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コンラッド東京の壁画の不可思議 [雑感]

 たまには見慣れた場所を離れて非日常の時空へ。という訳で、コンラッド東京で一日をすごしてきた。

 部屋からは浜離宮や東京湾を一望できる。散策する人や行きかう船を見ているだけで飽きることがなかったが、それほどのんびりできたわけでもなく、チェックイン後ほどなく子供とプールに行って、夜は銀座で食事。ゆっくりできたのは翌日のチェックアウト前のわずかな時間だけであったが・・・

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 コンラッド東京には、部屋からの眺め以外は特筆すべき印象をもたなかったが、朝食のときにちょっと目を惹いたものがあったので、それについて記しておこうと思う。

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 朝食は28階の「ゴードン・ラムゼイ」でとった。ここの食事もホテルそのものと同じ印象しかもたなかった。同じコンセプトが貫かれているとも言えようが、私の注意はおのずと別の方向に逸れていった。高い天井が開放感を与え、白い壁の線描画が独特の存在感を放っているなか、線描画の下にフランス語らしい文字が見てとれた。しかし、その意味が判るような判らないような…。もどかしい気持ちを抱きながら朝食を終えた。家に帰ったら調べてやろうと思いながら。

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 問題のフランス語は次の通りである。

 “ L’instinct.--- Quand la maison brûle, on oublie même de dîner. --- Oui, mais on se rattrape en faisant la dînette sur les cendres, après. ”


 家に帰って調べてみると、わりと簡単に典拠が判った。何とニーチェの『善悪の彼岸』の一節のフランス語訳らしいのだ。しかし、意味は?  これがけっこう難しい。順を追って説明してみよう。


 まず、問題となるドイツ語の原文を示そう。『善悪の彼岸』第四章「箴言と間奏」八三である。


 “Der Instinkt. ―― Wenn das Haus brennt, vergisst man sogar das Mittagsessen. ―― Ja: aber man holt es auf der Asche nach.”



 『善悪の彼岸』はいくつもの翻訳があるが、私が参照できた二つの訳を紹介してみよう。


 竹山道雄の訳では:
  
 「本能。――家が燃えるときは人は昼食をすら忘れる。されど、灰の上に座って食べなおす。」


 木場深定の訳では:

 「本能。――家が燃えるとき、昼食をさえ忘れる。――そうだ、しかし灰の上で遅れ馳せに食べ直す。」


 まあ、どちらの訳もあまり変わらない(ちなみに、上に掲げた仏訳もほぼ同じような訳である)。この文章で難しいのは“nachholen”という動詞の取り方かもしれない。それは、辞書的には「取り戻す、埋め合わせる」という意味で、すなおに訳せば「灰の上で昼食の埋め合わせをする」となるのだが、それでは日本語としてはイマイチなので、上に挙げた二氏は「食べなおす」と「こなれた」訳し方をしたのだろうと推測できる。


 だが、そもそも、いずれの訳も、このアフォリズムを「灰の上で食べ直すほど、人間の食に対する本能はすさまじいのだ」というような意味に取っているように見えるのだが、そんなクダラナイコトをわざわざニーチェが書き記すだろうか? という疑問を私は抑えることができない。


 ちなみに、あの線描の作品を創作した人も、そういう意味に取っているのだろうか? 「みなさん、あのニーチェも言っているように、人間の食欲は果てしがないのです、どんどん食べましょう」という思いを込めて、あの言葉を壁に書き込んだのだろうか?  作者の真意はよく判らないのだが、そのような気もする。


 だが、もしそうならばニーチェが気の毒というものだ。そもそも、食の本能を称揚する一文が『善悪の彼岸』にあるはずがない。


 ニーチェの言葉を私なりにたどってみよう。家が燃えたら、誰だって食事どころではなくなる。さて、家が丸焼けになって、後には灰だけが残る。人はその上で昼食を「食べ直す」。だが食事も灰になってしまったはずだから、いったい何を「食べ直す」というのか? また買ってきて灰の上で食べるということか? いやいや、そんな余計なことは何も書かれていない。とにかく灰しか残ってないのだ。灰を食べるほど人間の食欲は凄まじいとニーチェは言いたいのか?  まさかね。

 
 やはり問題は“nachholen”という動詞にある。それはどう考えても「取り戻す、埋め合わせる」という意味しかない。だが、考えるべきは「灰の上で昼食の埋め合わせをする」ということが何を意味しているかである。それは「食べなおす」と訳してもいいのだが、肝心な点は「食べる」ことにあるのではないのだ。

 食べるべきものが何も残されていないのに、どうして「食べ直す」ことができるのか? たしかにそうだが、人間には、そういうことができる不可思議な能力が備わっている。それは「想像力」と言ってもいいが、ただしそれは、ニーチェの思想を考え合わせるならば、「虚構」や「幻想」を生みだす能力という意味においてである。人間は、灰の上であの失われた昼食を想像の中でたどり直して、あたかも食べたかのような幻想に浸ろうとすることができる。あーあ、火事さえなけりゃ、あの料理を食べられたのになぁ。美味かっただろうなぁ、あれはあんな味だったろうし、これは・・・・。食に対する欲求は「本能」に根ざしていると言えるかもしれないが、虚構を生みだす能力もそれと同じくらい人間の深部に根を張っている。「箴言と間奏」八三のアフォリズムの強調点はそこに置かれているはずだ。あえて言葉を補って訳出すると次のようになる。


 「本能。――家が火事になったら、昼食なんて忘れて逃げ出すだろ、それが本能というものさ。――たしかにそうだが、けどね、灰の上であの昼食のことを未練たらしく思い返そうとすることだって本能の一種だよ」。



 お判りのとおり、ここに込められている思想は食事とは何の関係もない。また、その思想を表わす言葉もレストランの内壁に掲げるのに相応しいものとは思えない。「本能」というものが人間においていかに曖昧なものになっているかをニーチェは示唆しているだけなのだ。

 コンラッド東京の28階にあるレストラン「ゴードン・ラムゼイ」は、ニーチェのこの言葉を壁に掲げることで、食事をする人間に何を訴えようとしているのか、二重・三重に不可解で意味不明と言うしかない。このレストランもホテルも中味がカラッポだ。 ひょっとしたら、世の中はこんなカラッポな人間で成り立っているのだという貴重な真理を感じさせようとしているのかもしれない、ここは。









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