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8月15日のもう一つの側面 忘れられた部隊 [海外メディア記事]

 8月15日といえば、日本人にとっては終戦の――正確に言えば、敗戦の――日だが、アメリカ人やイギリス人にとっては、当然ながら意味が逆になるわけで、対日戦線勝利の日、略してVJ Day(Victory over Japan Day)である。どういうわけか、日本ではほとんど伝えられないが。(65年前のVJ Dayについては、以下のURLにスライドショーがある。http://www.bbc.co.uk/news/world-10955862

 あの戦争に参加した人々の高齢化が進み、こうした式典も形ばかりのものになりつつあるのだろうかと思い検索してみると、確かにアメリカはそうした形骸化が結構進んでいるように見受けられたが、イギリスではまだこの趣旨の式典が、全国的にきちんと行なわれているようだ。ロンドンの記念式典は、チャールズ皇太子とキャメロン首相が出席して厳かに行われた。その模様は、BBCのニュース映像で見ることができる。(http://www.bbc.co.uk/news/uk-10976603)。

 第二次世界大戦の対日戦線でイギリスや日本が負った被害の数字の一例を紹介しよう。

* 日本軍は連合国兵士を19万人捕虜にした。

* そのうち5万16人がイギリス人だった。

* 1万2433人のイギリス人捕虜が、日本の収容所で殺されたか死んだ。

* 10万人におよぶイギリス人部隊が1941年から1945年にかけてビルマ戦線で戦った。

* 300万人以上の日本人が死亡した。 

 出典:大英帝国戦争博物館(Imperial War Museum) 



 しかし、式典でも以下のビルマ戦線を戦った「忘れられた部隊」の人々を扱った記事でもそうだが、一切の怨念や憎悪が消え去ろうとしている中、歴史的事実だけは忘却から救い取らなければならないという意思がこうした式典には込められているのだろう。できれば、その意思は、多くの人に共有してもらいたいものだ。しかし、あの戦争の対日戦線で、例えばイギリス人がどれほどの被害にあったかを知っている日本人がどれほどいるだろうか? イギリスのみならず、8月15日を「勝利の日」として祝っている国々が他にどれほどあるか、どれほどの日本人が知っていることだろうか? おそらく驚くべきほどの無知が広がっているに違いないのである、恐ろしいことに。 

 

65回目のVJ-Day記念日に参加する人々のインタビューからなるイギリスBBCの記事より。

World War II horrors faced by 'forgotten army' in Asia

By Dhruti Shah BBC News

15 August 2010 Last updated at 00:14 GMT





http://www.bbc.co.uk/news/uk-10956865





「 「忘れられた部隊」が直面した第二次世界大戦の恐怖

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「逃げようとした捕虜達も他にいましたが、捕らえられました。彼らの首が、私たちの目の前で切られたので、私たちは同じことをしようと考えもしませんでした」

 チェルトナムの93歳になるシド・タヴェンダーは第二次世界大戦の間日本戦争捕虜として経験したことで、いまだに悪夢を見ることがあるという。

 1945年8月15日――日本が正式に降伏した日付だが――までに、9万332人の英国人が殺されたか、捕虜となったか、負傷したか、または「行方不明、おそらく死亡と推定される」として分類された。

 65年後、タヴェンダー氏は、第二次世界大戦が公式に終わったと認識された日を顕彰するためにイギリス中で開かれる集会に参加する数千人の中にいるだろう。

 開催されるイベントには、ロンドンの葬墓やスタッフォードシャーの国立記念植物園で開催される追悼式典が含まれている。

 ヨーロッパ人はドイツ人が1945年5月に降伏した連合軍欧州戦線勝利の日(VE Day)を祝うが、アジアの戦線に放置された人々は「忘れられた部隊」となって、ほんのわずかな物資でやりくりせざるを得なかった。

 タヴェンダー氏は、1942年、当時マラヤとして知られた所にあるスリム川の戦闘でグルカ兵と戦っているときに捕らえられた。

 彼はまずクアラルンプールのプドゥ監獄に送られ、つぎに、タイとビルマをつなぐ悪名高い「死の鉄道(Death Railway)」を建設するために日本軍が強制的にかき集めた推定6万1000人の連合国捕虜と27万人のアジア人労働者の一人になった。

 彼は次のように述べた。「恐ろしかった――一時期私たちは収容所に約6,000人いましたが、その数は、釈放された頃は、127人まで減っていましたからね」。

 「コレラ、腸チフス、赤痢にかかる人がいましたが、医師による治療はまったくありませんでした。しばしば、彼らは手足を切断しなければなりませんでしたが、無駄でしたね」。

 彼によれば、囚人たちは秘密のラジオを作り、可能な時に、こっそり抜け出して放送に聞き入り、他の人々と情報を共有できたという。

 しかし、日本人や韓国人の見張りがいなくなった時にようやく、生存者は、世界の戦況がかなり変化し、連合国が勝利を祝っていることを知った。

 連合国の兵士が私たちの身柄を確保するためにパラシュートで降りてきたんだが――最終的な降伏の3~4日後だったと思う」

 「私たちはとてもひどい状態だった。私はほとんど歩くことができなかったし、身体全体が痛かった。慢性の赤痢とマラリアにかかっていましたからね」。

「その頃、私の体重は5ストーン9ポンド(約37キロ)で、身体のあらゆる骨が目に見えましたよ」。

 



 彼がイギリスの自宅に戻るまでに数ヶ月かかった――家族は、あるとき彼が死亡したと推定されると知らされたので、悲嘆にくれ始めていたのだ。

 「飛行機で故国に戻ったのは真夜中でしたが、私がしようと思ったことといえばすべてを忘れようとすることでした」。

 「私の望みは、家に帰って体を洗うことだけだった。すぐに休暇が認められ、基本的な生活物資が得られるように配給手帳が与えられましたよ」。

 「私に起こったことを決して忘れることはないでしょう。私は、いまでも悪夢を見ますからね」。

 「私たちはまさしく最初から忘れられた部隊だったのです――だれもあのジャングルを生きてでるものはなかろうと、{首相のウィンストン}チャーチルだって私たちのことは諦めていましたからね」。

 タヴェンダー氏は、現在、聖ダンスタン戦争捕虜の会の会長としての職務をまっとうすることに多くの時間を費やしている--8年前に失明したとき彼が関わるようになった慈善団体だ。

 妻に先立たれ二児の父でもある彼によると、死んだ人を思い出すのは重要だが、似たような経験を共有する人と会うときはいつでも、過去のことは話題にせず、今の生活のことだけを語り合うのだそうだ。



 この方針は、同士だった退役軍人のスタン・ロバーツも同様で、彼も、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの祈念庭園での祈念式典でジャワ極東戦争捕虜団体ののメンバーに会うときは、過去のことは話題にしないように決めている。

  戦争中、彼は、妊娠している妻と幼い子供たちを後に残し、第77英国陸軍重砲兵隊で戦った。

 1942年捕らえられたとき彼は26歳で、ジャワに移送され、その後日本の九州にある門司に移送された。

 「すぐに働かされましたよ。一緒に捕虜になった者の多くは炭鉱で強制労働させられましたが、私は電動機をつなぎ合わせる作業の協力をしなければなりませんでした」。

 ロバーツ氏も、戦局がヨーロッパと日本近海でどう進んでいるかに関してはわずかな、伝聞に基づく知識しかもたなかった。

 日本が降伏する数日前に米軍機が広島と長崎に原子爆弾を落としたときでさえも、捕虜たちは何も知らないままだった。

  「私たちは何も知りませんでした――私たちは強い爆音は聞こえましたが、それだけでした」と、彼は爆弾が落ちたのを聞いたと思う瞬間について、そう語った。

 「すべてが合点いくようになったのは、後になってからですよ」。

 彼によると、監守が消え連合国軍が現われたのを発見したとき捕虜たちは感激したそうだ。

 「ときどき、私たちは忘れられてしまったのだと感じていましたからね」。

 「何が起こっていたかが何も分からない不気味な時でしたよ。だから、とても多くの人が死んだり発病したりしました」。

 「私が生き残ったのはただただ幸運だった」。



 その一方で、ロンドンの葬墓で行われる対日戦勝の日の記念式典のときに、ヴィック・ニッブはビルマで戦った経験のことを振りかえることになるだろう。

 サリー州のウェスト・モリシー出身で現在85歳の彼は、第4大隊ロイヤル・ウェスト・ケント中隊に所属していた。

 彼が現地に到着したのは、連合国軍がコヒーマの戦闘で成功を収めた後のことで、この成功によりビルマを奪回しインドに侵攻するという日本軍の計画は頓挫した--ビルマとインドは鍵を握る目標だったのだ。

 ニッブ氏は、いまでもビルマ・スター協会に精力的に関わっているが、次のように言った。「私たちはジャングルの中で暮らし、マンダレーからラングーンまで移動し、日本軍をその地域から一掃しました」。

 彼の部隊に食料や水がほとんどなく、なおかつ日本兵の脅威に対処しなければならなかった。

 「自分の戦闘地域の外で何が起こっているかについては、少しは知っていましたよ。家族から手紙が来ましたが、しばしば検閲されていましたね」。

 「時折、両親が新聞のコピーを私に送ってきてくれたのですが、私がそれを受け取る頃にはとても時代遅れになっていて、いつも役立ったわけではありませんでした」と彼は言った。





 ニッブ氏は、対日戦線勝利が宣言される数カ月前にイギリスに戻っていた、そして、英国王室の前で行われる勝利パレードに彼の戦友の何人かも参加したとき、彼はバッキンガム宮殿の外にいた。

 しかし、勝利がついにやって来たとき、それはほろ苦かったと彼は言った。

 「私がパレードに居合わせたのは重要でした。私は3年半故国を離れていたし、これは「忘れられた部隊」が広く認識される機会だったからね」。

「何千人も死にましたし、これらの人々が犠牲にしたことを決して私たちは忘れるべきではありません」。













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IWM LONDON GUIDEBOOK

Japan's early success resulted in the capture of hundreds of thousands of Allied military personnel and civilians who had to endure malnutrition,disease,forced labour and appaling living conditions. Over a quarter fo them died.
by IWM LONDON GUIDEBOOK (2012-11-06 07:40) 

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