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好評だったマンハッタンの白隠展 [海外メディア記事]

  
 もう終わってしまったが、去年12月から今年の1月にかけて、マンハッタンのジャパン・ソサエティーで『隻手の音声: 禅僧白隠の画と書(The
Sound of One Hand: Paintings and Calligraphy by Zen Master Hakuin)』展が開催され、好評を博したようだ。



 こういう禅画は、浮世絵のような純然たる絵とは違って、背景となる仏教の知識がないと十分な理解が得られない所もあるので、これまで欧米人には近づき難いものだったにちがいない。紹介できる素養と知識をもつ専門家がそうそういなかったことも空白を生み出す一因だった。だから、アメリカではこれが白隠の初めての本格的な紹介なのであるが、多くのアメリカ人に感銘を与えたようだ。この模様は、いずれNHKで放映されるようだ。



 という訳で、展示会の紹介としては遅いのだが、白隠がもっと知られることを願って、展示会開催時に出た『ニューヨーク・タイムズ』紙の紹介記事をここにアップしよう。白隠を知らない人も興味がわくのではないかと思う。


 なお記事にも出てくる『鷲頭山図』について詳しく解説しているサイトがあったので、興味ある方は次のURLに行ってみてほしい。
http://www.myoshin-zen-c.jp/c_record/record_h171819/record_9.htm

 さらに蛇足で、文中に出てくる「ミスター・マグ―(Mr.Magoo)」が判らなかったので調べたら、欧米で人気のあるマンガのキャラクターみたいだ↓ まあ、文字通りの蛇足。その下は、白隠の一八番の達磨図。
6.jpg




  

 Spiritual Seeker With a Taste For the Satirical

By KEN JOHNSON

Published: December 23, 2010



http://www.nytimes.com/2010/12/24/arts/design/24paintings.html?scp=1&sq=hakuin&st=cse



「  風刺の趣きをもつ精神的求道者

ケン ジョンソン



 偉大な芸術家がそれほど偉大な人間ではないことを知ってショックを受けることはしばしばある。本当にショックだと思うことが。こうした幻滅にあふれる近代において、われわれは芸術的・文学的偉業を芸術家の道徳性から切り離すようになった。セリーヌ、トルストイ、ピカソ 、ポロックの作品を賞賛して、なおかつ彼らの人間としての失敗には目をつぶる、ということがあるかもしれない。それでも、精神の進化と芸術の進化は手に手を取って進むはずだという幻想は容易には捨てられないのである。



 だから、どこから見ても超越的な性格をもつ人間でありながら、それに見合うだけの素晴らしい芸術を創造した芸術家に出会うと心が晴れるような気持になる。



 そんな稀なケースが白隠慧鶴(1685年~1768年)である。白隠は、日本の書家・禅画家だが、過去500年間で最も重要な禅師と見なす人が多い。白隠は「隻手(せきしゅ:片手の意)の音声はどんな音か?」という公案(こうあん:禅問答の意)を思いついたが、俗な想像力はその問いにどうしても「拍手する(隻手)」という修飾を加えてしまうのである。



 禅画の専門家オードリー・ヨシコ・セオ(Audrey Yoshiko Seo)とスティーヴン・L・アディス(Stephen L. Addiss)によって企画され、ジャパン・ソサエティーで開催されている『隻手の音声: 禅僧白隠の画と書』展は白隠の作品69点を紹介している。アメリカでは白隠の初の回顧展となるが、魅惑的な展示だ。



 白隠は、何よりもまず、精神的な求道者であり教師だった。彼は14歳で禅宗の本格的な修行を開始し、絶え間ない旅を続け多くの悟りの経験を得た後、31歳の時、生まれ故郷の原宿に戻った。彼は、地元の寺である松陰寺の僧となった。その寺から、禅師としての、説教師としての、著述家として彼の名声は日本全国に広まった。僧侶も素人も、彼の精神修行を学ぼうと全国からやって来た。白隠の修行は瞑想と公案の研究に基づいていたが、公案とは、一見ナンセンスな問いに見えるが、人心を、二元的で抽象的な思考の習慣に濾し取られないままの、現実の真の本質に向けて開くように意図されたものである。



 白隠は、芸術で正式な修業を受けたことはなく、画業に取り組むようになったのは60歳になってからである。面白半分で描いたわけではなかった。彼にとっての芸術は、自分の教えを伝えるための手段だったのだが、84歳で死亡するまでに、白隠は千点を超える禅画を生みだした。



 彼の書画は、形式的に言えば、比較的に伝統に従った文章の断片を書き連ねるスタイルから、モダニズム的な抽象化の即興性をおもわせる3~4インチの筆で創作された人物画へと進化していった。 白隠の主に筆で描かれたイメージ群は、古人の名僧、風景、日常生活のシーン、神話的な光景などを、緩やかだが厳格な線と素晴らしい感度のタッチで描いている。

 

 わずかにユーモラスな心情がいたる所にあって、それは、たとえば、大きな布の袋に隠れている太った僧がネズミの相撲を見ている絵に反映している。戯画風の肖像画は、気難しく激しい表情を細かく線を波立たせながら描くことで名僧たちを讃えている。白隠の芸術には技術的に苦労したと感じさせるものがほとんどない。画法上の約束事とか感傷的な信心などから見事なほど自由なので、白隠の感性のみずみずしさは白隠の魂のヴァイタリティ―に匹敵しているのである。







 複雑な作品や、複合的な象徴に合わせて描かれた大品もある。展覧会に出品された中で最も美しい禅画の一つでは、穏やかで長い髪の文殊菩薩が、流れるような線で描かれており、コミカルで獰猛そうな寝そべっている獅子の隣で、瞑想しながら座っている。知は力に勝るというわけである。






 詩句が多くの禅画の詩情を高めている。『鷲頭山図』では、素描された船が水面に浮かび、すぐ向こうの山の中腹に大きな鷲が無造作に描かれている。空に書かれた漢字は次のように読める。「見上げれば、鷲頭山。見下ろせばしげしし浜のつり舟」。





 展示会のカタログの中でアディス氏はこう述べている。「まるで、ここで今、どのように見ているのか、何が見えているのかにすべてがある、と言っているかのようだ」。



 他方で、物事の表面を超えて見なければならない。ミスター・マグーを連想させる杖をもった老齢の盲人は、一ツ目の鬼に直面して逆説的なことを叫ぶ。「俺はお前なんか怖くないぞ――/俺には目がないから/お前の方が俺を怖がっているはずだ」。精神的な洞察は単なる感覚的な知覚に打ち勝つというのだ。



 白隠は風刺画の名手でもあった。「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」と壁に落書きをしているところを捕まってしまった猿の絵もある。14世紀の僧侶である吉田兼好の随筆の魅力的な一節の引用なのだが、兼好法師の人気はあるが世俗的な随筆を白隠は無知蒙昧と見なしていたのである。



 もっと深い意味が込められているのは、最も取るに足らないものを描いた画の中にある。白隠が何度も描いた画像に、臼(うす)の上のアリがある。その絵に記された俳句は次のように読める。「臼をめぐるアリ――この世界のささやき」(オリジナルは「磨をめぐる蟻や世上の耳こすり」)。アリが歩く聞こえない音の中に大きな真理があると示唆しているかのようである。別の詩の中で、白隠は同じモチーフをさらに詳しく述べている。





アリは休むことなく鉄臼を幾度もめぐる

六道のすべての物のように、

ここで生まれ、かしこで死に、放免されることはない

いまは餓鬼に、つぎは獣になる。

この苦しみから自由になることを求めているならば、

隻手の音声を聞かなければならない。


(オリジナルは次の通り

 「閑蟻(かんぎ)、鉄磨(てつま)を巡る、巡り巡って休歇(きゅうけつ)することなし。
 六趣の衆生に似て、輪廻して出期無し。
 此に生まれ、彼に死し、鬼と成り、畜と成る。
 此の患難(げんなん)を免れんと欲せば、須らく隻手の声を聞くべし」。

 )



 これはまだ現代人の耳にも響く言葉だ。ラット・レースのような騒々しい現代の生活を一時中断してみよう。ただ耳をすましてみよう。













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