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礼拝訴訟に不安に満ちた判決が下る [海外メディア記事]

 ヨーロッパ社会における、イスラムに対する排他的・拒絶的な雰囲気の広がりは、このブログでも伝えたことがあります(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-02-26http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-01-18)。最近では、フランスでブルカを禁止する法案が通りそうな気配が濃厚ですが、ドイツでも似たようなことがあるのかと思ってこの記事を読んでみたのですが、あまり深刻そうではないですね。ドイツもイスラム圏からの移民を多く抱えているにもかかわらず、まだ余裕があるのか、それとも、この記事に指摘されているように「不安と防御的反応」が広がりつつあると見るべきなのか、意識の片隅に置いておくことにしたいと思います。

 ドイツ『ツァイト』紙の記事より。

http://www.zeit.de/gesellschaft/zeitgeschehen/2010-05/schule-gebet-islam-berlin?page=1


「 礼拝訴訟に不安に満ちた判決が下る


 ベルリンの学校は、イスラム教の子どもたちが休み時間に校内で礼拝することを禁ずるべきだという判決が下された。これは是認できる判決かもしれないが、勇気ある判決ではない。

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(ベルリンの学校の生徒は礼拝をしてもいいのか? 新たな判決は新たな問題を生み出す)
 
 ベルリンの学校から、イスラム教徒の生徒が礼拝する場所が無くなるだろう。この判決とともに、ベルリン・ブランデンブルク上級行政裁判所は、木曜日、下級審の決定を破棄した。この判決が具体的に意味することは、イスラム教徒の生徒が宗教の授業以外の時間に校内で礼拝することを、学校は禁ずるべきだということである。


 ベルリンの裁判官はこの判決によってまったく正当な決定を下したわけだが、しかし勇気ある決定とは言えなかった。不安と防御的反応に満ちた判決であって、自信ある寛大さと誠実さに満ちた判決ではなかった。

 訴えたのはベルリンに住む16歳の高校生。礼拝の義務を守るために、彼は数少ない他の生徒と一緒に規則通り地面に膝まずき、礼拝のスーラ{『コーラン』の章}を唱えた。校長が儀式行為を禁ずると、イスラム教徒の若者は、両親の支援を受けて提訴した----そして一審では勝利した。学校は、この生徒が皆の注目する中で礼拝をすることを望まなかったので、この生徒のために礼拝する場所を、一審の判決後に整備した。

 去年の9月の判決は、多くの憤慨を生み出した。多文化社会に心酔するあまり、裁判官は宗教的に中立的な教育体制の原則を見捨てた、という非難が浴びせられた。お人好しすぎて、公共の空間をますます占有しようとする急進的なイスラムの主張に裁判官は屈服したのだとも非難された。


 判決において裁判官は二つのことをしただけだった。つまり、基本法{=ドイツ憲法}で定められている信教の自由を擁護したことが一つで、もう一つは、それと同時に、単純な組織上の問題が宗教・政治に関わる憲法上の大論争に発展することを防ぐことだった。今日下された判決はその逆だった。憲法に関わると推定される問題に対する原則的な答えを出したのである。


 たとえばフランスとは違って、ドイツは世俗主義の国家ではない。それゆえドイツでは、信仰は私的領域に追放されたわけではない。だから、我が国の学校では国が定める宗教の授業が存在するのである。それゆえ、クラス内の生徒が誰も反対しない限り、教室に十字架が架けてあることが許されるのである。それゆえ、同級生が礼拝したいならば、教師、親、生徒はそれを受忍しなければならない。

 当然ながら、ドイツでも宗教の自由にも限度がある。結局、学校は教会でもないしモスクでもないからである。礼拝する生徒は、授業から遠ざけられるべきではないし、級友の邪魔をしてもいけない。それに、彼は、同級生に、アラーへの呼び掛けに参加せよという重圧をかけてはならないのである。


 しかし、そのようなことは何も起こらなかった。彼はたった一度、休み時間に数分間、ホールの隅(そこが後に学校側によって提供された礼拝の場所となったのだが)に引きこもっただけだった。信仰心が強いイスラム教徒の別の学生は毎日そのことをしていたが、誰もそれに強い怒りを感じたりはしなかったのである。なぜなら、ベルリンであれ他所であれ、学校は普通、あらゆる関係者を満足させる解決法を、冷静さと想像力をもって見つけ出すものだからである。いずれにせよ、葛藤が激化するなどという話は何も聞かれていないのである。


 ベルリンの礼拝論争はスポーツの授業を巡る議論に少し似ているところがある。イスラム教の批判者は、イスラム教徒の親の多くが、子どもたちにスポーツや水泳の授業に出ないように申し入れることによって、就学の義務を免れようとしていると、警告したのだった。学校側はもっと毅然とした態度で臨むようにという談話を大臣も表明したのだった。


 しかし、『ツァイト』紙が調査したところ、実際にはこの問題に該当する学校はごくわずかだったことが判明した。スポーツの授業---あるいは性教育の授業---を拒んだ人はほとんどないに等しかった。女子学生が男女混合の水泳の授業を怖がったとても稀なケースでは、葛藤はたいていプラグマティックに解決することができるのである----例えば、女子生徒は女性専用のコースで泳がせたり、女性の教師が全身をおおう水着(いわゆるブルキニス水着(Burkinis))で授業に現われたりすることによって、解決できるのである。


 たしかに、今回の件が持ち上がった学校、ベルリンのウェディングにあるディースターベック-ギムナジウムの状況は特殊である。ここでは、多くの宗派の生徒が、宗教に縁遠い青少年とともに学んでいるからである。今日の裁判官が言ったように、すべての宗派に独自の礼拝所を提供することなど、学校には無理な話である。それはその通りだが、それでも、この学校では礼拝所を求める他の問い合わせはなかったのである。


 イスラム教は---多くの人はそう理解していないが---ドイツにある一つの宗教であるのみならず、やがては、数百万もの人々がそこに帰属するドイツの一宗教となるのである。多くは寛大で世俗的である一方、保守的で厳格な信仰心をもっている人もいる。そのどちらかが、私たちのお気に入りなのかもしれない。しかし、「多数派にとって縁のない宗教的形式でも法的に保護されるべきであることを、我々は学ばなければならない」と連邦憲法裁判所の判事ウド・ディ・ファビオ(Udo Di Fabio)は言った。彼は正しかった。そのことは、教会を建設する場合であれ、スカーフをめぐる問題においてであれ、学校における礼拝に関してであれ、等しく当てはまるのである」。












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