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マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(1) [海外メディア記事]

 イギリス『ガーディアン』紙の“Books”のコーナーで、マイケル・ムーアの新著“Here Comes Trouble”が取り上げられていた。取り上げると言っても、(たぶん断片的な)抜粋なのだろうが、とても面白しろかったので紹介しようという気持ちになった。

 あの有名なオスカー授賞式のときのスピーチに端を発して、身の危険に絶えずさらされながら、しかし結局くじけることなく「テロとの戦い」を続けようと意を決するまでの経緯が語られている。全文は一続きだが長すぎるので、二回に分けて紹介する。

ちなみに、注釈をちょっとだけつけておく。


グレン・ベック・・・保守派の論客で、ラジオやテレビでのトークショーで有名。

「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンド・・・そういう商品があるようだ。What Would Jesus Do?は企業名らしい。

http://whatwouldjesusdo.com/wwjdcart/product.php?productid=16206&cat=265&page=1


ダクトテープの虚構・・・ブッシュ政権が、化学兵器によるテロに備えて、自宅の窓をダクトテープで保護するよう呼びかけたことを踏まえている。

テロ警戒レベルの虚構・・・直訳すれば「オレンジ色の警報の虚構」。当時はテロの危険性を表わす「上から二番目の警報」が出ていたが、それがオレンジ色だったことを踏まえている。

ローマ法王とディクシー・チックス・・・ディクシー・チックスは人気の高いカントリーの女性グループ。どちらも、ブッシュのイラク侵攻を非難していた。

デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる( take you out with a piece of dental floss)・・・ はじめは意味が取れなかった。デンタル・フロスで救出する? ・・・ しかし“take out ”は、ここでは「殺す」という意味らしい。同じようなことをムーアが別の所でも言っているのだが、そちらと照らし合わせると間違いないようだ(http://jdeanicite.typepad.com/i_cite/2011/05/some-final-thoughts-on-the-death-of-osama-bin-laden-michaelmoorecom.html )。しかし、デンタル・フロスでどうやって人を殺せるのかは書かれていない。







Michael Moore: I was the most hated man in America


guardian.co.uk, Wednesday 7 September 2011 20.00 BST

http://www.guardian.co.uk/books/2011/sep/07/michael-moore-hated-man-america




 マイケル・ムーア:僕はアメリカで一番の嫌われものだった(1)


  2003年のオスカー受賞演説で、マイケル・ムーアはブッシュ大統領とイラク侵攻を非難した。一夜にして彼はアメリカで一番の嫌われ者になった。彼の新著("Here Comes Trouble")で、彼は爆弾の脅迫やボディーガードや、いかに反撃したかについて語っている。


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マイケル・ムーア。写真:スコット・マクダーモット




 「 いま僕はマイケル・ムーアの殺害を考えている、自分で殺害するか、それとも殺害する人間を雇う必要があるかどうかべきか思案中だ。・・・そう、僕にだってできるだろうとは思う。奴が僕の方をふり返るのを見計らって、首を絞めて殺すことぐらいできるだろう。そんなこと、間違っているって? 僕は、「What Would Jesus Do?(イエス・キリストならばどうするか?)」のリスト・バンドを着用するのは止めたし、善悪の感覚はすっかり失くしてしまったしね。かつてならば、「僕だってマイケル・ムーアを殺せるさ」と言うことはできたけど、それから「イエス・キリストならばどうするか?」のリスト・バンドを見て、「やっぱりマイケル・ムーアは殺せない、少なくとも窒息させるなんて無理だ」と思っただろうね。でも、今は、判らないよ」。
  2005年5月17日、グレン・ベック・ショーにおけるグレン・ベックのライブ発言。

 

 あんな奴はさっさと死んだほうが良いのにという願望はいたる所にあったようだ。2004年7月のある晴れた朝、CNNのビル・ヘマーの心にも、そんな願望は確かにあった。CNNでライブ中継された2004年の民主党全国大会の会場で、彼は、僕の目の前にマイクを差し出して、アメリカ国民がマイケル・ムーアについてどう感じていると思うかと僕に尋ねた。「マイケル・ムーアなんて死ねばいいのにと人々が言っているのを私は聞いたことがありますよ」。ヘマーは、さも当然というような口ぶりだった。「当然、アメリカ国民はあなたを殺したいと思ってますよ」という感じだった。そんな自明なことはすでに視聴者には判り切っていることだと彼は頭から思い込んでいた。まるで、太陽が東から上るとかコーンが穂軸になるのはみんな当然と思っているのと同じくらいの確信をもってそう思い込んでいたのだ。

 
 ヘマーに公平を期すために言うが、僕だって自分の映画が多くの人々を憤慨させたことは知らないではなかった。ファンがあたり構わずやって来て僕を抱きしめて、「あなたがまだここにいてくれて(you're still here)嬉しいわ」と言ってくれることも珍しいことではなかった。「ここにいてくれて」とは、「この建物にいてくれて」という意味ではなかった。{訳者註――もちろん、「まだあなたが生きていて嬉しいわ」の意味}


 
 なぜ僕はまだ生きていたのか? 1年以上にもわたって脅しや脅迫や嫌がらせを受けたり白昼堂々と攻撃されたこともあった。イラク侵攻の最初の年だったが、僕は要人警備の専門企業のトップ(暗殺防止のために連邦政府に雇われることもしばしばある人)に、「ブッシュ大統領以外で、君ほど危険な状態にいる人はアメリカには一人もいないね」と言われていたのだ。

 どうしてこんなことが起こったのか? これは自業自得というものだったのか? もちろんそうだった。一切合財が始まった時のことは今でも覚えている。

 それは2003年3月23日の夜のことだった。4日前、ジョージ・ブッシュはイラクに侵攻していた。それは不法で不道徳で愚かしい侵攻だった―――しかし、アメリカ人はそうとは考えていなかった。国民の70%以上が戦争を支持した。そんなとても人気のあった戦争の4日目の夜に、僕の『ボウリング・フォー・コロンバイン』がアカデミー賞を受賞するかどうかが決まるのだった。僕は授賞式に出向いたが、赤じゅうたんを歩いてハリウッドのコダック・シアターに向かうとき、候補者の誰もがそうだったけど、報道陣に話しかけることは許されなかった。誰かが何かとんでもないことを言い出しはしないかという心配があった――戦時下においては誰もが戦争の準備に協力し同じ考えでいる必要があるからだ。

 女優のダイアン・レインがステージに登場し、長編ドキュメンタリー映画賞の候補作のリストを読み上げた。封筒が開けられると、彼女は、喜びを抑えようともせず、僕がオスカーを受賞したことを発表した。メイン会場を埋めつくしたアカデミー賞にノミネートされた俳優も監督も作家も、誰もが立ち上がり、僕にとても長く続くスタンディング・オベーションを送ってくれた。僕は他のドキュメンタリー映画の候補者たちに、もし僕が受賞しても、一緒にステージに来てくれないかと頼んでいたのだが、彼らはそうしてくれた。スタンディング・オベーションがついに終わり、僕は話し出した。「僕はドキュメンタリー映画の候補者たちに一緒にステージに来てくれと招待した。彼らが僕と一緒にここにいるのは、僕たちがノンフィクションを好きだからだ。僕たちはノンフィクションが好きだ、でも僕たちは虚構だらけの時代に生きている。僕たちは、虚構の大統領を選出した虚構の選挙結果がまかり通る時代に生きている。僕たちは、虚構だらけの理由で僕たちを戦場に送り込む男がいる時代に生きている。それがダクトテープの虚構であれテロ警戒レベルの虚構であれ、僕たちはこの戦争に反対する。ミスター・ブッシュよ、恥を知れ、ミスター・ブッシュよ、恥を知れ。ローマ法王とディクシー・チックスが反対したら、もうお前の出る幕じゃないんだ。ご清聴ありがとう」。


 半分位しゃべったころから、大騒ぎになっていた。上階やバックステージからブーイングが、とても騒々しいブーイングが起こった。(座席から僕に声援を送り続けてくれる人も少しはいたけど――マーティン・スコセッシやメリル・ストリープがそうだったけど――、ブーイングにはぜんぜん敵わなかった)。ショーのプロデューサーが僕の声をかき消すためにオーケストラに命じて演奏を開始させた。マイクがフロアに降りてきた。大きな赤い文字の巨大なスクリーンが僕の目の前で「お時間終了!」と点滅を始めた。控えめに言っても、大混乱だった、そして僕はステージから追い払われた。


 ちょっとは有名なことだが、オスカー受賞者はみんな、賞を受けとりステージから離れた直後に、カーテンの後ろで受賞者を迎えるためにアカデミーに雇われたイブニング姿の魅力的な二人の男女から、二つの単語をかけられることになっているのだ。コダック・シアターには混乱と混沌が渦巻いていたが、デザイナーの手になるガウンを着た若い女性が、身に迫る危険には気づかぬまま、そこに立っていて、次のような言葉を僕にかけてくれた。「シャンパンはいかがでしょう(Champagne?)」。そして彼女はシャンパンの入ったフルート・グラスを差し出した。

 彼女の隣にいた素敵なタキシード姿の若い男性が、即座に次のような言葉をつづけた。「ブレスミントはいかがでしょう(Breathmint?)」。そして彼はブレスミントを差し出した。



 シャンパンとブレスミントが、あらゆるオスカー受賞者が耳にする最初の二つの単語なのだ。しかし、ついていると言うか何と言うか、僕は三番目の言葉を聞かなければならなかった。カンカンになった舞台係が僕の脇にやって来て、僕の耳に向けて出来る限りの大声でこう叫んだ。「糞ったれ(ASSHOLE)!」。

  他のいかつい、怒り狂った舞台係たちも僕の方にやって来た。僕は、森で罠にかかり周囲を包囲され、唯一の希望といえば近づいてくるオオカミめがけて狂ったように振り回すたいまつだけという孤立無援の人間のように、オスカー像を武器のように握りしめていた。僕がその時に感じたことは、僕が人々を深くすっかり幻滅させた人間でしかないということだけだった。

 その夜、僕は眠ることができなかったので、起きてテレビをつけた。一時間、僕は地元のTV局がオスカーの模様を流すのを見ていたが、チャネルを換えても換えても、僕の耳に入って来るのは、次々と別の評論家が僕が正気かどうかを疑い、僕のスピーチを批判し、そして、要するに「いったい何のつもりだったのか判りませんね」というようなことを繰り返し言っていることだけだった。

 
 「あんな真似をした以上、ハリウッドで気楽にやって行けないだろう」。「彼と組んで誰が映画を作ろうとすると思っているのか?」。「職業的な自殺とはこういうこと」。こんなやり取りを見ながら一時間して僕はTVを消しネットの書き込みを見たが、そこでは同じような感想がもっとたくさんあったし、もっとひどい感想もあった―――しかも、アメリカ全土から書き込まれていた。僕は気分が悪くなりだした。不吉なことが起こる前兆のように見えた――それは映画製作者としての僕の終わりを告げるものだった。僕はコンピュータを消し、部屋の明かりも消し、暗闇の中イスに座って、自分の行いを何度も反芻した。よくやったよ、マイク。一息つこうよ。



 憎悪が殺到する




 僕たちがミシガン州北部の自宅に戻ったとき、自宅の私道には地元の美化委員会によって投棄されたトラック三台分の馬糞が腰の高さまで積み上がっていたので、僕たちは家の敷地に入ることができないほどだった―――ちなみに、家の方は、庭の木に打ちつけられた1ダースほどの看板に飾り立てられていた。その看板には「出ていけ!」、「キューバに引っ越せ!」、「共産党のクズ野郎!」、「裏切り者!」、「さっさと出て行かないとただじゃ済まないぞ!」などとあった。


 僕は出ていくつもりはまったくなかった。


 オスカーのスピーチの後、嫌がらせメールは膨大な数に上ったが、それはまるで、ホールマーク社が新たな部門を開設して、グリーティングカードのライターに僕の死亡を祝福する頌歌を作成するという課題を割り当てたかのようだった(「とりわけ最低のクソッタレに…」、「謎の自動車事故に会っても早く回復されることを!」、「めでたい心臓麻痺に乾杯!」)。


 実は、家にかかる電話の方がもっと気味が悪かった。人間の声に狂気が混ざり、「こいつは文字通り逮捕覚悟で電話越しにこれを言っているぞ」と思えるとき、電話は普段とは全く違ったゾッとするような代物になるものだ。そんな電話をかけてくる奴の度胸――狂気――には敬服するしかなかった。


 しかし、最悪だったのは、わが家の敷地に人が入り込んできた時だった。そういう連中は、私道をただ歩いているだけだったが、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(Night of the Living Dead)』(邦題「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド/ゾンビの誕生」)の配役から漏れた人みたいに、素早い動作をすることはないが、つねに単純な目的を胸に秘めてやって来るのだった。僕のことを本当に嫌っている者はほとんどいなかった。大半は単に頭がイカレているだけだった。保安官の代理人にはしょっちゅうお世話になったが、ついに代理人は、自分でセキュリティーに入るか、警護の人間をつけた方がいいよと提案してくれた。僕たちはその提案どおりにした。


 僕たちは、全米でもトップクラスの警備会社の社長にアポをとって会った。そこは元警官などは雇わないし、「タフ・ガイ」や用心棒タイプの人間も一切雇わないエリート組織だった。海軍特殊部隊か他の特殊部隊にいたことのある人間だけが重宝された。頭は切れたし、デンタル・フロス一本あれば数ナノ秒で人を殺すことができる面々だった。その年の終わりごろには、僕に対する脅迫や襲撃が心配なほど増えたので、僕は、24時間ぶっとうしで、9人の元海軍特殊部隊員に僕の身辺にいてもらった。


」(つづく)





 
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