働く唯一の理由と見なしたりしているからだ。


 私たちが労働に対して矛盾した感情を抱くのは、それが資本主義のシステムでは、それ自体のためではなく、給与のための労働(賃-労働)となっているからだ。それは、哲学者が道具的な善(instrumental good)と呼ぶものだ。つまり、それ自体に価値があるわけではなく、それを使って私たちが達成するもののゆえに、それは価値あるものとなるのだ。私たちのほとんどにとって、賃金のための労働はなくてはならないものだ――大量の失業者は痛いほどそれが判っている。しかし、今の経済システムでは、私たちのほとんどは、労働を何か別のものに対する手段として見なさないわけにはいかない。労働によって生活費が得られるが、労働によって人生が得られるわけではないのだ(it makes a living,but it doesn't make a life)。


 では、労働は何のためにあるのか? アリストテレスの答えは印象的だ。「われわれは余暇を得るために働く、幸福は余暇にかかっている(we work to have a leisure,on which happiness depends)」。これは、一見すると、馬鹿馬鹿しいように見えるかもしれない。それがどんなに甘美なものであろうと、何もしないでいてどうして幸福になれるというのか? (何もしないのは素敵だ(dolce far niente)というイタリア語があるけれど)。怠惰は、退屈を生み出さないだろうか?あの、(少なくとも『ボヴァリー夫人』以降)多くの小説で描かれた人生を破壊する倦怠を生み出さないだろうか? 


 結局すべては余暇をどう理解するかによるのだ。それは、単に何もしない、単なる怠惰のことなのか?  もしそうならば、余暇の人生は、せいぜい良くて退屈なものであり(ヴォルテールの『キャンディード』の教訓)、最悪の場合、それは恐るべきものとなる(それは、パスカルが言うように、死を考えることから気持ちを紛らわせてくれる気晴らしを何も与えてくれないからだ)。そうではなく、アリストテレスが考えている余暇とは、それ自体のために楽しめる生産的な活動のことだ。それに対して、労働とは何か別のもののために行われるものなのである。


 いったいどんな活動が、それ自体のために楽しめる活動なのか――食べたり飲んだりすることか? スポーツや恋愛や冒険や芸術や瞑想か? ――という点は、今は問わないことにしよう。肝心なことは、そうした活動に関わること――そして、それを他の人々と共有すること――が、善い人生となるのだ、ということだからである。仕事ではなく、余暇が私たちの第一の目標となるべきなのだ。



 バートランド・ラッセルも、彼の古典的なエッセイ『怠惰をたたえて』の中で、その点に同意する。「現代の世界では、労働こそ美徳だという信念によって、ものすごい害悪がまき散らされている」。その代わりに、「幸福と繁栄への道は、労働を組織的に減らすことにあるのだ」。この2世紀間に科学技術が大々的に進歩する以前、余暇は、奴隷労働やその同類に支えられた「わずかしかいない特権階級の人々の権利」にすぎなかった。しかし、こうしたことはもう必要ではない。「労働の道徳とは奴隷の道徳であり、現代の世界は奴隷制をまったく必要とはしていない」。


 アダム・スミスの有名なピンの例を使って、ラッセルは解決策を全く簡単なものと思わせる。



 「ある時、ある数の人々がピンの製造に従事していると仮定しよう。彼らは、(例えば)1日に8時間労働して、世界で必要とされるだけのピンを作っているとしよう。誰かが発明品を作って、同数の人間が2倍のピンを作れるようになったとする。ピンはもう、これ以上作って値段を下げても売れないほど安くなっているとしよう。賢明な世界では、ピンの製造に関わっていたすべての人は、8時間ではなく4時間労働に移行し、それ以外のすべては何も変わらずに続いていくだろう」。



 ラッセルによると、私たちが余暇の世界からほど遠いのは、労働そのものを優先して考えようとする偏見がどうしても根強いからなのだという。



  しかし、ラッセルは明らかな間違いをしていないだろうか? 彼は、私たちが1日8時間労働し続ける唯一の理由は、もっと多くのピンを作ることであり、それはもう必要ではないとラッセルは仮定している。しかし、現代の資本主義の考え方は、もっと良いピンを作ること(ピンよりももっと良いものを作ること)であろうし、そういう風にして私たちの生活の質を向上させることにあるだろう。ラッセルがあのエッセイを書いた1932年に、私たちが彼のアドバイスに従って生産性の向上のすべてを余暇に変換したと仮定しよう。もしそうなっていれば、その頃の未来図の地平線にかすかに現われていたにすぎない抗生物質や、ジェット機やデジタル・コンピュータが私たちの生活の不可欠な部分となることはなかっただろう。真の進歩とは何かについては議論の余地があるだろうが、ラッセルの単純な提案が、しばしばより一層の余暇のために生活の質を犠牲にすることしか意味しないのは明らかである。



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 しかし、資本主義そのものは生活の質に関心はないのだ。それは本質的に、利益となるような商品を作る(利益は大きければ大きいほど良い)システムだ。もし商品が私たちの生活の質をより善いものにしてくれるから売れるのであれば、それは結構なことだが、でも結局は、それがなぜ売れるかということはどうでもいいことだ。ある商品が売れる理由が、人間の幸福に本当に寄与しているというものではなく、それを持つべきだと人々が誤って思い込まされているというものであっても、このシステムは同じくらいうまく行く。実は、優れたものを作るよりも、劣ったものを買ったほうが良いと人々に思い込ませる方が簡単にいく場合もしばしばある。だから、お店には、流行や不安感には応えるが人間の本当の必要に全然応えていない商品でいっぱいなのだ。

  
 
 では、よりよい生活のためになるようなものだけを作っていれば、私たちは余暇を増やし人生をもっと価値のあるものにできるかもしれない。労働者も真に価値のあるものを作っているという満足感をもてるだろう。


 しかし、このことは本質的な問いを提起する。つまり、何が本当に価値があるものかを誰が決定するのか、という問いである。資本主義のシステム自身の答えは、消費者が決定する、というものだ。オープンな市場でほしいものは何でも自由に買える消費者が決定するのだと。私がこれを資本主義のシステム自身の答えと呼ぶのは、このシステムが自律的に、思うがままに、動き続けるようにするような答えだからである。それが特にアピールするのは、オーナーや経営者や、システムに強い関心を抱く人々である。


 しかし、この答には腹黒いものがある。市場は、私たちの幼児期から、私たちを消費者にするように働きかけてきたわけであるし、それが人間の繁栄にどう関係しようがお構いなく、市場が売っているものは何でも喜んで買うように仕向けてきたからだ。私たちが本当に自由であるならば、私たちは、人生のゴールを広告キャンペーンなどによって決めるのではなく、人間的な充足感の様々な可能性を自分で経験し深く考えることによって決める成熟した主体として市場に参加しているのでなければならない。そのような自由があるためには、解放的な教育がなければならない。解放的な教育とは、知識のつめ込みや社会への適応や技術的な訓練に焦点をおく教育ではなく、自分の生活を導いてくれる価値観に情報や知識をもって献身できるような人格を育むことに焦点をおく教育のことだ。


 だから、教育とは、特に私たちの資本主義社会では、まず第一に労働者や消費者(どちらも資本主義の道具だとマルクス主義者ならば言うだろう)のためのものであってはならない。むしろ、学校は、市場の甘い言葉を見抜くことができ、満足のいく生活を送るために必要だと自分で決めたものを、市場は提供すべきだと主張する自律的な主体を生み出そうとすべきなのだ。資本主義は、利益を追及するだけだが、それ自体は悪ではない。しかし、利益を追求しようとして私たちの選択をコントロールするとき、それは悪となるのである。

 
 資本主義が善のためになるのは、私たちの独立した選択が、利益を上げるために市場が何を作らなければならないかを決めるときだけである。こうした選択――解放的な教育を受けた自由な主体の選択――が、資本主義の生産の基準を設定することになれば、アリストテレスが言ったように、仕事が余暇のために存在するような世界が生まれることになるだろう。私たちは、残念ながら、この理想からかけ離れたところにいるが、しかしそれは、そこに向けて努力する価値のある理想なのである。





」(おわり)


















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