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内向的な人が必要とされる訳 [海外メディア記事]

  これは記事というよりも、内向的人間を研究し内向性を称賛したスーザン・ケインという心理学者の新刊書の紹介なのだが、面白そうなので訳してみた。

 「ポジティヴ・シンキング」の言葉に代表されるように、外向的なことが何かと称賛される世の中にあって、内向型の人間などは二流の人間という烙印を押されかねない風潮があるが、ケインの著書はそんな風潮に矢を放ったものであるようだ。

 著者の定義によると、内向と内気は違う。 内向とは「過剰な刺激を避けようとする」傾向であるのに対して、内気は「社会的非難や屈辱に対する恐れ」を抱きやすい心のあり方なのだという。だから、内向的ではあるが内気ではない人もいるし(たとえばビル・ゲイツ)、外向的だが内気な人もいるのだという(たとえばバーバラ・ストライサンド)。こういう指摘は面白いと思う。

 内向的人間の典型としてローザ・パークスがあがっている。パークスが人種隔離バスで白人に席を譲ることを拒んだことが1960年代の黒人の公民権運動の発火点となったのだが、パークスの詳細についてはWikiを参照されたい。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9



Why the world needs introverts

Susan Cain
guardian.co.uk, Tuesday 13 March 2012 20.00 GMT


http://www.guardian.co.uk/science/2012/mar/13/why-the-world-needs-introverts




 世界が内向的人間を必要とする理由


 内気で、自信がなく、孤独を愛する:内向性について一般的に好んで考えられる特徴は数多くある――その多くがネガティヴなものだが――、しかし現実はそれよりずっと複雑である。



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ローザ・パークス : 世界を変えた内向的人間


 
 私たちの人生は性別や人種などによってと同様、性格によっても深く形成されている。性格の最も重要な側面――科学者のJD・ヒグリー(JD Higley)の言葉を使えば「気質の北極と南極」――は、私たちが内向・外向のスペクトルのどの地点に位置しているかということだ。この連続的スペクトルのどこに位置しているかが、友人や仲間の選択や、どう会話をしたり、意見の相違点をどう解消したり、どう愛情を示すのかといった仕方に影響を与えている。それは、私たちが選ぶキャリアに影響を及ぼし、そのキャリアで成功するかどうかにも影響を及ぼす。その影響は、私たちがどれほど運動をするか(外向的人間に見出される習慣)、浮気をしそうか(外向的人間)、不眠不休で仕事をするか(内向的人間)、間違いから学べるか(内向的人間)、株式市場に大金を投じられるか(外向的人間)、すぐに満足しようとしないか(内向的人間)、良いリーダーになれるか(求められるリーダーのタイプによる)、起きるかもしれないことを考えてくよくよするか(内向的人間)、などに及ぶのである。




 こうした違いは、私たちの脳神経の経路や神経伝達物質や我々の神経系の隅々にまで反映している。今日、内向性と外向性は、性格心理学において最も徹底的に調べられているテーマの一つであり、数百といる科学者たちの好奇心を駆り立てやまないものである。


 こうした研究者は最新の技術の支援をえて刺激的な発見を次々としたが、それらはいくつもの段階を経て形成されてきた長い伝統の一部である。詩人や哲学者は有史以来、内向的人間と外向的人間について考えてきた。どちらの性格タイプも聖書やギリシャ・ローマの医師の文章に出てくるし、進化心理学者のなかには、こうした性格タイプの歴史はそれよりずっと太古の昔に遡るという者もいる。つまり、ミバエからアカゲザルやパンプキンシード・フィッシュにいたるまでの動物界にも、「内向的」個体と「外向的」個体がいるのだという。他の補完的な対――男性性と女性性、東側と西側、リベラル派と保守派――と同様に、この二つの性格のスタイルがなければ、人類は他の種と変わりばえがなく、その数を大幅に減らしていただろうと言うのである。


 ローザ・パークス(Rosa Parks)とマーティン・ルーサー・キングJr(Martin Luther King Jr)の関係を考えてみよう。恐るべき弁論家であったキング牧師が人種隔離バスで自分の席を白人に譲ることを拒否したとしても、緊急事態でも起こらない限りは黙っていることを好んだ控えめな女性のパークスと同じ効果をあげることはなかっただろう。パークスは、立ち上がって「私には夢がある」と語ろうと努めたとしても、一般大衆を感動させるだけのものは持っていなかった。しかし、キングの助けがあったので、彼女はそうする必要はなかったのだ。


 ところで、今日の私たちには、とても狭い性格スタイルの余地しか残されていない。ビッグになることは大胆になることだ、幸福になることは社交的になることだと、私たちは教えられる。引きこもりがちな内向型は、校庭でも企業の廊下でも注目されることはない。何か人生の大事件が起こって――会社を首になるとか、失恋するとか、遺産がころがり込んで時間を好きなように使えるようになるとか――急に、自分の真の性格に気がつくようになるまで、{外向的にならないといけないと思いこんで}自分をだまし続ける者すらいるのだ。


 私たちは、「外向型人間の理想(Extrovert Ideal)」と私が呼ぶ価値観とともに生きている。その理想を言いかえれば、理想的な自我とは社交的で、先頭に立ちスポットライトを浴びてこそ快適でいられるという、いたる所にある信念のことだ。典型的な外向型は、熟慮するよりも行動することを好み、注意深くするよりもリスクを冒すことを好み、疑うことよりも確信することを好む。外向型の人間は、間違っているとしても、素早い意思決定を優先するし、チーム中でうまく作業し、グループの中で社交的にふるまう。私たちは、個性は大事だと好んで考えるが、あまりにしばしば一つのタイプの個人を称賛しがちだ――「自分の存在を誇示」したがるタイプを、である。確かに私たちは、ガレージで起業する理系的な才能がある一匹オオカミならばどんな性格を持っていてもかまわないと思うが、でもそういう人間は例外であって規則ではないし、私たちの許容範囲は、大金持ちになったりきっとそうなりそうな人々に限られるのだ。


 内向性――その同類である敏感さ、生真面目さ、内気といった性格とともに――は、今や、二流の性格なのであって、人をガッカリさせる性格と病理的な性格の中間にあると思われている。外向的人間の理想の下で暮らしている内向的人間は、男性の世界で暮らす女性のようなもので、その人格の核心にまで達する特性のために安く見られてしまうのだ。外向性は非常に魅力的な性格スタイルだが、それは抑圧的な基準に変わってしまったのであり、私たちのほとんどはそれに従わなければならないと感じているのだ。

 
 「外向型人間の理想」は、多くの研究で実証されてきた。たとえば、おしゃべりな人は、より賢く、知的で容姿も素敵に見え、興味をそそり、友人としてより望ましいという評価を受ける。話すスピードは、話しの量と同じくらい重要だ。私たちは、速く話す人を、遅い人よりも有能で好感がもてると評価する。同じ力学は集団にも適用され、おしゃべりの多い集団は寡黙な集団よりも賢そうだと見なされる――おしゃべりと良いアイディアとの関連性はゼロなのだが――ということを示した研究もあるのだ。内向的という言葉でさえ一種の烙印となるのだ――心理学者のローリー・ヘルゴー(Laurie Helgoe)による非公式の研究によると、内向的な人間は自分自身の外見を生き生きとした言葉で描写したが(「緑-青色の眼」、「エキゾティックな顔立ち」、「頬骨が高い」)、内向的な人間を一般的に描写してくださいと求められると、彼らは平板で不快な描写をした(「見苦しい」、「中間色」、「肌に問題がある」)。


 だが、私たちが「外向型人間の理想」を深く考えもせずを受け入れるとしたら、それは大きな間違いだ。私たちのもっとも偉大な――進化論からファン・ゴッホのひまわりやパソコンにいたるまでの――思想、芸術、発明の中には、自分の内的世界とそこにある宝に耳を傾ける方法を知っていたもの静かで知的な人々からやって来たものもあるのだ。内向的人々がいなければ、この世界には、ニュートンの重力理論も、アインシュタインの相対性理論も、WBイェイツの「再生(The Second Coming)」も、ショパンのノクターンも、プルーストの『失われた時を求めて』も、ピーターパンも、オーウェルの『1984年』も、『キャット イン ザ ハット(The Cat in The Hat)』も、チャーリー・ブラウンも、スティーブン・スピルバーグの映画も、グーグル(内向的なラリー・ペイジは共同設立者の一人)も、『ハリー・ポッター』もなかっただろう。


 科学ジャーナリストのウィニフレッド・ギャラガー(Winifred Gallagher)が書いているように、「刺激を受けたときに、急いでそれに関わろうとするよりも、その刺激を考察しようと立ち止まってみる気質が輝かしいのは、それが知的・芸術的偉業と長く結びついてきたことにある。アインシュタインのE=mc2もミルトン『失楽園』も、パーティー好きな人間によって生み出されることはなかった」。金融や政治や社会的運動のようにあまり内向的とは見えない職業でも、最も大きな飛躍が内向的人間によって成し遂げられた場合もある。アル・ゴア、ウォーレン・バフェット、エレノア・ルーズベルト、ガンジーなどの業績は、(内向性にもかかわらず、ではなく)内向性のゆえに彼らがなし遂げたものであった。


 しかし、現代の生活の中で最も重要な施設の多くは、集団的なプロジェクトや高レベルの刺激を楽しむ人のために設計されている。学校の教室の机は、グループ学習を促すために、小集団に分かれるように並べられるようになってきているが、研究が示す所によると、教師の大半は理想的な生徒は外向的であると信じているのだという。大人になっても、私たちの多くは、壁のないオフィスの中で、とりわけ「人間力(people skill)」を評価する上司のためにチームとなって働くべしと主張する組織のために働いている。自分のキャリアを高めるために、自分を臆面もなく売り込むことは当然だと思われている。外部から資金を得る研究をしている科学者たちは自信たっぷりの、おそらくは自信過剰の性格をもっている。現代の美術館に作品が飾られるようなアーティストは、ギャラリーのオープニングで印象的なポーズをとったりする。自著が出版される運びとなる著者は――以前は孤独であったにせよ――今や、いつでもトークショーに出演できるかどうか出版社によってチェックされているのである。


 もしあなたが内向的な人間であるならば、口数が少ないことに対する偏見が深い精神的な苦痛を引き起こすことがあることは御存じであろう。子供のころ、親が「この子は内気な子で」と弁解するのを耳にしたことがあったかもしれない。または学校で「殻に閉じこもってないで外に出なさい」――この有害な表現は、動物の中にはどこに行くにも殻をもっていく動物がいるし、人間だって同じことだということを正当に評価していない――とせっつかれたことがあったかもしれない。「お前は怠け者だ、間抜けだ、動作がのろい、退屈な奴だといった子供の頃から言われてきた言葉がまだ耳の中で鳴り響いている」と、「イントロヴァート・リトリート(Introvert Retreat : 内向型人間の避難所の意)」という名前のメーリング・リストのメンバーは書いている。「自分は単に内向的なのだと理解できるようになる年齢になる頃には、私のどこかが本質的に間違っているのだという思い込みが、自分の存在の一部になっていた。そんな疑いがまだちょっとでも残っていたら、それを見つけて取り除きたいと思っているのだが」。



 内気で外向的というタイプもありうる



 内向と外向の定義は、性格心理学者の数だけあるといってもいいかもしれない。それでも、それらの定義は、いくつかの重要な点で一致する傾向がある。たとえば、内向型と外向型は、うまく活動するために必要な外部の刺激のレベルで異なっている、という点がそうだ。内向型は、親しい友人とワインを飲んだり、クロスワード・パズルを解いたり本を読んだりする時のように、刺激が少ないほど「自分にふさわしい」と感じるのだ。外向型は、初めての人に会ったり、滑りやすいゲレンデでスキーをしたりステレオの音量を上げたりするような活動に由来する過剰な刺激を楽しむのである。


 多くの心理学者はまた、内向型と外向型の仕事ぶりが異なっていることにも同意するだろう。外向型は割り当てられた仕事に急いで取り組む傾向がある。彼らは速く(時には性急に)決定を行い、同時に複数の仕事をこなしたりリスクを取ることも平気だ。彼らはお金やステータスのような報酬を「得ようとするスリル」が楽しいのだ。内向型は、しばしば、ゆっくり慎重に作業をする。彼らは一度に一つの課題に集中することを好み、並み外れた集中力を発揮することがある。彼らは、富や名声といった誘惑にひっかかることは比較的少ない。

 
 内向型人間ではない特徴をいくつかあげよう。内向的という言葉は、隠者とか人間嫌いの同義語ではない。そういう内向型もいるだろうが、大半はまったく人づきあいの良い人間である。英語にある最も人間味のあるフレーズの一つ――「ただ結びつけることだけを考えて(Only connect!)」――を書き記したのは、「至高の人間愛」はどのようにして得られるかという問いを探求した小説である『ハワーズ・エンド』のEM・フォースターだったが、彼が内向型だったことは明白だ。

 それに内向型人間は必ずしも内気であるとは限らない。内気(shyness)とは社会的非難や屈辱に対する恐れだが、内向とは過度に刺激的ではない環境を優先する態度なのである。内気には本質的に苦痛が伴う。内向はそうではない。人々が二つの概念を混同する理由の一つは、両者が時々重なり合っているからである(どの程度なのかは心理学者の議論の的だが)。

 並はずれた性格をもちながら人前に立つと竦(すく)んでしまうほどあがり症だったバーバラ・ストライサンドのように、内気で外向型という場合もあるだろうし、どう見ても人と打ち解けることはなく人の意見に動じることもないビル・ゲイツのように、内気ではないが内向型の人間もいる。もちろん、内気で内向型である人もいる。有名なようにTSエリオットは自分の世界に閉じこもった人で、「一握りの塵の中にでも恐怖を見せる(show you fear in a handful of dust)」ことができると『荒地』に書いた。内気な人の多くは、多大な不安を引き起こす社交的なつき合いからの避難所として、自己の内面に向かう。そして内向型の多くは内気だが、それは、内省の方を好むのは間違っているという世間からのメッセージを受け取った結果としてそうなった場合もあるだろうし、また、刺激にあふれた環境からは生理的に離れていたいと思わざるをえない場合もあるだろう。

 しかし、どれほど違っていようとも、内気と内向には深い共通点がある。ビジネス上の会合で静かに座っている内気で外向型の人の精神状態は、静かな内向型の人とは非常に異なったものであるだろう――内気な人は大声で話すことに恐れを抱くのだが、内向型の人は単に過剰な刺激の渦中にいて困惑しているのだ――外部の目から見れば、両者は同じように見えるだろうが。私たちは何でも一番がいい思いこんでいるために、善良で知的で賢明なものが見えなくなっているが、なぜそうなのかの洞察をこれまでの叙述は与えてくれるだろう。理由は色々あるだろうが、内気で内向型の人間は、発明や研究に没頭したりまたは重病人の手を握りしめたりといった舞台裏の仕事をして日々を過ごそうとするかもしれないし――あるいは指導的な立場についても、もの静かに能力を発揮しながら事に当たるかもしれない。これらは社会の先頭に立つような役割ではないが、それでも、その役割を演ずる人々は模範的な人といえるのである。



 スーザン・ケイン著:『静かな人:おしゃべりを止められない世界における内向型人間の力(Quiet: The Power of Introverts in a World that Can't Stop Talking by Susan Cain)』からの抜粋



」(おわり)




コメント(2) 
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コメント 2

あき

はじめまして。
私は小学校に勤めております。
この3月で定年退職になる校長先生は「人格分析」がお好きな先生です。昨日の納め会で私の分析をお願いしたところ、
「一言でいうと淑女。そして内向である。あなたの内向は長所であるから、自信を持ちなさい」とのお言葉でした。
内向の意味を十分に咀嚼するために、ユングを調べたりしていて、このブログに辿り着きました。
スーザン・ケインの本の紹介、ありがとうございます。私も参考にしてみます。
by あき (2012-03-24 16:01) 

MikS

読んでいただいて有難うございます。

日本でも内向性の意義を深く掘り下げる本が出ればよいのですが。
by MikS (2012-03-24 23:27) 

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