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フェリーニの『道(La Strada)』について・・・その3 [探求]

    フェリーニの『道(La Strada)』について・・・その3


3. ジェルソミーナの造形 :ジュリエッタ・マシーナ『道』を語る



 『道』の解説の三回目にして最後は、ジェルソミーナを取りあげる。

 多くの人にとって『道』の魅力の大半はジェルソミーナに由来していることだろう。もっとも、私は、「『道』は決して観るつもりはない、あの女優の顔が駄目」と言う映画好きを知っている。観ないのにどうして駄目だと判るのか少し不思議だが(今となっては、それを聞いた時、真意を確かめることをしなかったことが悔やまれる)、まぁ、何となく言いたいことは判らないでもない。違和感がありすぎて感情移入できないか、逆に、エモーションを強要するような顔に堪らないものを感じるのだろう。


 私自身はジェルソミーナに抵抗を感じることはないが、ジュリエッタ・マシーナの演技は、時として「わざとらしいなぁ」と感じないこともない。いま手もとにないので不正確だが、トゥッリオ・ケジチ著『フェリーニ 映画と人生』の回想によると、ジュリエッタ・マシーナを主演に推したのはフェリーニだけで、そのキャスティングに周囲は好意的な反応をまったく示さなかったようだ。ジュリエッタ・マシーナの評価はとても低かった。あんなのが主演なんてとんでもない! シルヴァーナ・マンガーノが良いよと推薦する者がいたという箇所を読んだとき、私は笑ってしまった。あんな堂々とした女性がジェルソミーナを演じたら、いったいどうなっていただろう?

 そうした周囲の反対をすべて押し切ってジュリエッタ・マシーナが抜擢された。もっとも、フェリーニとしては始めからジュリエッタ・マシーナ以外に考えていなかったはずだ。それは、(その1)で掲げたあの絵コンテが雄弁に語ってくれる。あの道化師のイメージに合う女優なんて彼女以外ほとんどいないはずだからだ。


 さて、あらゆる反対を押しのけて抜擢されたわけだから、ジュリエッタ・マシーナとしてはジェルソミーナに全身全霊をこめたに違いない。どのような心構えで彼女は撮影に臨んだのか? 幸いながら、今回私が参考にしているBondanella and Gieriの本にはジュリエッタ・マシーナが自分の演技について述べた一文が掲載されているので、それをここで紹介するのが一番だろうと考えた。上で、私は「わざとらしい」と感じることがしばしばあると書いたが、それも意図的な演技の一環だったようだ。そう思わせるほど、さまざまなことに対する目配りをしたうえでの演技だった。しかも、ジュリエッタ・マシーナは、下層階級の恵まれない女性たちに対する共感をつねに忘れなかったようだ。そんなところに、この女優の繊細でヒューマンな知性を感じ取ることができるような気がする。


 この自己解説でとくに面白いのは、イル・マットに出会うまでのジェルソミーナは、ある意味でザンパノと対照的だが似てもいる「動物的な」レベルにあったという指摘だ。イル・マットがザンパノについて「やつは犬だ。お前に話しかけたいのに、吠えることしか知らん」と言ったのをうけて、「かわいそうね」とジェルソミーナはつぶやいた。しかし、その憐みは自分自身にはね返ってくるものだったのかもしれない。たしかにザンパノのように「吠え」たりはしなかったが、ジェルソミーナも犬のように身振りで反応するしか能がなかったのだ。しかし、イル・マットのおかげで、ジェルソミーナは初めてそのレベルを超えることができた、というわけである。


  これは判りやすいイメージだ。つまり、イル・マットは一種の救世主だというのだ。だが、救世主にしてはきわめて脆弱(ぜいじゃく)である。彼は、ジェルソミーナだけでなく自分自身をも救えなかったのだから、「幻(まぼろし)のような(illusory)」人だったとジュリエッタ・マシーナは書いている。


  しかし世の英知の大半はこうした幻のような性格をしているものだ。大半は幻想(illusion)というべきものだ。映画の中の「この小石だって何かの役に立っている」という洞察だってそうだ。その点では、ガンベットラの男の子の妄想も、バーニョレージョの修道院の女性が日夜読みふける聖書の文言も同じだ。それらは宝石のように貴重なものを隠しもっているはずだが、同時にきわめて脆(もろ)く、容易に消え去ってしまう。映画で最後まで生き残ったのはザンパノだけだった。貴重なものをもっていた者は皆死んでしまった。だが、生き残ったザンパノの中に、かすかにあのメロディーが残ったように、貴重なものの記憶も残った。おそらく、真に価値あるものは、そういう形で、ほとんど瀕死の状態をくぐり抜けながら受け継がれていくものだろう。フェリーニが愛やモラルや宗教について示唆しているものがあるとすれば、そんなイメージだろうか?
 
 (追記・・・(その1)の最後で、 「なぜこの修道院から撮影を始めたのだろう?」という問いを掲げた。 フェリーニにとって、バーニョレージォのほとんど朽ちかけた修道院は、瀕死の状態をくぐり抜けて伝えられたあのメロディーと等しいものに感じられたからこそ、あの修道院を映画のスタート地点にしたのではないか、と私には思えるのである。)





 (  「動物のような優しさ」 : たき火を前にして鳥のような格好をするジェルソミーナ。

 「ゆっくり燃えろ、輝く火よ……火花よあがれと夜はつぶやく… …ブーブーブー… 」。

 この意味不明の言葉には、後でイル・マットといっしょのシーンで発せられる「すべてを燃やすんだ」という言葉とのつながりを考えると、ザンパノに対する非難が込められているような気がするのだが、あるいは、ザンパノの重苦しい沈黙を振り払おうとする身振りなのかもしれない。)

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 さて、まだこの映画に関しては書きたいことはあるが、今回で『道』の解説はとりあえず終わりとしたい。また何か発見があったら書くことになるかもしれない。他の監督、他の作品に関してもいずれ似たようなことをしたいと思っている。 





Giulietta Masina : An“Active” Character: Gelsomina Senses the Life of the Trees.

In Cinema 7(1954),p.450-451. Translated into English by Peter Bondanella and Manuela Bieri.

Peter Bondanella and Manuela Gieri(ed): La Strada, p.192‐195. (ただし数行省略した箇所あり)


  



 「活動的な」キャラクター: ジェルソミーナは樹々の生命を感じ取る



 私は、長い間、ジェルソミーナの性格に魅了されてきたけれど怖さも感じていた。なぜ私がそう思ったかをいま説明させて下さい。私自身の個人的で情緒的な部分はさておいて、何よりも私は、生きるためにどんな仕事にも順応しなければならず、飢えと孤独に苦しみ「自分は役立たずの人間だ」と感じなければならない下層階級のイタリア女性を演じるという責任をジェルソミーナに対して感じた。でもジェルソミーナは、こうした感情や生活条件をただ口に言い表すだけにとどまっていられるキャラクターではなかった。つまり、ジェルソミーナは、過去も現在も「活動的な」キャラクターだ。言いかえれば、決してあきらめず、いわば両手両足でしっかり生命につながっていて、自分でうまく解決できない困難な関係にも関わっていくようなキャラクターだ。彼女は売られて旅芸人のような仕事をするが、その仕事は、毎朝テントをたたんでまた別の場所に移動することになるので、決まった場所にいる普通の人間だという感覚を彼女に与えることは決してない。それでも、ジェルソミーナは、単純で愛情にみち孤独のない生活の条件を、自分のまわりに一途でかたくななまでに作り上げようとする。それだけでなく、彼女は、あらゆるものやあらゆる人と語り合いたいという欲求を感じる。樹々や、空や、風にも生命を感じ取るのだ。でも、こうしたすべては、調和ある生命に対する夢にすぎない以上、何にもまして胸を苦しくさせるものだ。これらすべてにザンパノの沈黙が重くのしかかってくるわけだが、ザンパノは、彼女の嘆きの日々を通して人間の姿をとって彼女に現われる唯一の存在であるにもかかわらず、自分自身の中に、人間と人間の間にしばしば存在する荒(すさ)んだ距離をすべてもっているような男だ。生活するうえでは一緒だがそれを理解せず、お互いを赤の他人のように見て、相手から共感してもらったり一緒にいてもらいたいという気持ちは人一倍強いのに、どう切り出していいかわからない――そしてあの沈黙の重苦しさ、それを打ち破ろうとちょっと試してはみるものの、気まずい終わり方になってしまい、それが憎悪や恨みに変わってしまうのだ。



 ザンパノとの関係において、私は、しばしば大げさな演技スタイルによって、人とコミュニケートする難しさを表現しようと試みたが、それはしばしば、わざとらしい快活さや場違いだという感覚(むしろ、内心深いところで感じている困惑から抜けだせないという感覚)に変化した。だから、私はザンパノに対して、ショーをしていない時でも、しばしば「演技」をすることになったり、自分自身ではないように感じ、大きな不安感に囚われることになった。(…)


 他方で、ジェルソミーナというキャラクターのうちに、女性にありがちな感傷や哀しみという側面を表現する必要もあった。この点を説明させて下さい。しがない漁師の娘としての彼女のキャラクターのもっとも現実的な要素は、悲劇的な、模範的な、誇り高い、辛辣な、それとも自意識的な要素などではなく、むしろ、もっと扱いにくく表面的な側面のいくつかにあると私は思う。人間形成にとって大切な基本の部分がマンガ雑誌であるような少女がいるように、とても不利な環境で育つと、人の心は悲惨でとても下劣な人間関係によって形成されることがある。若い女性の場合は特にそうだ。だからジェルソミーナもしばしば浮浪者の役割を演じ、自分に対して憐みさえ感じるのだ。


 明らかに、ジェルソミーナは、他人との関係においても、自分との関係においても、自分の居場所を完全に見出すことは決してなく、あれもするなこれもするなという禁止に苦しみ、自分には欠けているものばかりで、厄介なことばかりやって来るように思っているのだ。だから、彼女はしばしば自分の境界線をこえようと試みる――つまり、自分が「別の人」であるかのように想像し、自分自身に対しても「演技」をしようとするのだ(たとえば、修道院をおとずれ、修道女の後を歩くとき、ジェルソミーナは本能的に修道女のように歩きはじめるし、樹のまえで、樹のようなポーズをとって、まるで枝であるように腕を広げるときのように)。


 (樹になるジェルソミーナ) 

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 そしてジェルソミーナは絶えず、事物や人間たちの間に愛情の交流を探したり、求めたり、暗示したりするが、しかし(これは私がジェルソミーナのキャラクターのうちに感じたことだが)、彼女はこの「モラル」を潜在的で単純なレベルでしか表現しないのだ。もっとも、あれこれと身振りを足しながら(馬鹿馬鹿しい身振りさえまじえながら)、どんな機会からも活気と優しさをしぼり出そうとし、言葉よりも(内心深いところで生まれた)さけび声と身振りにもとづいて、愛に対する欲求やあらゆるものと一体になりたいという欲求を、動物のような優しさで体験してはいるのだけれど。


 もちろん、これは失敗を運命づけられた途であり、ジェルソミーナはすぐにそれを理解する。彼女の頭がまだ雲の中で夢を見ているときに、たまたま行き着いた街で綱渡りの男が二つの建物の間の宙に浮かび、黄金の光に向かってゆっくり歩いているのを彼女が見たとき、今目撃しているのは自分のすべての夢が具体的な姿をとった人だと彼女は考える。初めて自分より優れた人間を見ているのだと、そしてその人がほほ笑んだ顔を自分に向けて、そしてついに自分に話しかけてくれるのだと考える。彼はイル・マットだが、彼も恩寵からの失墜を運命づけられた天使だ。彼は幻(まぼろし)のような人物だ。ザンパノの一撃を喰らって死んでしまうからだ。とても脆(もろ)く死ぬ運命にあり夢と同じくらいはかない存在であることを明らかにしたからだ。しかし、その間にジェルソミーナは何かを学んだ。あるいは学んだと思った。イル・マットは、愛に対する彼女の欲求に形を与え、ザンパノといっしょでも満ち足りることはできる、なぜなら彼も孤独だし、たとえそのことを自覚していなくても彼女を必要としているのだからと彼女に教えてくれた。私はこの瞬間を、「理解」する行為とか、何か分別に基づく道徳的決断を下す行為としてではなく、突然おこった情緒的解放として表現する必要があった。そこで、私は、空気が圧縮されすぎた瓶からコーラがほとばしり出るときのように、ちょっと突飛(とっぴ)でもあり興奮してもいるような演技スタイルを試してみた。イル・マットは、いつもはぐらかして道徳的な教訓など与えようとは思わない人だから、私を見てけらけら笑っていたが。



(天上のイル・マットを一心に見つめるジェルソミーナ)

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(降臨した天使)

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(情緒的に解放されるジェルソミーナ。ザンパノが恐れたり憎んだりすべき存在ではないことに気づかされる)

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 この役は私が長い間待ちのぞんでいた役だった。もうそれを演じていない今日でも、私は心の中にイル・マットのイメージをしっかりもち続けている。それが今でも私を魅了するのは、それが、私ばかりでなく私の世代のものでもあるような数多くの弱さに対するきわめて甘美な罰を意味しているからだ。イル・マットは、完全に自由でエーテルのような空想的キャラクターだが、同時に彼は、人生や現実や寛容や信頼についての教訓を与えてくれるのである。私にとって、イル・マットは、いつまでも、私に快活な勇気の言葉を語るために、空中高くに張られたロープから、彼の孤独でエーテルでできた安全な場所から、今にでも降り立ってきてくれそうな存在なのである。




」(おわり)











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