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悪についての科学 [海外メディア記事]

 悪とは何かというテーマを扱った心理学の書物について、『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された書評を紹介する。
 
 悪の本性についての議論は、ハンナ・アレントの画期的な「悪の陳腐さ」というテーゼ(『イェルサレムのアイヒマン』)で決定的な転機を迎えた。それまでは、「攻撃性」という角度からのアプローチが主流だったはずだが(フロイト『快感原則の彼岸』、コンラッド・ローレンツ『攻撃 - 悪の自然誌』)、アレントは、そうしたネガティブな生物学的要因ではなく、「まったく何も考えないという消極性」に悪の本性を見つけようとした。そのテーゼは、ミルグラムによって実証的な形で実証されることになる。ミルグラムの実験が示したのは、生まれたときから一貫して教え込まされた「権威に対する服従的態度」が、他者を配慮し他者に共感を抱く気持ちを一時的に停止させてしまう、ということであった。

 このミルグラム実験に対する関心が最近でもなくなっていないことの一例を、このブログではほぼ二年前に報告している(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-05-12)。


 この書評で取り上げられているバロン=コーエンの書物はアレントとミルグラムの洞察を今日の脳研究にシフトした心理学の概念で定式化し直した感があり、目新しいものではないようだ。ただ、アスペルガーや自閉症などの現象と重なり合う若干言いにくい部分に切り込んだという点が目新しい、ということであろうか? しかし、バロン=コーエンの考えを単純化して、「悪=共感の欠如」という等式が独り歩きしてしまうと、他者に対する共感をもたない自閉症やアスペルガー症候群の人々に妙な予断を与えてしまうことになりかねず、そういう意味で論争を引き起こす可能性がないわけではないかもしれない。その点について著者は十二分に配慮した書き方をしているが、十二分の配慮でもまだ十分ではないということが間々ありますからね・・・


From Hitler to Mother Teresa: 6 Degrees of Empathy
By KATHERINE BOUTON
Published: June 13, 2011


http://www.nytimes.com/2011/06/14/science/14scibks.html?_r=1&ref=science


「 ヒトラーからマザーテレサまで:共感の六つの度合い

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 サイモン・バロン=コーエン(Simon Baron-Cohen)の著作『悪についての科学(The Science of Evil)』は、犯罪の犠牲者や自閉症スペクトラム障害の子供をもつ親やその仕事を彼が引用している数十名の研究者の幾人か――それに言うまでもなく、進化心理学についての彼の見解や性を扱う神経生物学に関する彼の主張を批判している人々――の反感を買うことだろう。『悪についての科学』は、悪に関する新しい考え方を提唱する、単純だが説得力のある仮説を提起しているのだ。


 「私の主たる目標は、「悪」という非科学的な言葉を「共感(empathy)」という科学の言葉に置き換えることで、人間の残酷さを理解することである」と、彼はこの著作の冒頭に書いているが、この新著は、彼の1997年の著作『精神盲:自閉症と心の理論についての試論』(Mindblindness: An Essay on Autism and Theory of Mind” (Bradford))で表明された共感についての見解をさらに拡大したものと見ることができよう。悪のこれまでの定義は、宗教的観点からか(悪の概念は世界の大宗教で異なっているのだが)、精神科が扱う病理(精神病理的な現象)としてか、または彼の言い方を借りると、「うんざりするほど循環論法的な」観点(「彼がXをしでかしたのは、彼が本当の悪党だからだ」)からなされてきた、とバロン=コーエンは述べる。

 バロン=コーエン博士はケンブリッジ大学の発達心理学の教授で同大学の自閉症研究センターの所長でもあるが、博士の主張によれば、悪は共感の不在としてより科学的に定義され、ネガティヴな環境的要因(ふつうは親の、場合によっては社会の要因)と遺伝的要素によって悪化するのだそうだ。これら三つの要因がそろって存在しているとき、それはゼロ・ネガティヴ人格(Zero-Negative personality)とバロン=コーエンが呼ぶものになる。ゼロ・ネガティヴ人格は、少なくとも三つ(かそれ以上)の形式をとるのだが、その三つの形式とは、精神医学で使われる用語を借用すれば、タイプPゼロ(ZeroType P:Pは精神病理(Psychopathology)のイニシシャル)、タイプBゼロ(Zero Type B:Bは境界性人格障害(Borderline Disorder)のイニシャル)、タイプNゼロ(ZeroType N:Nはナルシシズム障害(Narcissism)のイニシャル)の三つである。

 精神医学はこれら三つを大雑把に「人格障害」」という用語のもとにグループ化しているが、それらはすべてゼロ度の共感(zero degrees of empathy)という特徴を共有しているとバロン=コーエン博士は主張するのだ。(彼の共感指数の基準は、著書でもオンラインでも利用することができ
http://glennrowe.net/BaronCohen/EmpathyQuotient/EmpathyQuotient.aspx)、テスト結果はただちに数値化され、0から6までの共感の度合いを表わすスコアに変換される)。

 共感という観点からこれらの障害を見直すことは、「(精神医学とは)非常に異なる影響を治療にもたらす」と彼は主張する。サイコパスは別にしても、いじめの問題に苦慮している学校でなされているように、低い度合いの共感しか持たない人に対しても共感は教えることができるし、標準的な精神医学のアプローチで処理できるからだ。

 私は精神科医でも心理学者でも神経生物学者でもないが、私のような専門外の読者から見ても、精神病理的な行動をゼロ度の共感という観点から記述することにはいろいろ限界があるように思われるのだ。バロン=コーエン博士は、友人の首にロープを巻きつけるように少年を強制するナチスの親衛隊員の例を「残酷さそのものを楽しむための残酷さ」として引き合いに出している。しかし、この親衛隊員が所有しているのは、ゼロ度の共感と言うよりは、むしろ最高度である6度の反-共感(anti-empathy)であるように思われる。親衛隊員は、彼が思いつく最も残酷な仕方で振る舞い、その行為が両方の少年に対して破壊的な影響を及ぼし得るかを十分理解していたからである。

 
 「個々人の「共感のメカニズム」が様々なレベルにセットされるように導くものは何か?」とバロン=コーエン博士は問う。「最もすぐ浮かび上がる答えは、それが脳の特別な回路、共感回路(empathy circuit)に依存している」ということであり、彼はその回路をきわめて詳細に描いている。(いま掲げた問い ―― とこの本の中に出てくる多くの文――はもっと別様に言い換えらることができたにちがいない。個人の共感のメカニズムはアップ・ダウンするものだということを彼は言いたいのだろうか? 私はそうは思わない。彼が言おうとしていることは――実際、後になってそう言っているのだが―― 「個々人が共感指数のスペクトラム上のどこに位置するのを決定するのは何か?ということだと私は思う。)

 また、同じ神経回路が、ゼロN、ゼロP、ゼロBのような異なる振る舞いを生みだす原因は何か? 環境(極度の情緒欠乏や、ナチス時代のドイツのような社会的圧力)と遺伝子だ、というように答えは二本立てである。共感遺伝子についての議論は、但し書きや警告に満ちている。「私は、本書が、共感が隅から隅まで遺伝的であると主張していると誤解されないことを望む」。「私は、共感に関わる遺伝子をカッコつきで用いた」。「ある種の遺伝子が…に結びついている証拠をわれわれは検討している」。編集者は、こうした慎重な言い回しをしておらず、当該の章を「共感遺伝子(The Empathy Gene)」と題している。

「人間の残酷さについての考察」と題された最後の章で、バロン=コーエン博士は多分もっとも核心をなす問いを掲げている。それは、「もしゼロ度の共感が「神経の障害の一種であるならば、犯罪を犯す個人が自らの行為に対してどれほど責任をもちうるか」という問いである。

 この仮説は、個人の責任や自由意志のようなものは存在しないのだということを意味するのか? おそらくそうかもしれない。しかし、バロン=コーエン博士は、重大な犯罪に対して刑務所は必要であると考えていて、それは道理にかなったことである。刑務所が必要な理由として、彼は、社会を守る、犯罪を是認しないというメッセージを送る、被害者又は被害者の家族に正義の感覚を呼び起こす、という三つの理由をあげている。(彼は死刑を是認してはいない)。軽度な犯罪に対しては、懲役刑は正解でないのかもしれない。

 最後に、ゼロ度の共感は必ずしもネガティヴであるとは限らない。異論の余地のある考えだと彼自身認めているが、「ゼロ度の共感がポジティヴでありうるケースが少なくとも一つはある」と彼は主張する。異論がまき起こることに備えるかのように、彼は次のように付け加える。「考えられないように見えるかもしれないが、最後まで私の言い分を聞いてくれ」と。アスペルガー症候群の人は、共感スケールの末端のゼロに位置しているのに、彼らはゼロ・ポジティヴ(Zero Positive)なのだ。 ゼロ・ポジティヴは、物事を秩序づけるテストでの高得点をほとんど常に伴う(時によって天才を生みだす)。おまけに、「彼らの脳が情報を処理する仕方は、逆説的なことに、彼らを不道徳に導くというよりも、超道徳的な態度に導くからである」。

 これら二つの状態(ゼロ・ネガティヴとゼロ・ポジティヴ)が何らかの関連をもっていると示唆するだけで激しい怒りを引き起すだろうと私は思うが、この本の文脈の中ではそうした議論は理性的に見えるし、バロン=コーエン博士は決してその二つを等しいものと扱っているわけではない――ただし、それら二つがゼロ度の共感を共有している、ということは別だが。

 この危ういほどに単純な本の中核部分には、残酷さの本性に関する問いがある。最後の最も哲学的な章の中で、バロン=コーエン博士は、普段は共感を欠いているわけではない人が残酷な振る舞いをするような状況について議論している。「悪の陳腐さ(the banality of evil)」という哲学者ハンナ・アーレントの言葉を引用し、普通の人々が残酷な振る舞いを示したスタンリー・ミルグラムやフィリップ・ジンバルドの実験を議論しながら、バロン=コーエン博士は、私たちのほとんどにおいて、共感が、一時的にある種の状況下では、停止してしまうことがありうると認めている。

 これは恐ろしい考えだが、研究だけではなく歴史によっても裏づけられた考え方なのだ。残酷さとは連続的な共感スペクトラムの末端のゼロ点にすぎず、そのゼロ点に私たちは皆陥ることがあるというバロン=コーエン博士の仮説は、その可能性をより理解しやすいものとしたのである。

」(おわり)













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