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あざける心の声と折り合いをつける [海外メディア記事]

 リネハン博士の回想の記事(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2011-06-25)に続いて、精神疾患から立ち直った人のライフ・ストーリーを紹介するBENEDICT CAREY記者のシリーズの第二弾。

 実は、私はあの記事がシリーズ物だとは知らなかったのだが、改めて見てみると、たしかに記事の左側に明記されている。「重い精神疾患をかかえながら通常の仕事をこなし、自分のこれまでの悪戦苦闘をあえて公表することにふみ切った人々の経歴」を伝えるシリーズのようである。有益だと思うので、私としても、時間のゆるす限り、紹介の労をとろうと思っている。

 リネハン博士とは違い、今回の主人公はアカデミックな人間ではない、幻聴に悩み続けてきた一人の男性の魂の遍歴である。

 オリジナルは3ページに分かれているので、それと同様に3回に分けて紹介する。


Learning to Cope With a Mind’s Taunting Voices

By BENEDICT CAREY
Published: August 6, 2011


http://www.nytimes.com/2011/08/07/health/07lives.html?partner=rssnyt&emc=rss




「 
  あざける心の声と折り合いをつける




1.jpg
 (声とともに生きる: 脳内の声にどのように対処したかを語る、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト)




ミズーリ州、リーズ・サミット―――職はもうない、銃に弾を込めた、そして声が次のように語りかけた。「お前はゴミだ、もうあきらめな、もうやってしまえ」。



 それは忠告ではなく、命令だった。その時――2000年の冬のある夜だった――重要だったのは、その声がどこからやって来るかではなく、その声がどれほど確信に充ち、どれほど説得力があったかということだった。


 

 初めて得たまともな職を失ったことは、ジョー・ホルトには耐えがたく、生きていられないように思えた。もう潮時だった。

 
 「あの時のことで覚えているのは次のことだけだ。寝室のドアをノックする音があり、妻のパツィーがベッドに腰を下ろし僕を抱きしめた、僕は左手で銃を握りしめていた、パツィーには見えないようにね」。そう語るのは、統合失調症の診断をうけたコンピュータ・コンサルタントで起業家のジョー・ホルト(50)。



 「彼女はこう言ったんだ。「ジョー、あなたが死にたいと思っているのは知っている、でも、明日になれば、望んでいるものが手に入るかもしれないわよ」。そして彼女は部屋から出ていった。 僕は、少なくとも1時間は銃をじっと見ながら座っていた、そしてついに心に決めたんだ――二度とこんなことはやめよう、ってね。自殺を選択肢にしちゃいけない。パツィーは、僕が努力するに値する女性なんだ、ってね」。

 

 近年、研究者はメンタル・ヘルスについて、薬物中毒の専門家が回復――つまり回復といっても、それは自己を治療し訓練する生涯つづく旅のようなもので、それが薬物中毒の治療プログラムの指針なのだが――について語るのと同じように語るようになってきた。もっとも、その考えには異論の余地がある。重度の精神疾患をコントロールすることは、単に{薬物に手を出す、というような}ある種の行動を回避することよりも複雑なものであるからだ。その旅には、薬物治療よりも多くの迷路があり、道路標識は少ないのである。



 それでも、その旅路の途上にあってしかも上手くやっているジョー・ホルトのような人もいるのだ。ほとんどの人は、ある種の医療の手助けに頼っているが、各人は、度重なる試行錯誤を通して、コアとなるスキルを一から積み上げなければならなかった。今、ますます多くの人々があえて名乗りをあげ、自分の物語を一般の人に向かって伝えようとしているのである。


 「回復ということに取り組むつもりならば、実際に回復した人々に、いったい何をやっているのかを尋ねたくなりますよね」。そう語るのはノースイースタン・オハイオ大学医学部の精神科の准教授のフレデリック・J.フレーゼ3世(Frederick J. Frese III)。彼は、自分自身が統合失調症と闘った経験を本に書いたことがある。


 「従来の医学が、私たちの多くに対してあまり有効ではなかったことは確かですね」とフレーゼ博士は続けた。「だから、私たちは、生きのびるための多くのコツを自分自身で学ばなければならなかったのです」。



 ホルト氏がもっている多くの資源のうちで、真っ先に挙げるべきは彼の妻である。彼女は腕のいい在宅のセラピストだったわけだが――逆説的なことに、それは、ある意味で、彼女が精神疾患を責任逃れをする十分な理由とは見なしていないからなのだ。


 「これまで起こったすべてのことを思い返してみても、彼女がいまだに僕と一緒にいることはまったく信じられないね」とホルト氏は言った。彼は、今、ミズーリ州のカンザス・シティー近郊に住んでいる。「考えられないことかもしれないけれど、何年にもわたって、彼女が汚らしくひどいことを言っているのを僕は聞いてきたんだけど、彼女はそんなことを言ってはいなかったんだから」。




 「俺はめちゃくちゃ壊れていた」


 ロニー・ジョセフ・ホルトは、孤児として育った。両親が離婚した後、彼の祖母がジョーと上の三人の兄弟を引き取ったが、夫が死ぬと祖母はすぐに衰弱してしまった。子どもたちは近隣のアラバマ州カルマンの住居施設であるチャイルドヘイブンに引っ越した。そこは、祖母が通っていた教会が支援する施設だった。少なくとも子供たちはそこで一緒に住む予定だった。1964年2月20日だった。ジョーは3歳だった。


 しかし、記録の語るところによると、施設のスタッフがホルト兄弟を離れ離れにしてしまった。兄弟たちはめったに顔を合わせることはなく、まして話す機会もなかった。施設が残していた(後にホルト氏が手に入れた)記録によると、長男のジャックは何度も脱走を試みたし、次女のスージーも少なくとも一度は脱走しようとした。


 彼らには脱走する理由があった。「定期的に殴られたんだ、時にはボードで、時にはピンポンのラケットで、時にはカミソリの革砥でね」とホルト氏は言った。「聖書の一節を暗記しなければならなかったんだが、それができないと、殴られるんだ。気絶しちゃうんじゃないかと思うくらいひどく殴られたことも一度あった」。


 テキサスのキリスト教会の聖職者だったジャックも、似たような記憶をもっている。

 1984年、チャイルドヘイブンのあるスタッフは未成年の男性にわいせつな行為をした罪状を認め、また子供をラケットで殴った罪状を認める者もいた。(それ以来、スタッフは一変し、施設は監視員を常駐させ、いまではトップの施設と見なされています、とジェームズ・ライト所長は語った)。ホルト兄弟はその頃までには施設を離れていた。ジョーは家を転々とし、アラバマでしばらく暮らし、クリーブランドの父のところに移った後、カンザス・シティー近郊のハイウェイ71沿いにある複合施設のバンガロー式のアパートで、母と母の新しい夫と義理の兄弟たちと暮らすようになった。

 しかしその暮らしは長くは続かなかった。ある夏の日、ジョーの母と夫は荷物をまとめてテキサスに引っ越していったが――お前は連れて行かないよ、と彼らは16歳の少年に言ったのだった。

 「ジョーがその後どこで暮らしていたのか、正直言って、思い出せない」。高校の友人で、今でも親しいテッド・ロジャースはそう言った。「彼は一人で暮らしていたよ、ただ、どこで暮らしていたかは判らない――とにかくこの近辺だよ。彼は本当に何も言わなかったんだ」。



」(つづく)






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