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脳の不協和音を解読する(2) [海外メディア記事]

 マイケル・ガザニガの業績を紹介する記事「脳の不協和音を解読する」の後半を紹介する。

 前半では左右の脳の分業体制にスポットが当てられたが、そこから当然出てくる疑問として、では、脳の統一感はどこに由来するのかということが問題となる。

 学術的な内容なので難しそうに見えるが、着想そのものはとても単純である。要するに、脳の左半球にガザニガが「インタープリター(interpreter)」と呼ぶものがあって、それが脳の各所からくる情報を束ねてそれらを統一する。ただし、その統一の仕方は、しばしば、一面的であったり、虚偽ですらあるのだが、脳のロジックとしては、何も秩序がない混沌とした情報の堆積があるよりは、虚偽のものでも、ともかく統一性を作り出さなければならない、ということなのである。


 ご存知のように、「インタープリター(interpreter)」とは、元来は「通訳者」の意味。右脳と左脳の間をとりもつもの、というのがこの語に託された元来の意味だろう。しかし、たぶん、この記事のように、「ストーリー・テラー(story teller)」と言った方が判りやすいかもしれない。つまり、左脳には、そこに集積されるあらゆるデータから即座にストーリーを創作する「ストーリー・テラー」が居座っている、というイメージである。このまさに中心的な論点で、脳科学はナラティヴ(物語り)批判に接近するのである。



 実は、ここには、脳科学という名前を借りたニーチェ主義と言うべきものがあるのだ。つまり、われわれの脳が作り出すおよそすべてものはフィクションであり虚偽であるという思想があるのだ。ガザニガによれば、記憶から自我に至るまでのすべてがフィクションなのだ。この点は、彼の“The Mind’s Past”という著作でハッキリ述べられている。ちょっと引用してみよう。



 「  真実を言うことが常にベストというわけではないのだろうか? 実は、私たちのほとんどは卑劣な嘘つきなのだ。…インタープリターは、私たちの個人的な物語りがバラバラにならないように努めているのだ。そうするために、私たちは自分自身に対して嘘をつくようにならなければならないのだ。…自分自身の物語りが真実であることを誰かほかの人に判ってもらうために、私たちは自分自身を説得しなければならない。私たちは、自分の経験した実際の諸事実を現在進行形のナラティヴに拡大するようなものを必要としているが、それは、私たちが長年にわたって自分の心の中に組み込んできたセルフ・イメージなのである。 ・・・・

 インタープリターは、たえず、わたしたちの行動、感情、思考、夢などについて途切れることのないナラティヴを設定している。それは、私たちのストーリーを統一化する接着剤のようなもので、私たちが全体的で理性的な主体であるという感覚を創り出している。それは、個体の本能が詰まったバックに、自分は実際とは違う存在なのだという幻想を持ち込むのである」(The Mind’s Past, p.25-26, p.174)。



こうした破壊的側面は、この記事や、ガザニガの翻訳のある著作ではあまり感じられないか、薄められた書き方しかされていないので気づきにくいが、この「インタープリター」の考え方には、または、脳の一面的な機能の仕方には、すこし不安にさせる要素が潜んでいることを覚えておいても損はないかもしれない。




Decoding the Brain’s Cacophony

By BENEDICT CAREY
Published: October 31, 2011

http://www.nytimes.com/2011/11/01/science/telling-the-story-of-the-brains-cacophony-of-competing-voices.html?

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「  
  脳の不協和音を解読する(2)  



 答えは見つからなかった、少なくとも、すぐには見つからなかった。それに続く数十年もの間、脳科学者たちは、左脳と右脳の役割の分離は脳内の分業体制のもっとも目につく部分にすぎないことを発見した。実は、脳には、専門の機能に特化した一群のモジュールがあって、その各々が特殊なスキル――距離を計算したり、声の調子を分析するスキル――を行っているのだが、そのすべてが同時に起こっていて、幅広く分布するネットワークにおいて、時には半球間で交流し合っているのである。


 
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  (左脳、右脳 脳の半球の分業を研究するためにダートマス大学で使っていたヴァンの中で、白衣を着た同僚のジョン・シディスとジェフリー・ホルツマンと一緒にいるガザニガ博士)



 要するに、脳が統一感覚を保てるのは、左脳と右脳という副操縦士がそろっている場合だけではないのである。脳内に競合する声が不協和音を奏(かな)でていて脳神経がシカゴ商品取引所における公開セリ売買のように騒然となる時でも、脳は統一感覚を保持するのである。


 しかし、どのようにして保持するのだろうか?



 分離脳手術を受けた人々が答えを出すのに役立つことが、またしても明らかになった。その頃はダートマス大学にいたガザニガ博士は、優れた実験をそれ以前にもまして行なった――ただし、今度はひねりを加えた実験だった。たとえば、ある研究では、彼と当時大学院生だったジョゼフ・ルドゥーは、患者に二つの絵を示した。患者の左半球にはニワトリの爪が見え、彼の右半球には雪景色が見えた。後になって、その患者の両半球に見えるように並べられた一連の絵から、もっとも適切な絵のペアを選んでもらった。患者は爪に合うものとしてニワトリの絵を選び、雪景色に合うものとしてシャベルを選んだ。ここまでは問題ない。


 しかし、それから、ガザニガ博士は患者になぜそれらを選んだのかを尋ねたのだが、それこそ金鉱脈を探り当てた瞬間だった。患者は、ニワトリと爪のペアをなぜ選んだのかという問いには即答できた。何といっても、彼の左半球はニワトリの爪を見ていたからだ。しかし左半球には雪景色は見えなかった、シャベルしか見えなかったのだ。シャベルの絵を見ながら、その患者はこう言った。「ニワトリ小屋をきれいにするためにはシャベルが必要だからです」。


 左半球は説明をでっち上げていたのです、とガザニガ博士は言った。1980年代と90年代の研究で、彼と共同研究者たちは、次のようなパターンが一貫していることを示した。つまり、左半球は、それがもっているわずかな情報を取りあげて、それを筋道のある物語りに仕立てて意識にさし出す、というパターンである。それは日常生活で絶えず生じていることであり、ほとんど誰もが気がついたらそんな行為をしていたという経験をもっているだろう――例えば、ゴシップの断片を耳にして、空白部分を勝手な想像で埋めようとすることなどである。


 競合する複数の声からなる脳の不協和音に筋道があるように感じられるのは、左半球のどこかにあるモジュールかネットワークが連続的にナレーション{=即興的な物語}を提供しているからなのだ。「そのことを突きとめるのにぴったりした問題設定をたてるだけで25年もかかりましたよ」とガザニガ博士は言った。



 「どんな科学でもそうだが、特に神経科学で最も困難であることの一つは、本当に面白いが真理の重みをもたない考え方を取り除くことなのです」。そう語るのは神経科学協会の元会長でニューヨーク大学の教養学部長のトーマス・カルー(Thomas Carew)。「マイク・ガザニガはこの分野でそれを行うことができた一人なのです」。


 ガザニガ博士は左脳のナレーションのシステムを「インタープリター」と呼んだ。ストーリーテラーがストーリーテラーを見つけたのだ。



  創発的な特性



 同類だけあって、彼にはインタープリターの力を理解していた。インタープリターは、首尾一貫した自己という錯覚のみならず、意味のあるシナリオという錯覚を作り出すのだ。忙しく立ち回りながら、インタープリターは何が起こったのかだけでなく、なぜそれが起こったのかを猛烈な勢いで再構成し、こちらに動機を、あちらに意図を挿入する――それも、限られた情報、時には欠陥のある情報に基づきながら、である。



 このことの含意の一つに、心理療法と文学では定番となっているものがある。私たちは、自分でそう思いこんでいる人間ではないという事実だ。私たちは、ほとんど無意識のうちに、どんな細部にも陰影をつけながら、出来事によっては、シナリオを回顧的に書き変えながら、自分の人生を物語っている。ストーリーテラーは決して休まない、熟睡している最中を除いて休むことはないのである。


 しかし、別の含意は責任に関係している。もし私たちの自制心が脳の自動プロセスからの信用のおけない筋書きに基づいているならば、私たちは本当にどれほどの自制心をもっているのだろうか? たとえば、脳神経回路を研究することによって決定することができる責任感の閾値が存在するのだろうか? ガザニガと彼の妻シャーロットは6人の子供を育てたが、どんな親もそうであるように、子供にテーブルの準備をさせるためだけであっても、急いでいろいろなレベルの責任を決定しなければならなかったのだ。

」 (3ページ目おわり)
 


 「 

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(マイケル・ガザニガは、現在、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の心理学の教授である)



 しかし、責任に関するこの手の問題は、脳科学の応用に関して政策立案者に助言するという重要な役割を引き受けるにつれて、ガザニガ博士にとって次第に無視することが難しくなってきた。彼は1991年に連邦議会科学技術委員会の委員に任命された。2002年には、生命倫理に関する大統領諮問委員会の一員になった。そして2007年には、神経科学の法体系への応用例を追跡調査し評価するジョンD.&キャサリンT ・マッカーサー財団の法と神経科学プロジェクトの設立ディレクターになった。

 
 とくに法律の分野、脳科学が及ぼす影響は増大していた。近年では弁護士が、通常は、犯罪の責任を軽減したり、嘘発見器における証言の信憑性を検証するために、脳の画像を証拠として提示し始めるようになった。そしてますます、そうした画像が証拠として採用されるようになった。しかもそれ以上のことが起こっているのだ。たとえば、脳画像の研究で、神経科学者は、人々が衝動やその他の行動を抑制するときに非常にアクティブになる皮質領域を確定したのだ。


 しかし、法廷でこうした方法を適用することには明らかな欠点がある。一つには、脳の画像はスナップショットである。それはある時点での脳の状態をキャプチャしているだけで、その前後の時点で脳がどのように機能していたかについては何も語らない。もう一つは、脳の画像が、健康な脳をもつ人々においても大きく異なる――つまり、ある人にとっては「高い」レベルの活動であるものが、別の人にとっては普通のレベルであることもある。脳科学は、脳の自動のプロセスがどこで終わるのか、自己に向けられる「責任感のある」プロセスがどこで終わるのかをハッキリと言うことができるのだろうか?


 現状ではできないし、たぶんこれからもできないだろう、とガザニガ博士は自著で主張している。的確な判断とか自由意思のような社会の産物は、{「責任」という観念よりも}ずっとはるか彼方にあるもので、それらを生物学的プロセスの観点から定義しようと試みることは、結局、つまらないゲームのようにしかならないというのである。

 
 「私の主張は、責任とは、結局のところ、脳の特性というよりも二人の人間の間に成り立つ契約であり、決定論はこの脈絡では何の意味ももたないということです」と彼は『誰が責任をもつのか?(Who’s in Charge?)』で書いている。


 寛大さや卑劣さと同様、愛情や疑念と同様、責任とは「「強い意味で創発的な」特性(“strongly emergent” property)」」と彼が呼ぶものなのだ――創発的な特性とは、生物学的メカニズムから派生したものではあるが、それとは根本的に違うものであり、氷と水と同様に、別々の法則に従うものである。


 ガザニガ博士はこうした主張をした初の科学者ではない。この問題はまだ決着には程遠いのだが、それは研究者がまだ、脳の自動的なシステムと意図的なシステムが生物学的にどのように相互作用を及ぼし合っているのかの完全なイメージをもっていないからなのである。


 「ガザニガの論点は判りますし、法律の問題に関する限り、脳科学や心理学から引き出された結論を無視することができれば一番簡単でしょうね」。ナイメーヘン大学(Radboud University Nijmegen、オランダ)の心理学者であるAP・ディクステルホイス(AP Dijksterhuis)は電子メールでそう語ってくれた。「しかし、ずっといつまでもそんなことができるとは思えないし、どこかの時点で、説明責任や責任などのキーとなる法概念のいくつかは再定義されなければならないでしょうね」。

その日が来るまでは、責任等の概念は、それがこれまでずっと存在してきた場所に求めればよい、というのがガザニガ博士のアドバイスである。つまり、人間の心と道徳的な直感に求めるべきであり、人間の法律や習慣に求めるべきであるというのだ。

 それに、こう付け加えるべきであろう、人間が編み出す物語りの中に求めるべきである、と。

」(4ページ目おわり)


」(おわり)











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