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フェリーニの『道(La Strada)』について・・・その2  [探求]

フェリーニの『道(La Strada)』について・・・その2 


2. テーマ曲の由来 


 ニーノ・ロータ作曲のあのメロディーがなければ『道』の魅力はかなり減っていただろう。この点については多くの人が賛同してくれるだろうと思う。だが、『道』のテーマ曲には、少し不可解な点があるのだ。


 あのメロディーは、一般に「ジェルソミーナのテーマ」として知られている。しかし、それは正式な名前ではない。英語版のWikiを見ると、 "Travelling Down a Lonely Road" というタイトル名(「孤独な旅路を行く」あるいは「孤独な道を旅する」)が掲げられている(http://en.wikipedia.org/wiki/La_Strada)。しかし、このタイトル名も、本来の名前ではないだろう。調べてみると、 Michele Galdieriという人が歌詞をつけて、ジャズのナンバーとして親しまれるようになったようだが、それは、映画がヒットしてあのメロディーが有名になった後でアレンジされたものだろう。本来、あのメロディーには歌詞はなかった。それどころか、名前もなかった。強いて言えば、『道』のメイン・テーマと呼ぶしかない。たぶんそれが正式な名称だろう。


 しかし、それは大したことではない。今回、Bondanella and Gieriの本を読んで初めて知ったのだが、最初の段階では、『道』のテーマ曲はニーノ・ロータのあのメロディーではなく、「とあるイタリアの作曲家による17世紀のメロディー」になる予定だった(Bondanella and Gieri,p.14)。しかも、ジェルソミーナがそのメロディーを最初に耳にする場面は、当初の撮影台本では次のようになっていたようだ(Bondanella and Gieri,p.169‐170)。


 「
 
  外のシーン。四つ角。日中。土砂降り。日が暮れかかっていて、ザンパノとジェルソミーナが到着したばかりのほとんどがらんとした通りでは、すべてが古びていて活気がない。カメラに写らないところにあるラジオからかすかに音が流れる(17世紀の曲)。ザンパノとジェルソミーナは、ある家の壁にもたれ、屋根の軒下で立っている。互いに話しかけることもない。二人とも虚空を見つめている。とても寒い。彼らはコートの襟を立てる。通りの向こうの小さな作業場の通路で、機械工がバイクのエンジンの修理の仕上げにとりかかっている。ジェルソミーナの顔は、ますます深くなる悲しみを表している。通りの向こう側には明かりのついた窓がある。中に何があるのは判らない。ときどき、その部屋を静かに歩き回る女性の横顔が見えるが、その中からラジオの柔らかな音が聞こえてくる。ジェルソミーナはその窓をじっと見つめる。機械工が立ち上がり、通りの向こう側のザンパノに向かって大声で叫ぶ。

 機械工: 全部なおったぞ!

 ザンパノは壁から離れるが、ジェルソミーナはついて行かない。彼女は、またここを去らなければならないことを理解していなかったようだ。ザンパノが歩きはじめて初めて彼女はハッとする。彼女は、涙を目に浮かべ声を苦痛でつまらせて、突然こう告げる。

 ジェルソミーナ: わたし帰る!

 ザンパノは立ち止まり彼女を見つめる。わけが判らない。さらにいっそう声を荒げて、ジェルソミーナはこう告げる。

 ジェルソミーナ: わたし家に帰る!

 ザンパノは脅すような沈黙のうちに彼女をしばらく見つめる。彼は返事をしない。彼は通りをわたり、バイクのもとにやって来る。通りの向こう側で、彼は、意を決し、叫びはしないが強い口調でこう言う。

 ザンパノ: 行くぞ!

 ジェルソミーナは、もう数秒間、壁に張りつくようにもたれ、悲しみから黙っていた。それから、今度は自分が通りをわたる以外にすべがないと知り、雨に打たれてザンパノのもとに行く。暗転

  」 

 


 このシーンは、ザンパノが酒場で知り合った女と一夜を過ごした翌日、ジェルソミーナと次の目的地に向かう途中で「どんな女とでもいいの?」と荷台からジェルソミーナがつめ寄るシーンと、田舎の農場での結婚式のシーンの間に置かれる予定だった。ザンパノが誰とでも寝る無節操な男であることがわかり嫌気がさしたジェルソミーナが、「もう帰りたい」という気持ちを募らせるシーンだ。



 このシーンが最終的にカットされた理由は判らない。また農場で別の女と寝たザンパノに対して、同じように「もう帰る」と宣言してジェルソミーナは決別することになるわけだから、同じ趣旨のシーンを繰り返すのは冗長だとフェリーニは判断したためだろうか?
  
 
 しかし、このカットされたシーンは、二つの別のシーンと関連性をもっている。ジェルソミーナが「あさっては雨よ」と予言するシーンが先立ってあったが、それが一つ。雨のシーンはカットされた場面以外にないのだから、確かにジェルソミーナの予言は実現したのだが、それがカットされたシーンでの実現だったために、ジルソミーナの予言は、結果的に宙に浮いてしまうことになった。


 もう一つは、結婚式で知り合った女と寝た後で、その女からもらった背広の上下を嬉しそうに着るザンパノに対して、悲しみを堪えてジェルソミーナが、メロディーを口ずさみながら「ねえ覚えている? 雨の日に聞いた歌よ」とザンパノに問いかけるシーン。メロディーは「17世紀の曲」からニーノ・ロータのあのメロディーに置き換えられているのだが、「あの雨の日」はカットされたシーン以外には考えられないので、いかにも奇妙だ。これは観ている人間には判るはずがないし、ザンパノといっしょに聞き流すしかないセリフだろう。


 こうしてあのシーンをカットすることで、いくつかのセリフやシーンが不可解になってしまったわけだが、こうした不整合は、「あさっては雨よ」というセリフや「あの雨の日」のセリフの箇所を削れば解消できたはずだ。どうしてそうしなかったのだろう?  雨の予言は、やはり、ジェルソミーナの不思議な能力を印象づけるために残したのかもしれない。ただし、それが正しいかどうかは、観る者には判らない。たんなる「たわごと」にしか映らないかもしれない。


 「あの雨の日」のセリフは、バイクの修理を無言で待っているシーンを削った以上は、やはり同じく削るべきだったと思う。観ている者は、「あの雨の日」がどの日なのか判らないまま、とにかくそんな日があったらしい、雨の中にメロディーを耳にしてジェルソミーナはそれをトランペットで奏でたいと思った、そしてザンパノにトランペットの吹き方を教えてとせがむ・・・という流れの中で、「あの雨の日」のことはすぐに忘れてしまうのだ。だから、まぁ、特にこだわることもないのだが、でもカットされたあのシーンに少しこだわりたいものを私は感じる。それは二つあって、一つはメロディーの由来であり、もう一つはメロディーと遭遇する状況についてである。
  


 始めは「17世紀の作曲家」というはっきりした由来のあるメロディーという指定があったのに(具体的にそれがどのような作曲家のどのような曲だったかは明らかにされていない)、それをニーノ・ロータの曲に換えたのは、ただ単にロータの曲の方が良かったからなのかもしれないが、「17世紀」が何となく少し気になる。17世紀の曲といえば、世俗の曲もたくさんあっただろうが、やはり宗教的な曲だったろう。ザンパノが盗みを働く僧院はもう1000年以上も前に建てられたことを修道女はジェルソミーナに教えたが、そうした長い時間をかけて人から人へ伝承されたものという意味を、ジェルソミーナが聞く曲にフェリーニは込めたかったのではないかと、私は勝手に想像する。


 もちろん、大道芸人の夫婦にとっては、僧院の由来がどうでもよかったのと同様に、たまたま耳にした曲の由来などどうでもよかったことだろう。彼らの世界に「17世紀の作曲家のメロディー」が入り込むスクリプトを描くことは難しいことだっただろう。由来などはっきりしない方が、むしろ良いのかもしれない。したがって、最終的なスクリプトでジェルソミーナは、修道女から「なんという曲ですの」と尋ねられて、「知りません」とそっけなく答えて終わる。しかし、昔から人から人へ受けつがれてきた僧院と同じように、細々とではあれ、ラジオから耳へ、口から口へ、トランペットから耳へ受け継がれていくメロディーという意味合いをフェリーニは出したかったのではないかと、「17世紀」の曲は想像させるのである。



 それと、これはもっと映画に即したことになるが、あのメロディーはある特定の状況でしか現れないということに、あのカットされたシーンを読んで私は気づいた。あのメロディーは「ジェルソミーナのテーマ」と一般に呼ばれているが、それは、ラストのシーンでザンパノがジェルソミーナを思い起こして号泣する所にあのメロディーが流れるのが大きなインパクトを与えたからだろう。天使のようなジェルソミーナを象徴的に示す曲という受けとり方だ。だが、この曲はジェルソミーナその人に密着して使われているわけではない。昔からあった曲という設定なのだ。あのカットされたシーンを見て私が思い至ったのは、あのメロディーは人が孤独を意識したり孤独な人と相対するときに流れるということだ。
 

 あのメロディーが流れる主だったシーンは四つある。



1).「カットされたシーン」と「農家の納屋のシーン」。いずれも、ジェルソミーナがザンパノの不貞に深く悲しみ、ザンパノと別れることを心に決めるシーンだ。いずれのシーンでも、あのメロディーはジェルソミーナの悲しみや孤独に合致し、その内奥の表現となるのである。

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2).サーカス小屋で再会したイル・マットが、最初は独りで、次にはジェルソミーナに芸を仕込むという形であのメロディーを奏でる。前口上でイル・マットは「見物の皆さん。ただ今からいとも悲しい曲をかなでます」と述べる。カットされたシーンを除けば、あのメロディーの由来はイル・マットにある。彼も誰かから教わったのかもしれないから、由来は不明というべきかもしれないが、とりあえずこの映画での由来を考えれば、あのメロディーは「ジェルソミーナのテーマ」ではなく「イル・マットのテーマ」としなくてはならない。イル・マットにもいろいろな側面がある。多くの人が指摘してきたように、綱渡りのときに天使の羽根をつけていたことが暗示しているように、ジェルソミーナに生きる指針をさずける天上的な存在という側面もあるが、前回も指摘したように、「おれは一人で自由にしたい人間だ。おれは一人で暮らせる」というエゴイスティックで孤独な存在という側面ももつ。1).の状況と関連づけると、あのメロディーは、孤独な人間をテーマにした曲と考えるべきだろう。イル・マット本人にとってもそれは「いとも悲しい曲」なのだ。彼は孤独だが、いや孤独だからこそ、同じように孤独な人間が判るし、同じように孤独なジェルソミーナに、わずかでも手を差し伸べるという意味を込めて、あの曲を伝えたように私には見えるのだ。

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3). 修道院でジェルソミーナが修道女にトランペットであのメロディーを演奏する。「イル・マットのテーマ」はもうすっかり「ジェルソミーナのテーマ」になっている。ここで修道女とすぐに親しくなるが、これは、イル・マットの関係と同じだと思われる。修道女はしばしば「キリストの花嫁」と呼ばれる(Bondanella and Gieri,p.174)。作中でも修道女は「私は神様と二人づれで方々を回るわけなの」と述べる。「同行二人」の考え方だが、実質は一人である。二人とも、お互いが孤独のうちに方々を回っているという点で似た者同士であることを知る。イル・マットがジェルソミーナのうちに自分の同類を見出したように、ジェルソミーナはこの修道女のうちに同類の存在を見出す。ジェルソミーナがトランペットをとおしてあのメロディーを伝えるシーンに、孤独な者同士が何かを共有しようとする心情の交流が見て取れないだろうか?


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 ( ここで訂正を一つ。前回、「ジェルソミーナが人と目と目を見つめ合うシーンが二度ある」と書いたが、見直してみたら、ジェルソミーナと修道女も目と目を見つめ合っているようだ。そして、それはこの映画の論理としてはとても当然のことなのである。それに対して、ザンパノと見つめ合うことはついになかった。視線はつねにすれ違いつづけたのである。

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4) . そしてラスト。ジェルソミーナを置き去りにした場所に何年かぶりで戻ったザンパノが、洗濯物を干している女性があのメロディーを口ずさむのを耳にし、ジェルソミーナの死を知る。一番最後のシーンで、浜辺に突っ伏して号泣するザンパノにあのメロディーがかぶさるわけだが、ここで胸を突くのは、ザンパノが孤独であるということばかりでなく、孤独な者同士で目を見かわすことがもはやできないという永久に充たされることも救われることもない孤独がそこにあるということだ。 


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 1)から4)をふりかえって思うのだが、このテーマ曲は、映画の中で、孤独な者から孤独な者へと手渡しされるかのように伝えられていったという趣がある。上で「伝承」について言及したのも、そういう意味でのことだった。そうしたことを考えると、誰がつけたかは知らないが、あの「孤独な道を旅する(Travelling Down a Lonely Road)」という英語のタイトル名は、それほど悪くはないかなという気がしてくる。曲自体が、孤独な人から孤独な人へと旅をしているかのように思えるのだ。たぶん、英語タイトルの命名者はそれとは違う意味を込めていたに違いないが。



(つづく)








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