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今が日本に行く季節 [海外メディア記事]

『ニューヨーク・タイムズ』紙の“Travel”欄に載った日本紹介の記事である。

 この時期に日本への「旅の誘い」の文章を欧米の新聞に書ける人はそう多くはいないだろう。この文章を書いたピコ・アイヤー(PICO IYER)という人は、日本で暮らして25年になる人のようだ。私は知らなかったが、wikiにも載るくらいの有名な小説家・著述家らしい(http://en.wikipedia.org/wiki/Pico_Iyer)。

 この文章の半分は、現在の京都を伝えるという意図で書かれている。たぶんそれが、この文章の本来の意図(編集者の意向)だったのだろう。しかし、アイヤー氏はそれだけでは収まりがつかなかったのだろう。後半で東北のことを書き、最後に、不幸と幸福のことを考える場を提供するという類まれな恩恵を与えてくれる日本という捉え方を披露している。旅行を勧める文章としては奇妙な構成だし、奇妙なまとめ方でもあるのだが、そうせざるを得なかったことは、多くの日本人が理解できることだと思う。

 私は、最後の数行がとても好きである。




Now Is the Season for Japan

By PICO IYER
Published: March 22, 2012



http://travel.nytimes.com/2012/03/25/travel/a-new-kyoto-opens-its-arms-to-visitors.html?src=me&ref=general





  今が日本に行く季節




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京都にある1600の寺院の一つである清水寺からの眺め




 今月のある晴れた早春の朝、私は龍安寺に向かった。龍安寺は世界でもっとも有名な石庭のある京都の寺である。その場に私以外の外国人は一人もいなかった。120エーカーの境内には日本人も多くはいなかった(私は、騒々しい修学旅行の一団があまりいない春休みの期間に合わせてこの旅行スケジュールを立てておいたのだ)。

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龍安寺にて有名な石庭に向き合う観光客



 だから、熊手で模様をつけた広い石庭の上に一見無秩序に配置されたように見える15の石の謎めいた光景を見おろしながら座っていたとき、私が耳にすることができたのは周囲の桜の木からやって来る鳥のさえずりだけだった。庭の一隅では、細い竹の樋から水が石の鉢に滴り落ち、あたりの静寂をいっそう深いものにしていた。手水鉢を囲むように文字が刻まれているが(「吾唯知足」)、それは「いま持っているものが必要なもののすべてだ」と述べているのだ。



 そのとき私が持っていたのは、静けさと、ゆったりとしたくつろぎと心の落ち着きだった。日本政府観光局によると、日本を訪れた外国人観光客の総数は昨年3月の地震につづく3ヶ月間は50%も急落したが、2012年1月の時点では、わずか4%の下落にとどまっている。

 それでも、日本が与えてくれる特別な恵みの一つである静寂の奥深さに、今年、新たな味わいが加わったのだ。表面的には、明日サンフランシスコやニューヨークからやって来る人を迎えるこの国は、昨年の大惨事にもかかわらず、2年前の日本と驚くほど似ているように見えるだろう。しかし、奥深いところで、日本はこれまで以上に傷つきやすくなっているので、そのために海外からの人を温かくもてなすようになったのである。


 2011年3月11日にこの国を襲ったマグニチュード9の地震、津波、原発のメルトダウンのために、ほぼ2万もの人が亡くなり、20年間の不況のせいですでに沈みかけていた経済状況をひっくり返し、17分ごとに1人が自殺したり、進むべき方向感が見えなかったり、たった6年間で7人もの首相になったりする問題に取り組もうとしていた国民の意欲を挫(くじ)いてしまった。


 しかし、これらのことはまた、日本ならではの回復力や沈着冷静さやコミュニティとしての結束力を際立たせもしたのであった。それまでは世界の他の国々との違いを力説するような所があった日本が、急に、もっと人間的で思いやりがあり素晴らしい側面を見せ始めるようになったのだ。全世界に精通する『モノクル』誌の最新号の言い方を借りれば、日本は長らく「世界で最もチャーミングな国」だった。しかし今では、観光客に最も感謝の念を表わす国の一つになったのである。


 別の言い方をしてみよう。今月のありふれた或る一日をとってみると――その日は、たまたま、あの津波の一周年の日だった――京都の中心部にある円山公園では、巨大な生け花が照明に照らされ、近くの小川を火のともった灯篭が流れて行くのを見ることができた。着物姿の女性に交じって、東山の路地に沿って並んだ2500基の行灯を見て歩き、八坂神社で舞子が儀式的な舞いを披露しているのを、無料で見ることもできた。電車やバスを乗りついで、イオ・ミン・ペイが設計した素晴らしいMIHO MUSEUMに行くこともできた。MIHO MUSEUMは、京都駅から70分のところにある巨大で人里離れた自然公園の中にポツンと立っていて、入り口が独特な宇宙時代のトンネルになっている美術館だ。あるいは、他の15,000人とともに京都で初のマラソンを走ることもできた。


 その一方で、あらゆる点で、長いこと日本を独特な国にしてきた(そしてしばしば腰の低い国にしてきた)特質は、どこにいっても目についた。空港では、タクシーの運転手は車から飛び降りて、前のタクシーのトランクに荷物を入れる手伝いをしていた。コンビニエンス・ストアでは、幽霊のようなアイシャドーをした茶髪の女性が、学校を卒業したばかりの店員と同じくらいに、拍子抜けするくらい親切で丁寧だった。今年の3月3日には、毎年のように、家族は赤と白と緑の層でできた菱形の餅を食べ、わらの人形を小川に浮かべてひな祭りを祝った。


 25年以上にわたって私は京都の近くで暮らしてきたが、1600もの寺があるこの都市がかつてなく祝祭的で国際的でカラフルになっていく様を見てきた。たしかに、恥知らずなディベロッパーは醜いコンクリートの塊をつくるために木造の建物を取り壊し続けているし、狭い車線の混雑はますます深刻になっている。


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 通りはますます混雑し、スタイリッシュなこの都市はかつて以上に祝祭的で、国際的でカラフルになっている。



 しかし別の点で、日本の文化の核心部分はますます若々しく洗練されたものになってきている。学生たちの文化(京都周辺には高等教育の施設が38もある)も、今月、市の中心部で行われた即興のダンス・パフォーマンスやアート・ショーを見れば明らかだった。季節が変わるたびごとに新しいデザイン・ホテルが出現している。今では日没後でも門を開けている寺があるので、あなたは暗闇の中で照明に照らされた不思議な世界を散歩することができるようになった。


 京都は今でも、先祖代々受け継がれてきた茶道と着物と座禅の本拠地であるが、そこはまた、日本初のマンガ・ミュージアムや、15階建ての斬新な立方体の駅ビルや、任天堂の本社のあるスタイリッシュな場所でもあるのだ。


 今では、英語で書かれた看板があるし、電車やバスでは英語のアナンスが流れる(私が来日した頃は、そんなものはなかった)。円高のために、ドルをもっている人にとって、ものの値段は5年前に比べて50%高くなっているが、 もしあなたがジャパンレールパス(Japan Rail Pass)を使用して、今どこにいるかについての注意を怠らなければ、日本はイギリスや北ヨーロッパの多くの国ほどお金のかかる国ではない(私の地元の喫茶店ではピザは5ドルもかからない――税金やチップを心配する必要もない――し、自動販売機で買えるハイエンドのカプチーノは1.5ドルだ)。それにとりわけ、日本は、私が知っている他のどの国にもまして、他のどこにも似ていない国のままなのだ。



 以上述べたことのすべては、昨年の大災害の恐ろしさを否認することではない。4か月前、私が、地震の震源地に最も近い北部の都市である仙台を訪れたとき、その繁華街はそれまでと同様に活気に満ち照明に照らされていた。しかし、わずか車を40分走らせたところには悲惨な光景の数々があった。すっかり廃墟になった家の外に洗濯物が吊り下がっていたり、墓石が倒れていた。



 その同じ月、私はダライ・ラマとともに、仙台に近い漁業の街である石巻を訪れたが、概して容易なことでは動じないこのチベット人のリーダーでさえも涙をこらえることはできなかった。福島原子力発電所の周辺では、私が10月にそこに行ったときは、店にはシャッターが下りていたし、ゲームセンターや、ビーチ·ボーイズが何度も「アイ・ゲット・アラウンド(I Get Around)」を歌っていたスリー・テーブルズ風の喫茶店などで暇をつぶしていた原発の作業員をのぞいて、通りには誰もいなかった。



 だがそこでも、原発から一時間あるかないかの所にあるリゾートホテルの朝食会場は、どしゃ降りの雨のなか、早朝からハーフプレーをしようと待ち構えている東京から来た熱心なゴルファーたちで満杯だった。



 火事や地震や戦争が千年以上にわたって続いた後で、日本が逆境に対してどほれどの心構えができているのかを部外者があれこれ言うのは難しいことだ。日本の国民が慎重かつ賢明であるのは周知のことだが、彼らは無駄な感情に溺れたりはしない。私の妻のヒロコは、その父母は広島出身だが、昨年、初孫が横浜で生まれたのを見たと思ったのもつかの間、その孫が生まれて二週間しかたっていないときに、わずか150マイルしか離れていないところでメルトダウンが発生することに直面したのだった。ヒロコは息子に言った、きちんとした予防はしなさい、でも、どこに行っても完全に安全な場所はないということは忘れないで、と。


 私達夫婦の隣で育ったその少年は、自分の幼い娘――と妻――を避難させ、彼の東京のマンションから250マイル離れた大阪に住まわせたが、彼は、原発から130マイルの距離にある東京で働き続けている。

 
 だから今日日本を訪れる観光客は、変わることのない日本の美のすべてを楽しむことは出来るのだが、それと同時に、心情的な、さらには実践的なサポートを提供することもできるのである。「東北発見ツアー(Discover Tohoku Tour)(http://www.japanican.com/special/discover_tohoku/)」は、昨年の悲劇がおきた中心部に近い名所――その中には、島が点在する古くから有名な松島や、世界遺産に指定された平泉の寺院が含まれている――への4日から6日におよぶツアーを提供している。



 今月は、日本に押しよせる多くの格安航空会社の一つであるピーチ・アビエーションが就航を開始し、大阪から遠く離れた札幌までを列車の料金の6分の1の60ドルたらずで結ぶことになる。




 昨年の大震災を追悼する意味で出版された短編小説の作品集である『それでも三月は、また』の中では、たぶんもっとも繊細でもっとも美しい角田光代の作品「ピース」の中で、ある中年女性は、自分の夫が東京の大停電の最中に若い愛人と一緒にいたことを知った後で、自分の人生について振り返る。

 
 「獲得することは幸せになる事ではなかった」ことを彼女は日本のバブルの頃に学んでいたのだが、いまは「失うことが不幸の源でない」ことが彼女には判るのだ。自分の住む街に明かりが戻ってきたとき彼女は考えた、人生に幸せな瞬間があったからといって、自分が味わった喪失を消し去ることはできない。しかしまた、喪失を味わったからといって、自分が幸福を味わう妨げになることもできないのだと。


 日本の多くの人々がそうしているように、これら二つの考えを心に抱くこと――つまり、人生は悲しみの世界に喜びをもって関わることを意味するのだということを理解し、そして、苦しむことは不幸とは同じではないのだということを理解すること――は、歴史を重ねたこの国が提供できる類まれな恩恵の一つなのである。


 いま、東京の浅草では大きな観音堂に至る仲見世の上で、紙でできた桜の花がひらめいており、8世紀に首都だった奈良では、女性たちが、素顔に明るい春の日差しを浴びぬようにと、日傘をさして梅の花の下を歩いている。



」(おわり)







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