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神の子の顔の概念について [海外メディア記事]

 イギリスの『ガーディアン』紙のスライド・ショーを何気なく眺めていたら、一瞬ギョッとするような画像に遭遇した。

http://www.guardian.co.uk/news/gallery/2011/jul/20/24-hours-in-pictures?picture=377071697#/?picture=377071760&index=12


1.jpg


 キャプションには「フランス アヴィニオン: イタリアのロメオ・カステルッチによる「神の子の顔の概念について(Sur le Concept du Visage du Fils de Dieu)」という劇のリハーサル中に子供たちが演技している」と書かれてある。

 そうか、アヴィニオン演劇祭に今年もカステルッチが作品を出したのか。ひとまず納得。それにしても、またケレン味のある舞台のようだこと。

 ロメオ・カステルッチ(Romeo Castellucci)は、どう説明すればいいのか? とりあえず、イタリアの演劇・舞台パフォーマンスの鬼才とでもいうべきか? ダンテの『神曲』に想を得た同名の作品が一番有名であろう。 YouTubeでその断片をいろいろ見ることができる。たとえば

http://www.youtube.com/watch?v=LOv3QsyJG2I
 

・・・・とまあ、これで終わりにしてもいいのだが、フランスの『ル・モンド』紙に批評記事が載っていたので紹介してみよう。あくどいまでのキワモノ的演出と恐ろしいほど真っ当な思想が同居しているような感じを私はもった。

 ともかく、興味が湧いた人は、26日までオペラ-テアートルで上映されているので、急いで出かけてはどうか。それに間に合わない人は、来年の二月にパリで、冬にも何度か各地で公演予定だそうである。

Castellucci arrête le Christ à Avignon
Critique | | 22.07.11 | 15h00 • Mis à jour le 22.07.11 | 15h02

http://www.lemonde.fr/ete/article/2011/07/22/castellucci-arrete-le-christ-a-avignon_1551663_1383719.html


「   カステルッチ、キリストをアヴィニオンでとらえる

  ほら、男の顔があなたを注視している。この顔は、キリストの顔を表しているのだが、15世紀に、アントネッロ・デ・メッシーナ(Antonello de Messine)によって描かれたものだ。この絵のタイトルは「救世主(Salvator Mundi)」。この絵が、ロメオ・カステルッチがアヴィニョンで公開した新たな創作の中心にある。やはりいつものように、彼の作品は観る者の心をかき乱し、(観客一人一人の内面を)分裂させ、混乱に陥れ、このイタリアの芸術家だけが分け入ることのできる領域へと導き入れるのである。


 この顔は、絵画が大きく再現されているステージの背景から私たちを注視している。この計り知れないまなざしの下で、観客が目にする舞台は、全くつまらないものに見える。カステルッチにしては驚くべきリアリズムだが、真っ白なアパートというセットの中で、私たちは二人の男、一人の老人とその息子を見つける。父は赤痢の悪化に苦しみ、便意をこらえることが出来ない。息子は、出勤時に三度にわたって、父のおむつを取り換え洗浄しなくてはならず、最初のうちは愛情と忍耐をもって行っていたのだが、やがてそこに落胆と怒りが混じって来るのだ。
 

 ロメオ・カステルッチはこの長い場面の演出を、多くの観客を不快にさせるような(そのために退席する者もいた)リアリズムによって行った。ここには無害な要素は何もない。カステルッチの舞台は、つねに、観る者を観客という状態に立ち返らせるのだが、彼らは、裸の老人がお尻を拭くことができず、おむつに足を通し、自分の老醜について子供のように泣く様子を一々見る羽目になるのだ。このイタリアのアーチストは何も省くことはしない。糞の臭いさえ省かないのだ。


 その後、舞台はまったく別の次元に移る。カステルッチ自身がプログラムで述べたように、「スカトロジー(scatologie:糞尿譚)から終末論(eschatologie)への移行」である。キリストの顔が闇に没し、また現れる。そこに、一人、二人――十人ほどの子供がやって来る。今回のアヴィニョン演劇祭では、ほぼすべての舞台で子供が登場する。彼らは、通学カバンから、手榴弾に似せた小さなおもちゃを取り出し、争うようにして絵を爆破するのだが、絵の表面が変わることはない。アントネッロ・デ・メッシーナのキリストの顔は、依然として計りがたく手の届かない彼方にあるのである。



 「あなたは私の羊飼いではない」


 一連の魅惑的な映像が続くうちに、絵の表面の下、画布の背後で、何かが起こる気配がする。カステルッチは、偉大な造形作家でもあるのだが、キリストの顔を内部から攻撃するのだ。それは、まず手や足をつかって表面の繊細な皮膚を伸ばすかのようにして、いじくり回され歪められる。次に、大きなナイフが絵を切り刻み、赤黒い大量の液体(それは血というよりも前のシーンの排せつ物を想起させる)が絵一面に広がり、神の子の肖像画と舞台背後の黒い幕がずれていくのだ。

 画布は最終的に引き裂かれ、大きな黒のパネルが現われる。そこには、まず、新聞から切り取った大きな活字で、「あなたは私の羊飼いである(You are my shepherd)」という文字が浮かび上がる。しかしやがて、それが「あたは私の羊飼いではない(You are not my shepherd)」であることに気づく、という仕掛けになっている。


 以上のことをどう考えたらいいか? カステルッチのあらゆる舞台と同様に、観客は、この多義的な演出から、まったく個人的な意味を引き出すことができるだろう。しかし、この舞台のための解説のなかで、ロメオ・カステルッチは、面白い解釈を提供している。「父親の失禁は、実体の喪失、自己の喪失である。失禁を舞台化したのは、ケノーシス(kenosis:神性放棄)――この表現は、「空虚になる」という意味のギリシア語の動詞kénoôに由来する――、つまり、最も具体的な意味での人間的な次元を充分に取り込むために、自らの神性を放棄することになるキリストのこの世の試みに観客を直面させるためだった。それは、キリストが十字架で死ぬことによって人間の肉体に入り込む瞬間である。十字架に架けられてから、神は自らを低めて私たちのもっとも卑しい悲惨にまで降りてきたのだ。神は私たちに先んじて苦悩する、特に肉体的に苦悩するのである」。



 「神の子の顔の概念について」を観終った後でも、アントネッロ・デ・メッシーナが描くキリストのまなざしは、その神秘性を変えないまま、あなたの脳裏から離れることはないだろう。はたして、あなたは注視したのか、それとも注視されたのか?

 」(おわり)











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