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「忙しい」という罠 [海外メディア記事]

 つい言ってしまいがちな「忙しい」。この言葉について思いを巡らせたエッセイを『ニューヨーク・タイムズ』から紹介する。


 「忙しい」という言い訳には、自分の人生が無意味なものではないということを言外に伝える防衛的な態度が込められているという。

 まあ、確かにそうだとは思う。人の誘いも断れるし一石二鳥だ。私もよく使わせてもらっている。

 で、何が言いたいのか?  結局は「怠惰」であることを称賛したいようだ。まあ、これは昔からよくある内容だ。でも、最後の一文は決まっていると言えるかな。曰く、「人生は短かすぎるので忙しくしている訳にはいかない(Life is too short to be busy)」。


  
 筆者のティム・クライダー(Tim Kreider)は、エッセイまじりの漫画というジャンルを開拓している人のようだ(ただし、「漫画」といっても、政治的な風味の強い漫画のようだ)。


The ‘Busy’ Trap
By TIM KREIDER
June 30, 2012, 3:15 AM

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/06/30/the-busy-trap/





  「忙しい」という罠


 もしあなたが21世紀のアメリカで暮らしているなら、とっても忙しいと多くの人から聞かされたことがあるだろう。それは、誰かに「最近どうしてる?」と聞くときまって返ってくるデフォルトの反応になってしまった。「忙しいよ」、「とっても忙しい」、「めちゃくちゃ忙しい」といった具合に。それが不平を装った自慢であるのは明らかだ。それに対する決まりきった反応も一種の祝福なのだ。「それはうれしい悲鳴だね」とか「暇なよりは良いよ」といった具合に。


 注意してほしいのは、自分がいかに忙しいかを語る人々は、概して、集中治療室での交代勤務に連続して就いていたり最低賃金の三つの職場にバスで通っているような人々ではないということだ。そんな仕事をしている人々は忙しいのではなく疲れているのだ。消耗しているのだ。ヘトヘトなのだ(Dead on their feet)。(それに対して)忙しさを嘆く人々の忙しさは自分自らに課したものにすぎない。仕事や日々の課題は彼らが自発的に引き受けたものだし、学校の授業や課外活動は、彼らが自分の子供に参加するように「説きすすめた」ものだ。彼らが忙しいのは、彼ら自身の望みや衝動や不安のためであり、彼らが忙しさの中毒にかかっているからであり、忙しくなければ直面せざるを得ないものを恐れているからなのだ。


 僕の知り合いのほとんどは多忙だ。彼らは、仕事をしていなかったり仕事の足しになることをしていなければ、不安や罪悪感を感じるのだ。そんな人々が友人とスケジュールの調整をしている様子は、学業成績がオールAの学生が、そうする方が大学の入学願書の見栄えがよくなるからという理由で、地域の奉仕活動に申し込みをしようとするのに似ている。僕は最近ある友人に、今週ちょっとしてほしいことがあるのだけれどどうだいとメールに書いたところ、その友人からは、あまり時間はないけど、そのちょっとしたことが続いているようならば連絡をくれ、数時間なら仕事から離れられるから、という返事をもらった。僕の問いかけは、いずれ来てほしい用事があるかもしれないという予備的な注意喚起ではないのだと僕はハッキリ言いたかった。僕は彼に来てほしかったのだ。しかし、彼の多忙さは四方八方に広がっていく騒音のようなもので、彼はその向こう側から僕に大声で叫んでいるみたいだった。僕は大声で叫び返そうとはしなかった。


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 今は子どもたちでさえも、授業や課外活動で30分刻みのスケジュールに追われて忙しい。彼らは、一日の終わりに、大人と同じように疲れた顔をして帰宅する。僕は鍵っ子世代の一員であり、毎日、午後の三時間は何の予定もないし監視の目もない時間があった。その時間で、ワールドブック百科事典をパラパラめくったり、アニメ映画を作ったり、森の中で友達と一緒になって相手の顔めがけて泥んこを投げ合ったりしたものだったが、そうしたすべてが僕に重要なスキルや洞察を与えてくれたし、それらは今でも貴重なものであり続けている。そうした自由な時間は、僕がこれからの人生をどのように過ごしていくかのモデルとなったのである。


 現在のヒステリー状態は、必然でも避けられない生活条件でもない。それは、僕たちがいやいやながらであるにしても、自分で選びとったものだ。少し前に、僕は高い家賃のために都市に住むことができなくなり、現在はフランス南部の小さな町に芸術家用の家を構えている友達とスカイプで会話をしたことがあった。彼女は自分を幸せだと言い、何年かぶりでリラックスしていた。彼女はまだ仕事を続けているが、だからと言って一日という時間や脳が消耗することはないという。まるで大学みたいだと彼女は言った――毎晩一緒にカフェに出かける友人が大勢いるからだった。彼女にはまたボーイフレンドができた(彼女はかつてニューヨークでのデートを残念そうにこう要約した。「誰もが忙しすぎるし、誰もが自分はもっと出来る人間だと考えているわね」)。彼女が間違って自分の性格――余裕がなく、気難しく、不安で悲しげな性格――だと思い込んでいたものは、環境が彼女の性格を変形させた結果だったのだ。誰もこんな風に生きたいと思っているわけではない。それは、誰も交通渋滞やスタジアムでの混雑や高校の残酷な上下関係の一部になりたいと思っていないのと同じである――それは、僕たちが集団の中でお互いにそうせざるを得ないようにしているものなのである。


 忙しさとは生きていく上での一種の安心感、空虚さを感じないで済む一種のヘッジなのだ。あなたがとても忙しく、予定がびっしり詰まっていて、毎時間ごとに呼び出されるならば、あなたの人生が愚かしいとか下らないとか無意味だとかになったりすることがありえないのは明らかだからだ。僕はかつてある雑誌社に見習いで働いている女性と知り合ったが、彼女は、何かの理由で特に必要でもない限り、外でランチを取ることは許されていなかった。それはエンターテイメントの雑誌だったが、エンターテイメントの雑誌の存在理由なんて、携帯の端末に「メニュー」ボタンが登場したときに消えていたはずだ、だから誰一人として社内からいなくなっては困るという見せかけは、組織が作りだす一種の自己欺瞞以外の何かとして考えるのは難しい。この国では、ますます多くの人はもはや具体的なものを作ったり行ったりしなくなっているのだ。もし自分の仕事がリチャード・スケアリー(Richard Scarry)の本に出てくる猫やボア・コンストリクター(boa constrictor : 南米の大蛇)によって行われていなければ、それは必要な仕事ではないのかもしれない。こんなに芝居じみた仕方でみんなが疲れ切ってしまっている現状は、僕たちの仕事のほとんどが重要じゃないという事実を隠すための方便なのではないかと僕は怪しまざるを得ないのだ。


 僕は忙しくない。僕は、僕が知る限りもっとも怠惰な野心的人間だ。ほとんどの作家と同様、僕は、何も書かない日には生きる価値がない自堕落な人間のように感じるが、4~5時間も書けばもう一日この地上に滞在するだけのものは稼げたかなとも感じたりする。僕の人生の最良の普通の日には、僕は午前中に原稿を書いて、午後は何時間も自転車に乗ってあちこちで用事をすませ、夕方には友人のもとを訪れたり、読書をしたり映画を見たりする。これは、一日としてはまともで快適なペースだろう。もし電話がかかってきて、仕事なんてやめてメトロポリタン美術館の新ギャラリーをチェックしに行かないかとか、セントラルパークで女の子を物色しないかとか、または単に一日中冷えたピンクのミント・カクテルを飲まないかといった誘いがあれば、僕は言うだろう、じゃ何時にすると。



 しかし、この数か月間、僕は、職業的な義務感のために、いつしか忙しくなり始めてしまった。生まれて初めて、僕は「忙しすぎて」僕に求められるあれやこれをすることができないと、真顔で言うことができるようになった。僕は、こんな愚痴をこぼすことがなぜ楽しいのかを理解することができた。そう愚痴をこぼすと、何か偉くなったような、ひっぱりだこで酷使されているような気分になれるからだ。毎朝、僕のメール・ボックスは、僕がやりたいとも思わないことをやってほしいと求めたり、僕が解決しなければならない問題を僕に差し出すメールであふれていた。それは次第に耐えがたくなり、ついに僕は街から秘密の場所に逃げ出して、そこで今僕はこの文章を書いている。



 ここで僕は義務感にひどく苦しめられることはない。テレビはないしね。メールをチェックするには、車で図書館に行く必要がある。一度に一週間分をチェックするのだが、知り合いに会うこともない。キンポウゲやカメムシや星の名前を思い出した。読書をした。そしてようやく数ヶ月ぶりに、僕はまともな文章といえるものを完成しつつある。世間に没入することがなければ人生について言うべき何かを見つけるのは難しいが、世間からすっかり脱出しなければ、人生とはどういうものか、人生についてどのように言うのがベストなのかを見つけ出すのもほぼ不可能なのである。


 怠惰であることは休暇や放縦や悪徳であるだけではない。それは、ビタミンDが体にとって必要不可欠であるのと同じくらい、脳にとって必要不可欠なものであり、それを欠くと僕たちはクル病と同じくらい奇形的な効果を及ぼす精神的苦痛を蒙るのだ。怠惰がもたらす自由と静けさは、人生から距離を置いて人生の全体を見るための、そして思ってもみない物事の間に関連性をつけたり、凶暴な夏の落雷のようなインスピレーションが到来するのを待ち構えるための必要条件なのだ――それは、逆説的に見えるかもしれないが、どんな仕事を完成させるために必要なものなのだ。「無益な夢想は、しばしば我々がすることの本質をなす」とトマス・ピンチョンは怠け者についてのエッセイで書いた。アキメデスが風呂で叫んだ「ユーレカ(わかったぞ)」や、ニュートンのリンゴや、ジキルとハイドやベンゼン環など、歴史は、怠惰な時間や夢想のときに現れたインスピレーションの物語りであふれている。怠け者やサボリ魔や役立たずのほうが勤勉家よりも世界の偉大なアイデアや発明や名作を生み出したのではないかと思いたくなるほどだ。


 「将来の目標は完全な失業状態であるので、我々は遊んでいてもいいのだ。だからこそ我々は現在の政治・経済のシステムを破壊しなければならないのだ」。これはマリファナ常習のアナーキストが宣言したもののように聞こえるかもしれないが、実はアーサー・C・クラークが書いたものだ。彼はスキューバ・ダイビングとピンボールの間の暇を見つけては『幼年期の終わり』を書いたり通信衛星の構想を考えたりした人だ。僕の昔の同僚のテッド・ロ-ル(Ted Rall)が最近書いたコラムは、僕たちが仕事と収入を分離して、すべての市民に一定の給与を保証するべきだと提案した。これは気違いじみた考え方のように見えるだろうが、やがては奴隷制廃止や国民参政権や8時間労働のように、約1世紀もたてば基本的人権であると見なされることだろう。ピューリタンは労働を美徳に変えたが、明らかに彼らは神が労働を罰として発明したことを忘れていたのだ。


 もし誰もが僕がしているように振る舞えば、おそらく世界はすぐに廃墟と化すだろう。でも僕はあえて言いたいのだが、理想的な人間の人生は、周囲の目をなんとも思わない僕の怠惰と、僕以外の世間が見せる際限もない熱心な勤勉さの中間にあるはずなのだ。僕の役割は、単に悪い影響を与える人間であることであり、教室の窓の外に立って机に座っている生徒に向かっておかしな顔をして、一度でもいいから理由をつけて教室から抜け出せ、外に出て遊ぼうとせかす子供でいることだ。僕自身の断固たる怠惰は美徳というよりぜいたく品だったのだが、僕は、ずっと前に、お金よりも時間を選ぼうと意識的な決断をしたのだ。この地上での限りある人生に対する最上の投資は、その人生を僕の大好きな人々と一緒に過ごすことだと僕はいつも思ってきたからだ。死の床で嘘をついてもっと働けばよかったとか言うべきことを何でも言えばよかったとか後悔することになるかもしれないが、でも僕が死の床で本当に望むことは、クリスともう一杯ビールを飲みたかったとか、ミーガンともっと長くしゃべっていたかったとか、最後にボイドと馬鹿笑いがしたかったといったことになるだろうと思う。人生は短かすぎるので忙しくしている訳にはいかないのだ。




」(おわり)



 




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