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日本が世界に示した教訓 [海外メディア記事]

 今回の原発事故は、世界の原子力政策に多大な影響を与えたことは、すでに多くの報道が伝えた通り。オバマ政権も大変力を注いでいた「原発ルネッサンス」にストップをかけたようだし、ドイツのメルケル首相も原発の期限延長を考え直すという声明を発表したようだ。



 ドイツは特に反原発運動が盛んなお国柄。昨年11月の放射性廃棄物輸送の際には、非常に大規模なデモがあちこちで繰り広げられた(この時の模様はここで紹介した : http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-11-09



 だから、今回の福島第一原発の事故がドイツでどう報じられるか、非常に興味があった。まあ、内容は、ある意味で、読む前から判っているんですけどね。

  

 以下で紹介するのは、12日付だから、地震が起きた翌日のドイツ『ツァイト』紙の記事。『日本が世界に示した教訓』というタイトルが気に入って紹介する気持ちになった。



 掲げられる主張は、3/3のタイトルにもなっている「 第十一番目の戒めは、汝、無理を承知の賭けをすることなかれ」に尽きている、と言っていいのだろうか。「第十一番目の戒め」とは、十戒に続く十一番目の戒律、という意味。「汝、無理を承知の賭けをすることなかれ」と訳したが、直訳すれば「あなたはポーカー遊びをするべきではない」。電気という国民生活に直結した分野で、万が一の事故が起きたら取り返しのつかないばくちのような技術を用いるべきではないという意味。主張としては、ハンス・ヨーナスのようなドイツの哲学者が40年ほど前に言い出したときからある考え方だ。



 もう、ドイツではかなりの人がこういう意見を当然と見なしているのだろう。原発に積極的だったメルケル首相も、この記事が出た3日後に原発政策の見直しを公言した。ひるがえって、日本の電気事業やエネルギー政策はどうなるのか? 大幅な見直しがあるのか? しかし、東京電力の面の皮が厚そうな幹部をみると、そんなドラスティックな転換は期待できないような気もするのだが。しかし結局大惨事には至らなかったとしても、福島やその周辺の農産物は非常に長い期間市場に出回ることもないだろうし、これほどの多大な被害を出しておいて従来通りのやり方で押し通す訳にはいかないだろう、と思うのだが・・・・。

 





Japans Lehre für die Welt



http://www.zeit.de/2011/12/japan-kernenergie-leitartikel?page=1





「 日本が世界に示した教訓



人類は学び直さなくてはならない。それには共感は必要ではない、理解力があれば十分なのだ。





原子力発電所の設計図を前に説明する責任者



 日本人はわれわれドイツ人にとって縁遠い存在だ、とても縁遠い存在だ 。彼らの言語も、彼らの文化も、 彼らの自制心も 彼らの容貌も。しかし、ある程度の苦痛には、あらゆる人間を似た者同士にするものがある。その苦痛の程度には到達してしまった、いやそれをもう超えてしまったのだ。地震による揺れ、津波の襲来、致命的な放射線の脅威――これらが何を意味するのかは、誰でも思い描くことは出来る。誰に頼ればいいかわからず途方に暮れる人々、家族の行方が分からない人々、放射線量を計るガイガー・カウンターの数値を見たいと思うが不安を隠せない 人々。こうしたことが判るには翻訳はいらない。われわれの想像力で十分だし、隣人愛で十分だ。しかし、それはどれくらい長く続くのだろうか? 数週間? それとも数か月? 

 ともかく、世界は暴君カダフィによって犠牲になった何千人もの人々に対して同情の念を寄せていたのだが、それは、日本で起きた大惨事によって中断してしまった。カダフィは、福島のニュースの陰に隠れて、恥ずべき勝利を勝ち取っているようだ。われわれは、あちこちに定めなく同情心をさ迷わせること以上のことができていないのではないか? それともあまりに過剰な世界によってわれわれも限界に追い込まれているのだろうか? 先週おきた出来事はすばやい答えを返すことが出来るようなものではない、とりあえずは正確な分析をする必要があるのである。



  1/3 日本で間違っていることがドイツで正しくなることなどありえない



 そう、福島はチェルノブイリではない、なぜなら今回問題なのは、死滅しつつある独裁国家における廃炉に近い原子炉ではなく、ドイツにあるのと同じような沸騰水型原子炉であり、事故は民主主義的な国、しかもドイツやフランスと同じくらい技術的に進んだ、ハイテクの国で起きたからである。日本で間違っていることがドイツで正しくなることなどありえない。

 そう、それに自然は重要ではない。自然災害とはああいうものであり、容赦がないものだ。しかしそうしたことは予見できたことであり、日本政府もこの2011年3月11日にいたるまで常に、わが国の政府が言っているように、原発は安全だと言ってきたのである。何と言っても、原発は安全だということは、自然のどんな猛威が襲って来ようと、常に原発は安全だということを意味するのである。

 そして、ここで問題なのは原子力エネルギーだけではない、進歩というものにストップがかかったのである。制限のない、若々しい、まさに思春期によくあるような楽観主義のこの100年はこの2011年3月11日でたぶん終了してしまったのであろう。この100年は、ずっと前から疑念に悩まされてきたのだが、そのたびごとに進歩の次の段階へとするりと逃げのびてきた。石炭から石油へ、石油から原子力発電へと。この楽観主義は、すべての問題は、たとえそれが科学技術が引き起こした問題であっても、遅かれ早かれ技術的に解決されると信じていた。自己を制限しようとする考え方、特定の科学技術は放棄しようという考え方、世の中には人間が支配できないものもあるのだという考え方は主流の思想にも現われたが、それが実際上どういう結果をもたらすかを考えて、人々はそうした考え方をとらなかった。


 ドイツ政府もこうした古い考え方に捉われていたし、とりわけメルケル首相がそうだった。首相は物理学者の目で原子力を見ていたし、それが彼女には客観性のオーラを与えた。今でも、政治的に追いつめられると、彼女は科学に解決策を求める。「安全はすべてに勝る」とメルケル首相は、方針の変更の理由を述べる中で、そう言った。しかし、日本でもドイツでも、それは事実に反する。日本の原子力発電所はマグニチュード8までの地震に対して耐震設計がなされていたが、マグニチュード9の地震にはつかまってしまったのであるから。

 ただ、日本の政府は、なぜこうした安全性の基準に満足したのだろうか? マグニチュード9の地震は、マグニチュード8の地震に比べて10倍も強大で、それに相応しい安全性の技術にかかるコストも飛躍的に上昇するからなのであろう。そうなると原子力発電は、他のエネルギー源よりも高価になり、企業の利益が大幅に減少するだろう。だから、ドイツの原発が約束通り検査される際に、ありとあらゆることが明らかになるだろうが、安全を求めるあまりコストが高くつきすぎてはならないのである。安全性は最優先ではない、経済的な損得勘定と同じ程度なのだ。リスクと利益は一体のものである。一方が高まれば他方も高くなるのである。



  2/3: 重要な出来事が続く毎日がわれわれの政治に過度な負担を強いる



   日本人はおそらく政府を信頼していたのだろうし、彼らはおそらく、原発が耐用年数を迎え、もう安全でもないし採算も取れなくなったとき政府が知らせてくれるだろう、と考えたのだろう。その希望は裏切られた。そしてわが国の場合はどうか? 今の連立政権を信用していいのだろうか? もっとも古く、最も危険な原子炉の稼働期間を延長することを平気で決めてしまった政権を? 現政権はどうして延長を決めてしまったのだろう? それは、これらの廃炉となるべき原子炉が循環エネルギー時代へのつなぎ技術として放棄できなったからなのか? しかし、もしそうであったとしても、原発建設計画の延期くらいはすぐにでもできるだろう。多くのことから考えて、現政権は原子力産業のみに何かを与えようとしているらしいし、原発関連のロビー活動につぎ込まれた莫大なお金が物を言っているらしいのだ。


  原子力は、わが国が所有している最も危険な技術である。しかし、原発について国民投票のようなことは一度として行われてこなかった。今や、日本で起きたこの恐るべき大惨事を考えるならば、国民投票が行われるだろう。メルケル首相はバーデン-ヴュルテンベルク州の州議会選挙をシュトゥットガルト駅に関する住民投票にしたいという意向をもっていたが、その選挙は今となってはドイツ連邦首相の原発政策に関する投票となることだろう。それは、野党がそう望むからなのではなく、目下のところそれ以上に重要なテーマが存在しないからだ。おまけに、シュトゥットガルトの勢力関係は真の国民投票にはうってつけだ。連立を組む二つの政権党は原子力政策を熱心に推進しており、野党の政党はすべて原子炉の稼働期間の短縮に賛成なのだから。

 そして、次の日曜日になるべく早い脱原発政策が支持を得るならば、万事は元通りになるのではないだろうか?

  すでに述べたように、問題は原子力エネルギーだけなのではない。この週末のことを思い出す人は判るだろうが、現代における最大の災害の一つが起きたということだけでなく、劇的なもろもろの出来事がここ数十年で最大の形で一挙にまとまって起こったのだ。本来、3月の2番目の週末は、ユーロ危機の克服と新しい財務体制が大見出しに来るはずだった。しかし、それは見出しに現われなかった。リビアで飛行禁止区域が設定されるべきかどうかということの方が重要で緊急を要する問題になったからだ。しかし、そのリビアの問題も背後に退いてしまった。日本が大きな地震に見舞われ、津波の襲来を受けたからだが、それらに原発の事故が覆いかぶさったのだ。

 世界の新たな重圧はどこから来るのか、われわれの政治家に過大な要求をつきつけたりれわれの共感を過度に強いるこの密度の濃い一連の出来事はどこに由来するのか?それは、ますます多くの人間が存在するようになったことに由来するのだ。ますます多くの人間がますます多くの人間を目にするようになったことに。ますます多くの人間が声を上げるようになったことに。ますます多くの人間がますます旅行をし、ますます消費をし都市に住むようになったことに由来する。ますます多くの都市が大陸の縁に、砂漠に、浜辺に、河口のデルタ地帯に建設されるようになったことに由来する。

 世界はより高速に、より狭く、より活気にあふれ、より自由に――そして、より危険になった。そして持続的に連鎖反応しあい、膨大な影響を及ぼし合う世界が生まれた。そこからただちに、この世界を取り囲むこの何十億という身近の、あるいは縁遠い人々を愛せよという主張をしたとしても、その主張からは何も奪われはしない。その反対に、この何十億という人々を愛せという主張は変わらないのである。



  3/3 : 第十一番目の戒めは、汝、無理を承知の賭けをすることなかれ



 それゆえ、試しにこの世界を冷静な眼差しで眺めてみるべきだ。いったいアラブ人がわれわれとどんな関係があるというのか? まあ、少なくともアラブ人は石油を提供してくれているし、まもなくとても長い直流の送電線で太陽光発電による電気をい提供してくれるだろう。あるいは革命が失敗したら、難民になるかもしれない。それから、ベルリンから9000キロ離れた所に暮らす日本人とは何の関係があるというのか? 少なくとも、彼らはわれわれのものととてもよく似た原子炉をもっているのだ。

 新たに生まれつつある世界市民に対して愛情は必要ない、理解力があれば十分だ。

 それでも、新たに発生する要求事項について思い違いをする人もいるだろう。だから福島の災害から教訓が引き出されなければならない。現代の市民にとっての十一番目の戒めは、汝、無理を承知の賭けをするな、――なぜなら、掛け金があまりに高額であり、あまりに多くの人間が巻き沿いを食らうからである。この点でも、チェルノブイリとの違いがあるのであって、今回の原発の事故はほとんど空っぽな地域で起こったことではなかったからである。人口密度の高い産業地域に影響を及ぼしているのであり、悪い展開になるならば、地球上で最大の都市の一つである東京都とその周辺の約4000万人が暮らす一帯に影響を及ぼすことになるのである。


 原発で想定外のリスクが発生する確率は極端なまでに、そしてありえないほど低い。しかし緊急事態が発生した場合、その結果はありえないほど極端なものになる。

 この数日の出来事の別の教訓は、汝、無関心になってはならない、である。いまアラブ諸国で独裁者が食い止めようとしていることは、何十年もの間、無視され否定されてきたことである。それが今ではすべてがコントロールされず、ある国で起きたことが隣国に伝わり、後10年もたてば今いる支配者の大半は一掃されているに違いない。

 ますます速度を増し複雑になっていく世界をたった二つのルールで渡ろう思うならば、それは無謀なことだろう。しかし歴史を動かすに足りるほどの出来事が起きたこの週から、真っ先に二つのことが導き出されるのである。想定外のリスクと指数的に高まっていく影響には用心しなければならない、ということ。そして、長い間しかるべき仕方で見られることのなかった場所では、いつか恐るべきことがおこるものである、ということ。



 そして、出来る人は、日本を援助しよう。











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