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愛と死---『恋はデジャ・ブ』から愛についての教訓を引きだす [海外メディア記事]

 以前、何となく、『ニューヨーク・タイムズ』に載った哲学者のエッセイを紹介したことがあった(『意味のある人生とは?』(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-09-28))。

 そのときは、その著者についてはほとんど記憶にとどまらなかったのだが、最近、同じ新聞の同じ欄でとあるエッセイを読んだとき、「ああ、あの時のあの人か」とようやく気がついた次第。書き手はトッド・メイ(Todd May)。クレムスン大学(Clemson University)の先生のようだ。

 以下のエッセイは、『恋はデジャ・ブ』という映画にそくして、愛という感情と時間(あるいは生と死)の関係に立ち入ったもの。少し難しいが、『恋はデジャ・ブ』を観たことのある人ならば、楽しめるのではないか。

 ちなみに、観たけど忘れた人や観たことのない人は、『恋はデジャ・ブ』のWikiも参考になるかもしれない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E3%81%AF%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%83%96


 私はちょっと違った解釈をしてみたい気持ちに駆られるのだが、それは別の機会に譲ることにしよう。



 Love and Death
By TODD MAY

February 26, 2012, 4:00 PM

http://opinionator.blogs.nytimes.com/2012/02/26/love-and-death/


 「 

 愛と死




1993年の映画『恋はデジャ・ブ(Groundhog Day)』でビル・マーレイが演じるレポーターのフィル・コナーズは、同じ日を何度も何度も生きることに直面して、出世を目指すことしか頭にない傲慢で利己的な人間から、他人と自分の世界を愛しそれらに感謝することができる人間に成熟する。マーレイは、耐えがたいほど自惚れが強い人間から、優しさに満ちあふれた人間への変貌を、説得力をもって演じた。永劫回帰というニーチェ的な試練は、ペンシルベニア州パンクスタウニーで演じられる限り、超人ではなく良識ある人間をもたらすかのようだ。


 しかしこの映画には別の筋が存在していて、それは、映画の最初の傲慢な段階や、再びカレンダーが動き出す神がかり以降の段階ではなく、彼がわざわざ日々の反復にはまり込んでいく映画の中盤のマーレイが扮する人物をよく見ると見えてくる筋なのである。映画の中頃になると、彼は自分のおかれた状況を受け入れてしまう。彼だけが、次に何が起こるかを知っているのだが、そんなことが何度も何度もくり返される。彼はそれ以外のことに対する期待を何も持たなくなる。この頃、つまり、彼が和解した頃になると、彼はパンクスタウニ―の模範的な市民になっている。彼は温かさと優しさを周囲に放射するようになるが、ある種の距離感をも放射するようになるのである。


 『恋はデジャ・ブ』の最初と最後の時期には、この心穏やかな中盤の時期にはないものがあった。それは情熱(passion)である。確かに、最初の頃のフィル・コナーズの出世に対する野心的な情熱は、(アンディ・マクダウェルが演じる)リタに対する愛という後になって現われる情熱に比べると、ずっと魅力のないものだ。しかし、どちらの場合でも情熱はある。同一物の永劫回帰は心の平和と和解をもたらすことはあっても、少なくともこのケースでは、情熱をもたらすことはないようだ。

 
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 そしてここには、愛についての教訓が潜んでいるかもしれない。グラウンドホッグ・デイ(Groundhog Day)がいつまでも続いている間に、コナーズがリタを愛するようになったということは否定できないだろう。しかし、その愛には情熱がない。彼が彼女とともに現実の未来に解き放たれるときに彼が感じる愛の情熱や奔放さが、そこにはないのだ。映画の最後の瞬間にはそれとは別のものがある。二人の関係に対して未来が開かれ、彼女に対する彼の強い感情のための新たな道が開かれたのだ。成長や発展のための未来がなければ、情熱的な愛はそれほど先には行くことはない。愛は、たとえば、打算的な友情などとは違うとはしても、その違いは(未来がなければ)すぐに消滅し始めるものだ。


 もちろん、どんな情熱的な愛にも、最初は無我夢中の時期というものがあるものだが、それはめったに長続きしない。愛が情熱を保つためには、そうした無我夢中の時期はもっと長期的な強度の愛に進化しなければならない。その長期的な強度の愛は、たとえ静かなものであっても、時間をかけて行われる共通の約束や計画を育み、それらによって育まれるような愛なのである。


 このことは、もし限りない未来があるとすれば、それは限られた未来よりも、さらに強い愛を可能にすることを意味すると受け取る人もいるかもしれない。不死の神々の間にも情熱的な愛があるならば、それは、私たち人間という種族には見られない強度をもつ愛になるかもしれない。何といっても、不死は無限の未来を開くからである。これが愛という情熱の利点であると思われるかもしれない。しかし、私は、事実はそれとは正反対であると思うし、何故そうなのかの手がかりを『恋はデジャ・ブ』は与えてくれるように思うのだ。もしこうした解釈の方針に沿ってこの映画のプロットをたどっていくならば、この映画が示しているのは、愛が高まっていくには時間が必要だということだけではなく、特定の時間が必要であること、発展(development)のための時間が必要であるということを、この映画は示しているのである。『恋はデジャ・ブ』の永劫回帰は多くの時間を提供している。それは時間が永遠に続いていくことを請け合っている。しかしそれは間違った種類の時間だったのだ。そこには、二人で暮らす生活を発展させる(develop)時間が何もなかった。その代わりに、同じ時間がたくさんあっただけなのだ。


 私たちが情熱的な愛に結びつける強度は、それが具体的に展開していくことを可能にする未来を要求するものだ。その強度は、確かに、瞬間的なものだが、愛が自分自身の運命であると見定めるある軌道の展開に結びついてもいるのだ。もし私たちが、来る日も来る日も、同じ瞬間、同じ時間に捉われているならば、それでも愛は残るかもしれないが、それに活気を与える情熱は衰え始めるだろう。



 だから、情熱的な愛は死を求めるのである。


 
 もし時間が無限であるならば、遅かれ早かれ未来は無限に続くグラウンドホッグ・デイに似てくるだろう。情熱的な愛の強度を確かなものにするのは、たんに未来があるという事実ではなく、二人で暮らす有意義な未来があるからなのである。二人が共有する計画が未来にあるからなのであり、その中で展開する情熱が未来にあるからなのである。確かに、いつまでも変わらずに愛し続けるカップルもいるだろう。でも、そういう愛は、いつまでも同じように歳月が過ぎ去るならば、それほど明々と燃え上がることはないだろう。


 でもそれはそれで良いのではないか? と言う人もいるだろう。(そういう人の言い分によれば)未来は未決定のままに開かれている。『恋はデジャ・ブ』の未来とは違って、未来はすでに決定されているわけではない。すぎ去ったばかりの一日によって次の日の大枠が決まってしまうことはない。私たちは、私たちの関係を違ったものにすることができる。愛する人に対して、自発的に行ったり作り出したりできることは、いつまでいってもなくなることはないのだ。



 しかしながら、これは正しくはない。情熱的な愛そのものが、なぜそうなのかを私たちに教えてくれるのである。愛は、その特殊なあり方における二人の特殊な人間の間に成り立つものだ。(愛する人がもっているのと)同じ特質をもっているからといって、別の人を愛することはできない。もしそうするならば、愛する人に似ていて、自分が引きつけられるある特質をちょっと余分に持っている人に出会ったとき、私たちは、愛を論ずる哲学者が使う言い方を借りるならば、「(もっと良い方に)のり換える(trade up)」ことになるだろう。しかし、私たちはのり換えたりはしないし、少なくとも私たちのほとんどはのり換えたりはしないものだ。それは、私たちが愛するのは、その特殊なあり方をしているその特定の人であるからなのだ。そして、私たちが共同で作り上げるもの、私たちの共通の計画や共有された感情は、こうした特殊なあり方の内に根拠をもっている。情熱的な愛といえどもどんなことでも出来るというわけではない。ある未来が二人の特定の人間の間で展開していき、それが有意義な形で可能にするものだけを、愛はなしうるのである。



 特殊な点が色々ある関係が拓(ひら)く道は、遅かれ早かれ、終わりに達する。すべてのカップルが、二人にとって有意義であると感じながら、スキーやカラオケ、政治的議論やガーデニングをしているとは限らない。しかし結局私たちは、一日一日の繰り返しによって道をすり減らすように同じ道を再三歩んでいるのである。そうなったからといって、愛が消え去る必要はない(そうなるかもしれないが)。だが、そうしたことが際限もなくくり返されていけば、情熱的な愛を情熱的なものにするあの強度を、愛は維持できなくなるのである。



 ここで、愛の強度は現在を充たすものであって、未来へ投影されるものではない、という反論が出てくるかもしれない。私が情熱的な愛の活力を感じるのは、今であり、他の瞬間を必要としないこの瞬間においてなのだ。この感情が、瞬間・瞬間をとおして、さらに続いていくことだってあるのではないか? 

 
 この問いに対して、私が指摘できるのは、人間の経験はそのように進むことはない、ということだけである。だから、かくも多くの賢人は、世界を正しく愛することができるためには、そこから距離を置くように求めたのだ。フィル・コナーズは、和解の時を迎えたとき、仏教徒のようだった。しかし、もう情熱に燃える人ではなかった。


 多くの読者はもうお気づきになったと思うが、愛についてのこの教訓は愛と死の関係だけではなく、愛と生との関係にも関わっているのだ。私たちの情熱的な愛の残り火の多くが消えかかってしまうのに、永遠という時間は必要ではない。二人によって共有された計画や情熱の新鮮さは失われ、それとともに私たちの関係もいくぶんかは失われてしまう。私たちはまだパートナーを愛してはいるが、私たちは、愛が新鮮で未来の地平が私たちを手招きしていたかつての日々の思い出の方に向かう。この場合、私たちはグラウンドホッグ・デイを探す必要はない。なぜなら、それは既に見つかっているのだから。



  こうした事態とどのように折り合いをつけて生きていけばいいのか? 突然起こるロマンスや、愛の強度が色褪せていくことを、どのように吸収して自分のものにしたらいいのか? 私たちは、あるがままの愛に順応することもできるし、不確かな未来(愛する人と一緒の未来、あるいは愛する人がいない未来)のために穏やかな安楽を犠牲にすることもできる。愛の強度が続く保証はまったくないのと同様に、愛は衰えていかざるをえないという保証もない。私の恩師の一人はかつて「人は、自分の魂のためにはある程度の危険を冒さなければならない」と言った。おそらく、これは情熱的な愛にも当てはまる。愛のただなかで死ぬことができれば、愛の衰退という避けがたい宿命を見ないですむだろう。だが、生き続けるならば、私たちは(生の)衰退そのものから救われるのである。






」(おわり)








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