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マルクス主義の人気が再び上昇しているのはなぜか? (2) [海外メディア記事]

 マルクス主義のルネサンスを伝える『ガーディアン』紙の記事の二回目。

 一時は「みんな中流」と誰もが思い込むようになっていたが、21世紀に入ってからイギリスではまたぞろ階級間の憎悪が復活したという。

 このことは、イギリスの階級社会という伝統的な側面は消しがたいのだという形で解釈することもできるだろうが、要は、日本であれイギリスであれ、20世紀後半のごくわずかな時期に「みんな中流」の幻想が可能になったにすぎず、すぐに旧態に戻ったに過ぎない、ということなのかもしれない。

 さて、これから「階級」という(一度は死語になった)古い言葉を耳にする機会が増えることになるのだろうか?  おそらくそうなるだろう。失うものは何もない人々が世界で急増しているのだから。



 ちょっとだけ語句の説明を加えておく:

タハリール広場(Tahrir Square)・・・ムバラク大統領を退陣に追い込んだ民主化デモの中心地。

カストロの7月26日運動(Castro's 26th of July Movement)・・・キューバ革命が開始された日。

“Chav”・・・由来は諸説あって不明。「頭が悪く、粗暴で、犯罪に走りやすい」「下層階級の人々」を指す俗語。10年ほど前からイギリスでよく使われるようになったという。今日のイギリスにおける階級間の敵意に満ちた分裂状態を示す象徴的な言葉の一つ。この語をタイトルにしたジョーンズの書物については、次のURLに書評がある。http://www.guardian.co.uk/books/2011/jun/08/chavs-demonization-owen-jones-review





Why Marxism is on the rise again
Stuart Jeffries
guardian.co.uk, Wednesday 4 July 2012 20.00 BST




http://www.guardian.co.uk/world/2012/jul/04/the-return-of-marxism




マルクス主義の人気が再び上昇しているのはなぜか? (2)





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 昨年の保守党の党大会で抗議活動をする人々



 

ブラックウェル・パルは、木曜日、マルクス主義のフェスティバルでチェ・ゲバラとキューバ革命について話す予定だ。「私がマルクス主義について話す初めての機会になるでしょうね」と彼女は不安げに語った。しかし、この時代のこの日にゲバラやカストロについて考えることにどんな意味があるのだろう? 暴力的な社会主義革命が、今日の労働者の闘いに無関係なのは確かではないのか? 「全然そんなことはありませんよ!」と彼女は答えた。「いまイギリスで起こっていることは非常に興味深いのです。私たちは、とても、とても弱い政府を内紛状態に陥らせています。もし私たちが本当にきちんと組織化できれば、いまの政権を打倒することができると思うのです」。イギリスはタハリール広場や、カストロの7月26日運動に相当するものをもてるだろうか? 若い女性には夢を見てもらおうではないか。去年の暴動のこともあるし、イギリス国民の大半が内閣の金持ちの閣僚から離反している今日、そんな夢のようなことは起こらないと思う者がいるとすれば愚か者だけだろう。


 別の見通しをもって、私は、新しい左翼の27歳の旗手で、2011年のベストセラーとなった政治本『下層階級:労働者階級の悪者化(Chavs: The Demonization of the Working Class)』の著者であるオーウェン・ジョーンズ(Owen Jones)に会いに行った。彼は労組の会議での講演のためにブライトン行きの電車に乗っていた。「イギリスで流血の革命が起こることはないでしょうが、労働者による労働者のための社会に対する希望はありますよ」と彼は述べた。


 実際、1860年代に晩年のマルクスは暴力革命以外の方法で獲得されたポスト資本主義社会を想像していた、と彼は述べた。「マルクスは選挙権を拡大したり、別の平和的手段で社会主義的な社会を実現する可能性を見ていたのです。今日では、トロツキストの左翼でさえ武装革命を呼びかけたりはしないでしょう。急進的な左派でも、資本主義との決別は民主主義と労働者の組織化――公正な社会を確立して、それを破壊しようとする勢力からそれを守ろうとするための組織化――によってのみ達成できると言うでしょうね」。


 ジョーンズの思い出によると、1970年代に過激派の支持者だった彼の父は、労働党に潜入して労働党政権誕生に力を貸し、それから労働者を組織して政府が自分たちの要求を呑むように働きかけるという潜入工作のアイデアをもっていたようだ。「それが今でも僕のモデルですよ」と彼は言う。新しい労働党から何とかけ離れていることだろう。しかし、後日、ジョーンズはメールで、自分は過激派の支持者でもトロツキストでもないと明言した。むしろ、彼は労働党が政権の座について急進的な政治的プログラムを追求することを望んでいる。彼が心に抱いているのは、1974年2月の労働党の選挙用マニフェストの言葉である。それは、「権力と富のバランスに、働く人々とその家族のためになるような根本的で不可逆的な変革をもたらそう」という意向を表明したものだ。若者には夢を見てもらおうではないか。



 ジョーンズの文才が成功を収めたことで際立っているのは、それが成功したのは階級政治に対する関心の復活があったからだということだが、この階級という概念こそマルクス・エンゲルスの産業社会の分析にとっての礎石というべきものだ。「もし僕が4年前にあの本を書いていたら、それは1960年代の階級概念だとして片づけられていたでしょうね」とジョーンズは言う。「しかし、経済危機がさまざまな形で人々に影響を与え、「われわれはみんな一緒」という連立政権のモットーが不快で馬鹿馬鹿しいものに映ったので、階級という概念がわれわれの現実に戻ってきたのです。1990年代に主張されたように、われわれは皆中流階級だと主張することはもう不可能です。現政権の改革は階級に基づいています。たとえば、付加価値税の引き上げは労働者にとりわけ重い負担となっているのですから」。


 「これは公然たる階級間の戦争です」と彼は言う。「労働者階級の人々は2016年になると21世紀の初頭よりも暮らし向きが悪くなりますよ。でも、そんな悪影響を受ける国民の30%のために立ち上がると、特定の階級のための戦士だといって非難されるのですからね」。



 これはランシエール教授が私に語ってくれたことと合致する。教授は次のように主張した。「マルクス主義の思想で確固として変わらないものの一つは階級闘争です。工場が次々と消滅していますが、それはわが国が脱工業化し、労働力がもっと安価でもっと従順な国に工業的な仕事を外部委託することですが、これは、支配階級のブルジョワによる階級闘争の行為以外の何でしょうか? 」



 私たちが経済不況にあえぐ中、マルクス主義が階級闘争の分析以外に教えてくれるものをもっている理由がもう一つある。それは経済危機の分析にある。その恐るべき新著『無より少なく:ヘーゲルと弁証法的唯物論の影』において、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj ?i?ek)は、私たちが今耐えているものに経済危機に関するマルクス主義の思想を適用しようとする。ジジェクは根本的な階級の対立を「使用価値」と「交換価値」の対立と見なす。


 両者の違いは何か? 商品はどれもは使用価値を持っているが、それは、必要と欲求を満たす上での有用性によって測られる、と彼は説明する。それに対して、商品の交換価値は、伝統的にその製作に投入される労働の量によって測られる。現在の資本主義の下では、交換価値は自律的になる、とジジェクは主張する。「それは自己推進力のある資本という亡霊に変換させられ、その資本は実際の人々の生産力や欲求を一時的で使い捨て可能なその具現化として利用するのだ。マルクスは経済危機の概念をまさにこのギャップから引き出したのだ。危機が生ずるのは、お金が更なるお金を生み出すという自己増殖的な妄想にみちた蜃気楼に現実が追いつくとき――こんな投機的な狂気が無際限に続くはずがない、もっと深刻な危機の中で破裂せざるをえないことに現実が気づくとき、危機が生ずるのだ。マルクスにとって危機の究極の原因は、使用価値と交換価値のギャップだ。交換価値の論理は、現実の人々の現実の欲求とは無関係に、それ独自のルートをたどり、それ独自のダンスを踊るのだ」。


 これほど不安に満ちた時代では、人間の歴史を破局という観点から描く最大の理論家のカール・マルクスほど読むのにふさわしい人があるだろうか?マルクス主義に対する関心は、再生する度に、スターリン的な全体主義を正当化するものとして握りつぶされてきた。「新たなコミュニズム」についての最近のブログで、ランカシャー州にあるエッジ・ヒル大学の教授で民主主義の理論と実践を担当しているアラン・ジョンソン(Alan Johnson)は次のように書いた。「つい最近まで計り知れない苦痛や不幸の原因となり、ファシズムやナチズム以上の死をもたらした世界観が復活しつつある。つまり、新たな形の左翼的全体主義がそれだが、それは知的な人気を博しているばかりか政治権力を目指そうとしているのだ」。


 「新しいコミュニズムが問題なのは、それが知的なメリットをもたらしてくれるばかりでなく、それが、疲弊しきった社会民主主義、緊縮財政、自己嫌悪に陥った知的文化といった脈絡の中にいるヨーロッパの若者の各層に影響を及ぼすかもしれないからだ」とジョンソンは書いた。「それは魅力的なので、私たちはただ首を振ってそのかたわらを通り過ぎるだけでは済まないのである」。


 これは恐れだ。ジジェク、バディウ、ランシエール、イーグルトンといった扱いにくく老獪な左翼の連中が無垢の若者の心を腐敗させてしまわないかという恐れなのだ。しかし、マルクスやエンゲルスの資本主義批判を読んだからといって、それによってナチスよりも多くの死をもたらした世界観を身につけたということになるだろうか? 確かに『共産党宣言』から強制収容所は一本の線で結びついているわけではないし、左翼の若者がバディウの最もおぞましい思想を無批判に受け入れる必要がある訳もない。新装版『共産党宣言』の序文で、エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)教授は、マルクスが次のように主張したのは正しかったと述べた。「人と人を結びつけるものとしてはむき出しの私利私欲や血の通わない現金払いしかないような、そんな人間と人間の結びつきに基づく市場システムや、搾取と「際限のない富の蓄積」のシステムに潜む諸矛盾は決して克服されることがない。この本質的に不安定なシステムが展開していって、一連の転換や再構造化を経てある地点に達すると、もはや資本主義とは記述できない事態が生みだされるだろう」。

 
 これはマルクス主義者によって夢想されたポスト資本主義社会である。しかし、それはどのようなものになるのか? 「そのような「ポスト資本主義社会」が社会主義の伝統的なモデルに似たものになるなどということはきわめてありそうにもないし、ましてや「実際には今でも存在している」ソ連時代の社会主義に似たものであるはずがない」とホブズボームは主張し、次のように付け加えた。しかし、その社会は、私的専有から地球規模での社会的管理へのシフトを必然的に伴うだろう。「その社会がどのような形を取り、それがマルクスとエンゲルスの共産主義の人間主義的な価値をどのくらい具体化するかは、その変化が実現する際にどのような政治的行動が取られるかにかかっているだろう」。


 この考え方は、私たちの未来が私たち次第であり私たちがどれほど進んで闘う用意があるかにかかっていると主張しているのだから、確かにもっとも解放的なマルクス主義と言えるだろう。あるいは、マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』の最後で述べた言葉を借りるならば、「支配階級をして共産主義革命に震撼しからしめよ。プロレタリアは失うものは鉄鎖しかない。彼らには勝ち取るべき世界がある」のである。




 
」(おわり)







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