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労働の奴隷的本性 -- シモーヌ・ヴェイユの『奴隷的でない労働の第一の条件』を読みながら(2) [探求]

  シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一の条件」という論文の紹介の第二回目。

 労働(者)についての普通の理論でないことは、一読するだけですぐ判ると思う。二回に分けて紹介したヴェイユの文章は、紹介した部分よりもずっと長いものだが、もっとも重要なのは紹介した冒頭の5ページである。

 かいつまんで概要を述べよう。


 1.労働は、それが生きるための必要性(必然性)に支配されている限り、奴隷的と言うしかない。いや、もっと悪いのかもしれない。「人が働くのは、ただ食べたいという欲求をもつからだ。だが、人が食べるのは、働きつづけることが出来るためだ。そして新たに、食べるために人は働くことになる」。これは人間の活動と言うよりも、「かごの中のリス」の活動と言うべきなのかもしれない。

 こうしたリスの活動は、今日でも、ここかしこに、あるいは至る所にある。恐らくは、今後ますます増えて行くに違いない。

 (蛇足ながら、ハンナ・アレントが後に『人間の条件』の「労働」の章で大々的に展開した思想の端緒はヴェイユにあるように思えるのだが、どうだろうか。)

 2. 労働者がこうした奴隷的境遇から抜け出せる(あるいは一時的に忘れる)方法はいろいろある。社会の上層に登りつめることが最も望ましいが、しかし、それはほとんどの人には無理な話。一時的な快楽や浪費に走るしかないが、それは一時の麻薬のようなもの。しかし、そうした麻薬のうちで最大のものは、社会体制を変えることを目指す革命に対する欲求だ。革命思想は民衆のアヘンだ。しかも最大のアヘンなのだ。

 社会改良の運動に身を投じて、そうした運動の不毛さに深く失望したヴェイユは、政治の体制を変えたところで労働者の不幸を何一つ変えることはないと深く確信していたようだ。恐らくそうなのだろう。

 ここまでは、とくに独自なものはあまりないと言えるかもしれない。しかし、次の論点は、絶対にユニークであり、しかもそれを受け継ぐ思想家はいなかったと思う。

 3. 労働者をその奴隷的状態から救うのは、詩であり宗教である。 

 なぜヴェイユがこう考えたのかの理由を単純化すると、次のようになるだろう。

 α) 労働は奴隷的なものであり、人間の精神を荒廃させる。しかし、労働が奴隷的だったのははるか昔から変わらぬことであった。しかし、今日のような人心荒廃の状況は、かつての時代には見られないものだった。では、そうした荒廃を防ぐものが以前にはあったはずだ。それは、宗教以外にないのではないか?

 おそらく、こういう思想を書きつけたときにヴェイユの脳裏に浮かんでいたのは中世ヨーロッパの民衆のあり方だったのだろうか?  恐らくそれだけであれば、単にヨーロッパの保守的な思想がここにあるにすぎないということになる。だが、そこに至るための部分に、何か反動的で保守的にすぎないわけではないものが感じられるのである。それに最後まで洗礼を拒絶したヴェイユを、単に伝統的な信仰へと逆戻りさせて理解しようとするのは、やはりどこか違うように思うのである。

 β) 労働者が関心を寄せるのは、いま現に存在しているものだけである。いま現に存在しているもので、彼らの空虚な状況を耐えられるようにしてくれるのは、「美」以外にありえない。美だけが、この世界を正当化してくれる。その美の光が労働者の日常に差し込むことによってのみ、そしてそれによって労働者の日常の実体が「詩(poesie)」になることによってのみ、労働者は奴隷的な境遇から抜け出せるのだというわけである。


  以上を受けて、この「美」、この「詩」は、神からしか発しないはずだ、と続いていくのだが、ここで止めにしよう。

  「民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としている」という言葉を、古い時代にさかのぼる意味においてではなく、何か未知の思想がここに眠っているような意味において聞き取ることはできないだろうか?  私としてはそう思いたいのである。





Simone Weil : Condition première d'un travail non servile, in Oeuvres Complètes Ⅳ, Ecrits de Marseille,p.420~422.




 奴隷的でない労働の第一の条件 

 民衆の人心荒廃の原因をあれこれ探しもとめる必要はない。原因は労働にあるのだ。その原因は昔からずっとあったし、労働の条件に本質的なものだ。探しもとめなければならないのは、かつての時代に人心荒廃が生ずるのを防いでいた原因の方である。

 気力に変動がなかったり体力がみなぎっていれば、骨折りの仕事も苦痛には感じられないし、上で述べた空虚さに耐えることもできよう。そうでなければ、それに代わるものが必要だ。自分自身や自分の子供の社会的地位が上昇することを望むことなどはその代償の一つである。安易で粗野な快楽も代償であり、同種のものだ。それは、(地位の上昇といった大それたことを望む)大望というよりは(もっとささやかな)夢と言うべきものだ。日曜日は、労働の必要(必然)が存在するということをみんなが忘れたいと願う日である。そのためには浪費しなければならない。まるで働いていないような服装をしなければならない。うわべを満足させてくれるものや、ライセンスを取得すれば容易に手に入る「自分は有能だ」という錯覚がなければならない。遊び歩くことはまさに麻薬の働きをするわけで、苦しむ人にとって麻薬の使用はつねに一つの誘惑だ。最後に、革命もまた同種の代償の一つである。それは集団のなかに移し替えられた大望であって、すべての労働者が労働者の境遇を突き破って社会の上層に登りつめることに対する狂おしい大望なのだ。


 革命感情は、最初ほとんどの人々においては、不正義に対する反抗だったが、多くの人においてはすぐに、国家レベルでの帝国主義とまったく良く似た労働者の帝国主義に変貌してしまうものだし、歴史的にもそのような変貌はあった。それは、一つの集団が人類全体、人間の生のあらゆる局面をまったく無制限に支配することを目的とするからである。この夢の馬鹿馬鹿しい点は、支配権が、命ぜられるがままに仕事を行っている人々、したがって支配することができない人々の手に渡るとしている点にある。


 革命思想は、社会的不正義に対する反抗であるかぎり、好ましく健全なものである。だが、労働者の境遇そのものに本質的な不幸に対する反抗であるかぎり、それは虚偽となるのだ。なぜなら、いかなる革命もこの不幸を廃棄することはないからである。けれど、この虚偽こそ最大の影響力をもったものなのだが、それは、こうした本質的な不幸が、不正義そのものよりも切実なものとして、深く、そして苦痛をもって感じられるものだからである。それに普通、この両者は混同されている。マルクスが宗教に与えた民衆の阿片という肩書きは、宗教がみずからを裏切っている間は、宗教にふさわしいものだったかもしれないが、それは本質的に革命にこそふさわしい肩書きなのである。革命に対する希望はつねに麻薬である。



 革命は、それと同時に、必要性(必然性)にもっとも対立するものとして、これまた同じ不幸に対する反発である冒険欲をも満たすものでもある。青少年の間でよく見られる探偵小説や探偵映画に対する嗜好、犯罪にひかれる傾向もまた、この冒険欲に呼応するするものである。

 ブルジョワたちはまことに素朴に、民衆には、彼らの人生を支配している目的、すなわち金銭の獲得という目的を広めるのがうまいやり口だと信じてきた。彼らは、出来高払いや都市と農村との交易の拡大によって、可能なかぎりそれに成功してきた。しかし彼らは、それによって不満を危険なまでに激しいほど高めただけだった。その原因は単純である。欲望と骨折り仕事の目標であるかぎりの金銭は、その内部にいる限り金持ちになるのは不可能であるような境遇を、みずからの領地に招き入れることはできないからだ。中小企業家や街の商人は金持ちになったり、大企業家や大商人になることはできる。大学教授や作家や大臣は、金持ちもいれば貧乏もいる。ところが、大金持になる労働者は労働者であることを止めるのであり、このことは農民に関してもほとんどつねに同様である。労働者が金銭欲にさいなまれるときは必ず、一人あるいはすべての仲間たちと一緒に、労働者としての境遇から脱出しようと望むのである。
 
 労働者たちが生きている宇宙は目的性を拒絶する。例外的な状況に見合うごく短期間を除けば、目的がそこに入りこむのは不可能だ。アメリカやロシアのような新興国の急速な国土整備は、非常に活発なリズムで変化につぐ変化を生みだしているので、ほとんど毎日のように、ワクワクさせ、欲求や希望を与える新たなモノを提供している。こうした建設熱はロシア共産主義の魅力の大きな武器となったが、それは偶然の一致によるものにすぎなかった。なぜならその建設熱はロシアという国の経済状態に由来するものであって、ロシア革命にもマルクス主義の理論にも由来するものではなかったからである。アメリカ人やロシア人がしたように、この例外的で一時的で束の間の状況にもとづいて形而上学的な理論を作り上げるならば、その形而上学は虚偽にしかならないのである。


 家庭は養育すべき子供という形で目的を得る。だが、子供たちのために今よりも高い身分を望むのでないかぎり――そうした社会的上昇は、事柄の本性上、必然的に例外的なものだが――、自分と同じような人生を運命づけられている子供を見ると、その人生が空しく重苦しくなるであろうことを痛いまでに感じないわけにはいかないのである。



 重くのしかかる空しさこそ、多くの人を苦しめるものである。この空しさは教養がなく知性もわずかな人の多くにさえも感じられる。その身分のため、その空しさがどのようなものであるかを知らない人々は、一生涯それに耐えつづけている人々の行動を公正に判断することはできない。そのために死ぬ人はいないだろうが、それはおそらく飢えと同じくらいつらいものだ。あるいはそれ以上かもしれぬ。パンよりもこの苦しみの救済手段の方が必要だと言うことは、おそらく文字どおり真実であるだろう。


 その救済手段には選択の余地はない。ただ一つしかないのだ。ただ一つのものだけがあの単調さを耐えられるものにするのだが、それは永遠に光を与えてくれるもの、美である。


 魂の欲求が、存在しうるものあるいは存在するだろうものに向かうのではなく、現に存在しているものに向かうことを、人間の本性が耐えられる場合はただ一つしかない。その唯一の場合とは美である。美しいものはすべて欲求の対象となるが、人はそれが別のものになるのを望まないし、何かがそれを変えることを望まず、現にあるそれそのものを望むのである。晴れわたった夜の星空を人が欲求をもって眺めるとき、人が欲求するのは、現に所有している光景だけなのである。


 民衆はみずからの欲求のすべてを自分たちがすでに所有しているものに向けるしかないので、美は民衆に相応(ふさわ)しく、民衆は美に相応しい。詩は、他の社会的境遇にいる者にとっては賛沢の一種である。民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである。
 
 このような詩にはただ一つの源泉しかありえない。その源泉は神である。そのような詩は宗教以外にはありえない。どんなに知恵を絞って、どんな方法、どんな改革、どんな騒動を企てようとも、労働者がその境遇によって置かれている宇宙に目的性が入りこむことはない。けれど、この宇宙は、その全体のまま、唯一真である目的に結びつけられることができる。それは神につなぎ止められることができるのだ。労働者の境遇は、あらゆる人間の存在そのものを構成している目的性に対する渇望が、神による以外には、満たされることのない境遇なのである。・・・

」(以下略)

 






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