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労働の奴隷的本性 -- シモーヌ・ヴェイユの『奴隷的でない労働の第一の条件』を読みながら(1) [探求]

 最近、貧困や労働についての記事を目にすることが増えてきた。

 ここで何度も取り上げた「占拠せよ」の運動もそうだし、数年前社会問題化した派遣労働や深刻化しつつある貧困の現状などもそうだ。

 貧困や労働は必ずしも自分の専門の分野ではないが、自分なりに考えを深めたいこともあって、そのための(古典的、あるいは哲学的な)材料をこの場で提供してみようかなと思い至った。

 まずは、シモーヌ・ヴェイユの「奴隷的でない労働の第一の条件」という論文の前半部分を紹介してみたい。とても歯切れがよく、かつ斬新な思想が盛り込まれているからだ。翻訳はかつての著作集に収録されているが、あまり出来が良いとは言いかねるものなので、自分なりの翻訳を試みてみた。二回に分けて紹介する。


 Simone Weil : Condition première d'un travail non servile, in Oeuvres Complètes Ⅳ, Ecrits de Marseille,p.418~420.



 奴隷的でない労働の第一の条件 

  本来の意味での労働である肉体労働、そして一般的に言えば、あることを実行するという労働の内には、隷属(servitude : 奴隷的な服従)という要素が還元不能な形で含まれているのであり、それは、もし完全な社会的平等が実現したとしても消滅することはないだろう。それは、労働が目的性ではなく、肉体的必要性(必然性)に支配されているという事実である。人が労働を行うのは肉体的必要からであって、善なるものを目ざしているからではない。生涯、労働の試練にさらされ続ける人々が言うように、「生活費を稼ぐ必要があるから」なのだ。こうして人は骨折り仕事を提供するわけだが、その挙句に手に入るのは、どう見ても、今もっているもの以上のものではない。その骨折りをしなければ、今もっているものすら失われてしまうのである。


  しかし、人間の本性のうちにあって、骨折りの仕事に向かうエネルギー源があるとすれば、欲求以外にはない。ところが、今もっているものを欲し求めるということは人間に起こるはずのないことである。欲求とはある方向を目指すことであり、何ものかに向かって運動を開始することである。運動とは、自分がいまいない地点を目ざすものである。もし運動が開始されるや否や出発点に逆戻りするならば、鳥かごの中のリスや独房の中の囚人のようにぐるぐる廻っているだけである。いつまでもぐるぐる廻りつづけていれば、すぐに吐き気が込み上げてくるものだ。

 

 吐き気、倦怠、ムカつくような不快感、これこそ労働する人々を襲う大きな試練だ。とりわけ、非人間的な条件のもとに置かれている人はこの試練にさらされるし、それほどでもない人であっても同様だ。ときには、この試練が最良の人々のほうをより一層蝕むことがある。


 ただ生存していることは人聞にとって目的とはならない。それはただ単に、すべての善(それが本物であれ偽りのものであれ)を支えるものであるにすぎない。善は生存に付け加わるものだ。善が消滅し、生存がもはやいかなる善によって飾りたてられることがなくなって、むき出しの裸形になってしまうとき、生存は善とはいかなる関連ももたないものになってしまう。それは悪ですらあるだろう。まさにこの瞬間に、生存は存在しないあらゆる善に取って代わり、それそのものが唯一の目的、欲求の唯一の対象となる。魂の欲求は、むき出しでヴェールをはぎ取られた悪にくくり付けられる。その時、魂は恐怖のなかにいるのだ。


 この恐怖は、即座の暴力が死をもたらしかねない瞬間に対する恐怖である。この恐怖の瞬間は、かつて、勝者の剣のもとで武器を捨て、殺されることだけは免れた者にとって、生涯にわたって続くものだった。助かった命とひきかえに、彼は来る日も米る日も一日中、殺されたり鞭で打たれたりしないようにと願う以外には何一つ望むこともできぬまま、奴隷状態のなかで、自分のエネルギーを骨折り仕事のなかで使い果たさなければならなかった。彼は生存していくこと以外のいかなる善も求めることはできなかった。奴隷になったその日から、魂の半分は奪い去られると古代人は言っていたものだ。



  しかし、骨折り仕事を重ねて一か月、一年、二十年たったあげく、自分のおかれた状況が必然的に最初の日とまったく同じであることに気づくという境遇はどのようなものであれ、奴隷状態と類似している。類似点は、いま自分がもっているもの以外のものを求めることが出来ないという不可能性、善なるものに向けて骨折りの仕事を方向づけることが出来ないという不可能性にある。人が骨折りの仕事をするのは、ただ生きるためだけなのである。


 そのとき、時間の単位は一日となる。その一日の中で人は円を描いて回るのだ。つまりそこで、壁と壁との間を行ったり来たりするボールのように、労働と休息の間を人は行ったり来たりする。人が働くのは、ただ食べたいという欲求をもつからだ。だが、人が食べるのは、働きつづけることが出来るためだ。そして新たに、食べるために人は働くことになる。



 こうして、このような生活ではすべてが媒介的となり、すべては手段と化す。目的性というものがどこかに結びつくことはない。製造される物も手段である。それはいずれ売買されるだろう。そんなものにだれが自分の善を置くことが出来ようか? 原料工具も労働者の肉体も、労働者の魂さえもが、製造のための手段にすぎないものとなる。必要性(必然性)は至る所にあるが、善はどこにもないのである。


」(つづく)





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