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抑圧の道具と化した自由―――リバタリアニズム批判 [海外メディア記事]

 自由は善で、自由に対する規制や制限は悪。
 
 一般的な語感としてはそうだし、多くの人も何となくそういう語感に引きずられてしまうのも事実だ。だが、果たしてそうか?

 個人の自由に対する国家からの介入(主に経済的な意味での介入)を最小限にしようという思想は、欧米においては伝統的に根強く存在していたし、今日でもアメリカの保守層には強固に存在している。その思想は、「リバタリアニズム(Libertarianism)」の名のもとに、擁護・批判されることが多い。「リバタリアニズム」は、日本でも有名になったサンデルの『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられているので、知っている人も多いことだろう。手ごろな解説については、以下のwikiの項目を参照されたい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0


 しかし、かつてはいざ知らず、昨今の「リバタリアニズム」は企業や金持ちの強欲・貪欲を正当化するための哲学に堕してしまい、そこで持ち出される「自由」は、弱者や貧困にあえぐ人々をさらに抑圧する道具と化してしまったというのが、このコラム記事の内容。イギリス『ガーディアン』紙で見かけて、興味をそそったので紹介してみようと思った。

 「われわれは99パーセントだ」の運動も、突き詰めれば、こうした「(右派)リバタリアニズム」に対する戦いと特徴づけられるかもしれない。結局は「自由」というものを(正義や財産権と関連させて)どう考えるかという問題に行きつくようだが、今日はこれ以上述べるのは止めておこう。こうした点に関心のある方は、以下のコラム記事に目を通していただければ、大枠は理解できると思う。


This bastardised libertarianism makes 'freedom' an instrument of oppression
George Monbiot
guardian.co.uk, Monday 19 December 2011 20.30 GMT

http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2011/dec/19/bastardised-libertarianism-makes-freedom-oppression



  安っぽいものになり下がったリバタリアニズムは「自由」を抑圧の道具にする


 それは、国家が99%の国民を保護する必要性を否定し、際限もなく搾取しようと望む人々が利用する隠れ蓑だ


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 「自由(Freedom)」 : それに誰が反対できようか?  しかし、この語は今、おびただしい形をとって現われる搾取を正当化するために利用されているのだ。右派のマスコミやブログを通して、シンクタンクや政府機関の間で、この自由という語のおかげで、貧困層の生活に対するありとあらゆる攻撃や、1%の人間のおかげでわれわれが被っているありとあらゆる不平等や権利侵害に免罪符が与えられているのだ。リバタリアニズムは、かつては止むに止まれぬ気高い大義をもっていたのに、どうして不正義と同義語になってしまったのだろうか? 

 
 自由――規制からの自由――の名のもとに、銀行は経済をダメにすることが許された。自由の名のもとに、大金持ちに対する税がカットされた。自由の名のもとに、企業は、最低賃金を引き下げ労働時間を延長するためのロビー活動を行っている。アメリカの保険会社が実効性のある公的医療を阻止しようと議会に働きかけるのも同じ趣旨だ。政府はわれわれの法案を台無しにしている。大企業は環境を破壊している。これは、権力をもつ者が弱者を搾取する自由であり、金持ちが貧しい者を搾取する自由なのだ。

 
 右派リバタリアニズムは、立法化に対する正当な制限がありうることを認めないし、それが他人の生活にどのような影響を及ぼすものであるかには無関心だ。こうしたことは、イギリスでは、納税者同盟(Taxpayers' Alliance)、アダム・スミス協会(Adam Smith Institute)、経済情勢研究所(Institute of Economic Affairs)、政策交換会(Policy Exchange)などの集団によって強力に推進されている。これらの集団が抱く自由の概念は、私には、強欲を正当化するものにしか見えないのである。

 
 では、われわれがこうした自由の概念を問題視するのに手間取ってきたのはどうしてなのか? その理由の一つは次の通りだと私は思う。われわれの時代の大きな政治的対立――一方には、ネオコンや億万長者やそれらが支える企業があり、他方には、社会正義をめざす活動家や環境活動家がいる――は、消極的自由(negative freedom)と積極的自由(positive freedom)との衝突として間違った扱いを受けてきた。これらの自由は、アイザイヤ・バーリン(Isaiah Berlin)の1958年のエッセイ『自由の二つの概念(Two Concepts of Liberty)』でとても明確に定義されている。このエッセイは美しい作品だ。それを読むことは見事に演奏された楽曲を聴くようなものだ。このエッセイにひどい扱いをしないように私は努めるつもりだ。

 簡潔で大雑把に言えば、消極的自由とは、他人の干渉をうけずに存在したり行為したりできる自由のことである。積極的自由とは禁止から自由であること、社会的または心理的制約を超越することによって得られる力のことである。バーリンは、積極的自由が専制政治によって、特にソ連によって、いかに悪用されてきたかを説明した。ソ連は、人民が権力の座につくことによっていかに容赦のない統治がおこなわれたかを示してくれたが、ソ連の人民は、単一の集団意志に自らを従属化させることによって、より高い自由度を達成できると思っていたのである。

 右派リバタリアンの主張によれば、環境保護の活動家や社会正義をめざす運動家たちは、積極的自由のソ連的な考え方を復活させようとしている隠れ共産主義者たちだ、ということになる。しかし実は、この争いのほとんどは、消極的な自由同士の衝突から成り立っているのである。

 バーリンは次のように指摘した。「どんな点でも決して他の人間の生活を妨害しないような完全にプライベートな活動というものはない。「カワカマスにとっての自由は、(それに食べられてしまう)ミノウにとっては死なのである(Freedom for the pike is death for the minnows)」」。だから、ある人々の自由は、しばしば「他者の自由を確保するために」切り詰められなければならない、とバーリンは主張した。言い換えれば、あなたは自由に拳(こぶし)を振り回すことができるが、その自由は、私の鼻づらが始まるところで終わる。「占拠せよ」の運動が典型を示しているように、環境保護や社会正義をめざす運動が擁護している自由とは、自分の鼻づらを殴られない消極的自由なのである。

 バーリンはまた、自由は、正義や平等や人間の幸福などの価値を侵害することがありうるということも示した。「私自身や私の階級や国家の自由が他の多くの人間の不幸に依存しているならば、これを促しているシステムは不正であり不道徳である」。したがって、国家は、他の人々の自由に干渉する自由には――または正義や人間性と相いれない自由には――法的な制約を課すべきなのである。

 消極的な自由同士のこうした葛藤は、イギリスの環境保護運動の礎(いしずえ)ともなる資料と見ることができる19世紀の最も偉大な詩の一つの中に簡潔に描かれていた。それは『倒れたニレの木(The Fallen Elm)』という詩だが、その中でジョン・クレア(John Clare)は、彼の大好きだった自宅近くのニレの木が(たぶん、地主によって)切り倒される様子を描いた。「私利私欲はお前が自由の邪魔になっていると見た/ だからお前のあのお馴染の木陰は専制政治でなくてはならなかった/お前は あの悪党が 権力者をそそのかしながら/大声で自由とわめき散らし そして自由な人々を抑圧するのを聞いた」。


 

 地主は、木を切り倒す自由を行使していた。そうすることで、地主は木を見て喜ぶ彼の自由を侵害した。木の存在は彼の人生をより良いものにしてくれていたのだ。地主は、木を自由――あくまで地主の自由なのだが、それを彼は人類の一般的自由と混同している――に対する障害と見なすことによって、この破壊を正当化する。国家の関与(今日ならば、木の保全命令という形式をとるかもしれない)がなければ、権力のある者は権力のない者の喜びを踏みにじるだろう。そしてクレアは、倒木を彼の自由に対するさらなる侵害になぞらえるの。「音楽を奏でるニレの木よ お前の破滅はこのようだった/ 自由の権利とは お前の自由を傷つけることだった/連中は 自由の名のもとに 私のものである小さな自由をも お前を扱ったように 踏みにじることだろう」。


 だが、右派のリバタリアンはこうした葛藤を認めたりはしない。彼らは、クレアの地主のように、同じ自由が万人に対して同じ影響をもつかのように語るのである。彼らは、汚染し搾取する自由を、そして――あの拳銃好きの連中の間では――殺す自由さえも、まるで基本的な人権であるかのように主張する。彼らは、そうした自由を制限しようとする試みはどれも専制政治と見なす。彼らは、カワカマスの自由とミノウの自由との間に衝突があることを見ようとしないのである。

 先週、「第五列(The Fifth Column)」という名のインターネットのラジオ・チャネルで私は、共産主義革命を掲げる政党の残党が作った右派リバタリアンの集団の一つであるインスティチュート・オブ・アイディアズ(Institute of Ideas)のクレア・フォックス(Claire Fox)と気候変動について討論した。フォックスは、BBCの番組「モラル・メイズ(Moral Maze: 倫理の迷宮の意味)」で鋭い質問をするために恐れられている人物である。しかし、私が彼女に単純な質問をしたとき――それは「あなたはある人々の自由が他の人々の自由を侵害することを受け入れますか?」という質問だったが――、私はイデオロギーが事故車のフロントガラスのように粉々になるのを目にする思いだった。私が用いた例は、私が2000年に訪れたルーマニアの鉛精錬工場で、その工場の汚染する自由は近隣住民の命を縮めているのだった。近隣住民の消極的自由――汚染からの自由、中毒からの自由――を高めるために、その工場が規制されるべきなのは確かですよね? と私は尋ねた。彼女は数回それに答えようと試みたが、彼女の哲学を粉砕しないですむような首尾一貫性のある答えは何も現われなかった。


 現代のリバタリアニズムは、無制限に搾取したいと思っている人々がまとう隠れ蓑である。それは、われわれの自由を侵害しているのは国家だけだと主張する。それは、われわれをますます不自由にさせることに銀行や企業や金持ちが一役買っていることを見ようとしない。それは、弱者の自由を保護するために、銀行や企業や金持ちの活動を国家が制限する必要があることを認めない。これほど安っぽいものになり下がった片目の哲学は一種の詐欺であって、そのプロモーターたちは正義を自由にゆだねることによって、正義に不意打ちを喰らわそうとしているのである。そうすることによって、彼らは「自由」を抑圧の道具に変えたのである。

」(おわり)





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