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ジョークと危機の関係 [海外メディア記事]

 ニューヨーク・タイムズの哲学者のエッセイを掲載するコラム(‘Stone’)から、ジョークの本質を論ずるエッセイを紹介する。

 「ジョーク」あるいは「ユーモア」がテーマなのだから、さぞかし笑える内容なのだろうという期待をそそるのだが、笑える個所はほとんどない。むしろ、かなり難解な内容である。「ユーモアの本質は何らユーモラスなものではない」からだ。核心部分は次のようにまとめられるだろうか。


 ・ 「危機」とは、元来、現実の中に生じる分裂や亀裂のことで、その内部に安心していられなくなるからこそ「危機」なのだが、ジョークとは、そうした現実そのものについての意識なのだ。

 ・ ジョークは分裂に満ちた現実をひとまず運命として受け入れるが(「運命論(fatalism)」)

 ・ 笑う人間は、一瞬であるにせよ、その現実から身を引きはがして、それに批判的に対峙し、不安を笑い飛ばし自らの運命をコントロール下に置こうとする。

 ・ 現実や自己自身を突き放して見るとき、私たちは自分自身から離れた立ち位置を占める。しかし、こうした分裂的な態度は、現実の中にある「危機」そのものの反映でありその意識化なのである・・・・



 強盗を働く銀行、失職を目前にして一週間分のワイシャツにアイロンをかけるディーラー、大企業が目減りした結果としての中小企業などの例は、本来そうであるはずの現実が無残にも別物になってしまったことを意識化した上でそれを嘲笑するジョークなのだろうが、その根底にあるのは、笑いをとろうとする意識ではなく、現実そのものを突き放して諦観しようとするリアリズムなのである。


October 16, 2011, 6:10 PM
Jokes and Their Relation to Crisis
By MICHAEL MARDER


http://opinionator.blogs.nytimes.com/2011/10/16/jokes-and-their-relation-to-crisis/



  ジョークと危機の関係
  マイケル・マーダー



 6月に、共和党の大統領候補のミット・ロムニーが、フロリダ州タンパの失業者のグループの集会で笑わせようとして言い放ったジョークのおかげで批判にさらされたことがあった。「私も失業中です」とロムニーは言ってのけたのだが、もちろん彼は、自分に欠けている職は大統領職だと言いたかったのだ。

 彼の誤りは、経済危機(それによって深刻化した階級間の分断や不安をふくむ)がはらむ意味そのものを軽んじたことだった。自分の身分を名乗って聴衆と一体化しようとする彼の言葉(「私も Xです」)はその意図とは正反対の効果をもたらし、「失業中」の億万長者と職のないフロリダの市民との間には架橋できないギャップがあることを際立たせるだけだった。しかし、ある意味で、あのジョークは最終的には功を奏した。もっとも、ロムニーが意図したとおりの仕方ではなかったが。あのジョークは、結局、ロムニー自身の鈍感さを暴いたのだ。あのジョークはロムニー自身を笑い物にしたのだった。


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 ロムニーに批判的な人々がその後に示した品の良い反応は非常に画一的なものだった。そうした反応は、詰まるところ、現在の危機は笑い事ではないのだ、失業を笑いのネタにするなんて失業者に失礼だといった戒めに帰着した。だが、それどころか、ユーモアと危機が共通の起源に由来するとしたらどうだろう? ユーモアというものは一様に危機に対する反応の中で生まれるものだとしたらどうだろう? つまり、ユーモアが、われわれと社会や政治や経済の現実との間にある大きな裂け目に対する反応であるとしたら、あるいはわれわれの中にある分裂に対する反応であるとしたら、あるいは、現実そのものの中にある亀裂に対する反応であるとしたらどうだろうか?

 
 もしそうであるならば、笑いは、危機によって生じたあれやこれやの裂け目を修復するどころか、そうした裂け目をいっそう際立たせるだけなのであって、笑うことによって、そうした裂け目はその本来の姿をやっと余すところなく取り戻すのである。一部の人が信じるように、ユーモアとは物まねの戦略ではないし、他の方法では表現できないフラストレーションのはけ口などでもない・・・少なくとも、それだけではない。最良のユーモアとは、危機が自己自身を意識することなのである。

 
 ユーモアは、「客観的」現実を何一つ変更することなく、現実が自分自身を笑い飛ばし、笑いながら、自分自身の外側に立ち、自分自身とは別物になっていくことを可能にするものだ。「危機(crisis)」という言葉は、「批判(critique)」と同様に、分離や分断を意味する“krinein”というギリシャ語の動詞に由来するものだが、その危機という言葉の核心部分には、「分離(krinein)」を被るものが自分自身から大きく隔たっていくというニュアンスが潜んでいる。しかもユーモアは、ある意味での分離から別の意味での分離への移行――危機(crisis)から批判(critique)への移行――を引き起こすメカニズムなのかもしれない。

 例えば、次のジョークを考えてみよう。「アメリカでは、お金は国民の懐(ふところ)にあるので、銀行は国民から強奪するのだ!」。常識(これはこれでイデオロギーの別名にすぎないのだが)を逆転させながら、簡にして要を得たこのジョークは、ベルトルト・ブレヒトの「銀行の設立と銀行強盗はどこが違うのか?」という修辞的な質問をくり返すものだ。金融システム全体がずっと大規模で制度化された強盗であることを含意しながら、ジョークはあっという間にイデオロギーのベールを突き破る。確かに、ユーモアに満ちた非難は、しばしばその地点で立ち止まってしまう。それはその批判の対象を人生の厳然たる事実として受け入れる。銀行が国民のお金を強奪するという行為をだれも支援しないが、笑いは、聞き手がこの政治的経済的現実を運命として受け入れていること(「fatalism」)を追認するのだ。「それが人生というものさ!( C’est la vie! )」がユーモアの隠れたモットーなのである。



 それでも、運命と割り切って諦める運命論は、ここにあるパズルのピースの1つにすぎない。危機のロジックで問題となるのはまさに時間と人間の有限性、つまり、未来や老化や差し迫る死を扱う私たちの能力に限界があるという点なのである。

 時間の問題が危機に関係するすべてのものに影を落としているということを理解するには、よく知られた二つのジョークを見るだけで十分だ。

1. 楽観主義の定義は何か? それは、日曜日の夜に5枚のワイシャツにアイロンをかける投資金融業者のことだ。

2. ある人が銀行の支店長のところにやって来て次のように言った。「小さな会社をスタートさせたいんだ。どうしたらいいだろう? 」。「簡単なことだよ」と支店長は言った。「大きな会社を買ってじっとしていればいいのさ」。

 

 どちらのケースでも、限りある時間――間もなく期限に達する時間や、かつてないほど脅迫的な未来――が関心の的になっていて、ジョークに活気を与えている。危機がわれわれを未知のものに直面させるものであるならば、それは極度の不安を呼び起さずにはおかないのである。

 
 ユーモアはこうした未来にどのように関わり、こうした感情にどのように対処するのだろうか? 未知のものによってかき立てられた不安を静めるどころか、ユーモアは、社会的・政治的・経済的現実の制限は言うまでもなく、自分自身の有限さや老いに人々がそろって直面することを可能にする言葉のツールなのである。投資金融業でさえも雇用が不安定であるとか貯えが徐々になくなって行くという点で、われわれは、現在の自分たちや、おそらくもっと重要なことに、未来の自分たちが、連帯のきずなで結びついていることを認識するのである。


 したがって、(1)現在と未来との時間的な亀裂が危機に固有の場所であり、(2)ユーモアはこの裂け目を言葉のスポットライトのもとに置くのである。しかし、危機の時間的な構造が目に見えるものとなるとき、いったい誰が誰を笑っているのだろうか? 現在が自分自身を笑っているのか? 現在が自分の暗い末路である未来のことを笑っているのか? それともわれわれの未来が現在にいるわれわれを笑っているのだろうか?



 危機的な状況に陥ったときの自分自身を笑うことは、自分には限界があってどうしようもないほど弱気になること(未来によって圧倒され押しつぶされてしまうという感情)を笑うことである。こうした見方は単刀直入な解釈というものだろう。この解釈によれば、現在が未来を笑うのである、あるいは、来るべきものに対して現在自身が抱く恐れを笑うのである。未来を笑うことは、未来が引き起こす恐れを乗り越えることによって、未来をわれわれのコントロール下に置くことである。たとえ、爆笑が共有されるつかの間のことであるにしても。



 しかし同時に、ユーモアは弱気の強さを、つまり、虚勢や偽りの確信や非現実的な期待をせずに自分の苦境に直面する能力を露わにする。未来を支配しようと努める代わりに、われわれはこれから到来することと現在の裂け目に入り込んで、危機を皮肉まじりの自己意識のなかで深めるのだ。


 ジョークとは、共通の文化的・言語的前提を背景にして共有されるように意図されている場合でも、摩擦を生み出す場所なのだ。その点で、ジョークは危機的な状況に似ている。内的に矛盾していることだが、ジョークが明らかにしているのは、現実を運命として受け入れておきながら、そのようにして受け入れられたことに不平を抱く心情である。無力でありながら新たな自信を抱くことである。恐るべき未来を直視するものの、それに続く弱気を公然と認めることである。ユーモアは危機を言い表すための最良のはけ口の一つなのだが、それは、危機そのものが現状のままでは持続できない内的な矛盾と分裂の結果だからなのである。


 マルティン・ハイデガーが言ったことをもじって、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないとわれわれは言っていいかもしれない。ユーモアは、むしろ、私が自分自身や世界から分離することであり、しかも「時間」や「自己意識」や「批判」や「危機」などと多様に呼ばれる仕方で分離することなのである。ユーモアが危機に応えるとき、それはその危機の本質に立ち戻って、危機がそこから勃発した分裂や矛盾をたどり直す暗黙の批判を始めるのである。だが、ユーモアの本質は何らユーモラスなものではないにしても、だからといって、われわれが存分に大笑いしてはならない、ということにはならないのである。







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