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道徳の起源 [海外メディア記事]

 数ヶ月にいっぺんは、必ずどこかの新聞や雑誌で目にする進化論関係の記事。それほど、進化心理学、進化神経学、進化生物学等の分野が活況を呈している、ということなのでしょうか? アメリカでは、進化論を授業で扱わない州がいくつもある一方で、科学の分野では何かにつけて進化論的な正当化をしようとする傾向があるのは、皮肉というか何というか。

 
 今回は、ドイツ『シュピーゲル』誌の記事を見てみます。アヤラの理論を素材としたものですが、それほど新味があるわけではない。つまり、道徳は「外適応」の一種で、知性の発達によって生じた副産物にすぎないという考え方ですが、それには特に反対者はいないのではないかと思います。むしろ、記事の中で言及されているドーキンスとのインタビューのほうに興味をかきたてられました。少し古いのですが、次回はこれを紹介しようかなと思っています。



http://www.spiegel.de/wissenschaft/mensch/0,1518,692653,00.html

人間は自らに道徳的規範を与える ―― それが人間を動物から区別する点である。道徳の起源については、哲学者、心理学者、神学者らがずっと長いこと論争を繰り広げてきた。さて、ある米国の研究者によると、倫理的な振る舞いは進化の副産物らしいのだ。

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 男性が複数の妻をもつことは許されるのか? お腹がすいていて冷蔵庫が空っぽなとき、なぜ私たちは隣人の食事を略奪しないのか? 今、一夫多妻制は、私たちの社会では窃盗と同様に禁止されている。しかし、男として複数の妻をもつことがまったく正常である国々が存在する。それに対して、強盗は全世界的に非難されるべきことと見なされている。

 一夫多妻と強盗という二つのケースは、人間の価値観が似ているようで違っている場合もある、ということを示している。明らかに個々人の価値観は文化的影響を受けている。しかし問題は、道徳はどこからやって来るのかという点にある。それは私たちの遺伝子に潜んでいるのか? それともむしろ、宗教や人間社会の文化的影響に帰着するのであろうか?

 
 カリフォルニア大学アーバイン校の進化生物学の教授であるフランシスコ・アヤラ(Francisco Ayala)は、道徳を進化の偶然の副産物であると見なしている。倫理的な振る舞いは、自然淘汰によって直接説明することはできないと、彼は専門誌『米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences 』に書いている。

 道徳は、アヤラにとっては、人間に直接的な恩恵をもたらす環境への適応ではなく、むしろ外適応(Exaptation) なのである。進化生物学者は、ある形質が本来の目的とは別の目的に創造的に転用されるという自然現象をそう呼ぶのである。「外適応」の例は多く、たとえば羽がそうである。羽が発達したのは、まず動物の体温を保つためであった。その後、鳥は、飛ぶために羽を利用したのである。

 外適応の主張によって、アーバイン校の進化生物学者は、道徳の発生を進化によって直接的に説明しようとする多くの同僚の見解に異を唱えてきた。「人間はつねに社会的に生きてきたし、社会的生活とはルールに従う生活のことを意味する」と、たとえばフランクフルト大学のユルゲン・ベライター-ハーン(Jürgen Bereiter-Hahn)は述べる。「そこに私は道徳の起源を見るのです ―― 道徳は進化上の利点を直ちに産み出すことができるのです」。

 

 動因としての知性


 フランシスコ・アヤラはこうした主張を疑問視する。「道徳的な感覚は私たちがもろもろの行為を正しいあるいは間違っていると判断することを可能にします」。アヤラによると、道徳的判断の能力それ自体が、同種の他のメンバーに対して一つの利点になったとは考えにくい。とりわけ更新世の時の自然選択の目標は、むしろ知的能力の発展だった、というのである。

 知性は属性として選択されたとアヤラは書いている。そして、知性のおかげで、人間は道具を作ったり使ったりして、以前にもます成功を勝ち得ることができたのだという。こうしてますます発達していった人間の大きな知的能力に、アヤラは道徳的な感覚を帰着させる。「知的能力のおかげで、私たちは、自分の行動の結果を予測し、その結果を評価し、それに応じた行動を選択することができるのです」。人間の合理性が、道徳的な判断を産み出すのである。

 
 副産物としての道徳 ―― 興味深いことに、進化生物学者は宗教の成立をまったく似たような仕方で記述しているのである。たとえば無神論の名高い擁護者であるリチャード・ドーキンスは、(宗教的)信念を、人間の属性――たとえば権威への従属という属性――の副産物として見なしている。「森の中では、反抗的な子どもは、親の警告を無視した場合、危険な目にあったでしょう」とドーキンスは『シュピーゲル』とのインタビューで述べていた。

 したがって、自然選択は、権威への従属(という形質)に有利に働いたことであろう。「しかし、権威が言うことを信じる脳は、虎が潜んでいるかもしれないから、夜に森に行ってはいけないという良いアドバイスと、雨を降らせるために、ヤギを犠牲にせよとする愚かしい命令とをもう区別することができないのです」とドーキンスは言っていたのである。



 変わる道徳的規範


  アヤラは、もろもろの行為を正しいまたは間違っていると格付けする能力と、人間が行動するときに従う道徳的規範とを区別する。アヤラにとって、道徳的な感覚は人間の本性とその知性に密接につながっているのである。

  それに対して、アヤラによれば、道徳的規範は文化的進化の産物なのである。文化の進化に応じて、道徳的規範も急速に変化することは、今日の社会において、離婚やマリファナの使用や同性愛の扱われ方が示していることである。喫煙も今ではタブー視されるようになった――少なくともアメリカではそうである。

  道徳の起源と可能的な効用への問いがどれくらい難しいかは、利他的行動が示している。人と共有するのを好んだり他人の子どもを手助けする人は、根本的には、自分自身に害を与えているのである。だから自然選択においては、利己的に行動する人間のほうが有利であるはずなのだ。

 もちろん、問題はそれほど簡単ではない。利己的な人間は集団から排除されることがあるかもしれないし、極端な場合には死の危険が待っているのである。おまけに、利他的行動が一般的であるような社会は、誰もが真っ先に自分のことしか考えないようなグループに比べると、著しい利点をもっている。進化生物学者たちはいわゆる集団選択を話題にする。たとえば、子育てを一族のわずかなメンバーに任せられるならば、より多くの母親が狩猟に出かけられて、より多くの獲物をもってくることができるだろう。だから、少なくとも利他主義に限って言えば、それは人間という社会的生物の進化の産物なのかもしれないのである」。










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