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東京大空襲資料展に行ってきた [雑感]

浅草公会堂に東京大空襲資料展を見に行った。私が見に行くのは去年に続いて二度目。内容は去年と同じだった(そもそも変えようがないか。しかし東京大空襲訴訟の経緯に触れてもよさそうに思えるのだが。去年の記事はhttp://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-03-09-1を見ていただきたい)。したがって、今年の記事は、去年のものを補完するようなものにしかならないことを予め断っておく。 (見るに耐えない悲惨な写真がありますので、気の弱い方はここでストップするのが賢明かもしれません)。



私の別のブログで、英米がドイツのドレスデン市に無差別空爆を行った「ドレスデン爆撃」を伝える記事をアップしたことがある(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-02-16)。それはそれで悲惨な被害をもたらしたが、東京大空襲の被害者は「ドレスデン爆撃」の3倍強。無差別に民間人の居住区域を狙った空襲が国際法に違反することはアメリカ軍の責任者も自覚していないわけではなかったが、アメリカ側が無差別爆撃に踏み切った理由の一つに、東京では民間人の居住する地域で軍需物資が作られているという事情があった。少なくともそれが口実にされたのである。何せ老若男女「一億火の玉」となって鬼畜米英に立ち向かえ、すべての国民が「御国を守る戦士」だったわけで、戦闘員と民間人の区別が存在していなかったからである(しかし、戦後補償や賠償の話になると、戦闘員と民間人との間には厳然とした区別があったと見なされる。区別がないと見なされたからこそ標的にされたのであり、区別があったと見なされるがゆえに補償から外される。戦中も戦後も、一番割に合わない被害を蒙ったのは非戦闘員の国民だった)。

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銃後の守りは女性たちの務め。銃後の守りを誓い合う集会の写真。勇ましい「主婦の友」の表紙(ちなみに「防空壕内呪文札(ぼうくうごうないじゅもんふだ)」なるものがあったとは初めて知った)。防火練習の一コマ。何か、江戸時代の頃からあまり進歩していないような消火体制。この程度の訓練で何とかなると考えた軍部や政府の指導層は、当時の爆撃弾・焼夷弾がどれほど進化していたかについてまるで無知だったことは明白。つまり敵の戦力についてまったくの無知でありながら闇雲に鬼畜米英と叫んで国民すべてに戦闘を呼びかける指導層の愚かな傲慢さと、それに黙々と従う国民の従順さと、そのそれぞれに対してまったく別の意味で言葉を失くすような感慨しか浮かんでこない。


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そして言うまでもなく、その代償はあまりにも大きかった。最初の写真は、 石川光陽氏撮影の有名な写真。「赤ん坊を抱いて逃げ回ったであろう、母と子の焼死体」。三枚目の向こうに写っているのは、東武鉄道の橋? それとも吾妻橋? いずれにせよ、春になると桜が咲き人出でにぎわう墨田公園で、かつて、こうした酸鼻を極める光景が展開していたとは。

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戦後、ドイツは、軍人であろうが民間人であろうが、ドイツ人であろうが外国人であろうが、自国が引き起こした戦争によって被害を受けたあらゆる人に対してできる限りの補償をおこなった。それに対して日本は、軍人・軍属を除くと、戦争によって被害を受けた人々に対する補償を拒み続けてきた。そしてそうした姿勢を批判する国民の声もあまりに弱かった。司法の場で戦争被害について訴えを起こすという動きが出てきたのは、ここ10年のことにすぎない。なぜだろう? なぜこのような違いが出てくるのか? 民度の違い? と割り切って済むことではないはずなのだが。(私の雑感はこの中途半端なところで途切れる)



いただいたコメントでとても印象に残るものがあったので、こちらのスペースでも紹介します。

「親父に手を引かれ逃げ回っていた。頭に濡らした布団を被り防空壕に入ったのを覚えてる。何日かして馬に乗った天皇陛下を見た覚えが有る。地べたに頭をこすり付けられたのも記憶に有る。火が道路をなめたように来るのも覚えてる、団体で声を上げながら火の中に行く人達も見た。何故だか其の日の事だけ記憶に有る5歳の私が見た記憶。その後はひもじいのとタバコ拾いが毎日の日課タバコは無いけど。アメリカ軍がジープからお菓子を投げたのを拾った事も覚えてる。今考えると日本中の大人がきちがいであり洗脳された大人の様に思える。今の北朝鮮より始末悪い国民で有ったと思う、間違い無く大人は皆気違か馬鹿の集まり。10万以上に死んでる筈きちんと調べてほしい。大人の言う事は信じられ無い。墨田区深川に居た。
by 近藤三郎 (2010-03-11 04:51)」

これらの言葉は、一語一語脳裏に刻みつけておきたい。とくに、「今の北朝鮮より始末悪い国民で有ったと思う、間違い無く大人は皆気違か馬鹿の集まり」。一早くアジアの停頓から抜け出したものの、メンタリティはいまの北朝鮮にもある引き継がれている「アジア的」メンタリティをひきずって、相手の戦力の客観的分析などおかまいない、いざとなれば元寇の「神風」の再来を信じて、見切り発車で真珠湾攻撃。結果責任については何も考えなかっただろう官僚・軍人の浅はかさと幼児性。近代国家の体裁を整えたは良いが、その精神の中枢にはきわめて大きな空虚があった。その空虚を埋めるにはそれに見合う大言壮語と虚勢しかなかった。たぶん、戦後になってこの国が、自らの戦争に正面から向き合うことを避けてきたのは、自らの空虚さを直視したくないからなのではないかと私は思うのだ。











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コメント 3

平和太郎

東京大空襲で逃げ回って助かった
オレは今82歳、逃げ回って生き残った、多数の焼死者を見た、両手に子供を抱いて焼けこげた母親もいた。
橋の上だが死人で歩けなかった。 憲兵がきて一人ずつ歩けるように道を作った。
川に飛び込んで筏かなにかに捕まっているのか、誰かが助けようと叫んでいた人がいた。
だがオレはふらふらで目が痛くて歩くことがやっとだったので見向きもしなかった、今考えると後悔している。立派な方もいたと感心している、 何方だろうと今でも思い出す。

近くの郵便局の屋上で見たのだが、遠くが燃えていた時だが、夜なのに炎の明かりでB29が煙の合間に見えるのだ。可成りの低空飛行なのだ
森下町交差点から隅田川の反対方向に家族4人で逃げた、途中で2人ずつに分かれてしまったが恩賜公園で皆助かった。
地獄絵以上で悲惨極まりない、戦争は嫌だ、アメリカは残酷だ。
当時を思い出すと眠れない。
次より
http://6713.teacup.com/hattorin/bbs/4400
by 平和太郎 (2010-03-11 02:01) 

近藤三郎

親父に手を引かれ逃げ回っていた。頭に濡らした布団を被り防空壕に入ったのを覚えてる。何日かして馬に乗った天皇陛下を見た覚えが有る。地べたに頭をこすり付けられたのも記憶に有る。火が道路をなめたように来るのも覚えてる、団体で声を上げながら火の中に行く人達も見た。何故だか其の日の事だけ記憶に有る5歳の私が見た記憶。その後はひもじいのとタバコ拾いが毎日の日課タバコは無いけど。アメリカ軍がジープからお菓子を投げたのを拾った事も覚えてる。今考えると日本中の大人がきちがいであり洗脳された大人の様に思える。今の北朝鮮より始末悪い国民で有ったと思う、間違い無く大人は皆気違か馬鹿の集まり。10万以上に死んでる筈きちんと調べてほしい。大人の言う事は信じられ無い。墨田区深川に居た。
by 近藤三郎 (2010-03-11 04:51) 

MikS

 平和太郎さま& 近藤三郎さま

 貴重な証言ありがとうございました。いつまでも残しておきたいような証言です。

 とくに「今の北朝鮮より始末悪い国民で有ったと思う」という近藤様の言葉は脳裏に刻み付けておこうと思います。今は日本国中の人々が、北朝鮮を自分たちとはまったく異質なものとして白眼視していますが、たった65年前に遡るとあれ以上の狂気が日本国中に蔓延していたことを皆忘れてしまったようです。根本の部分ではそれほど違っていない、あるいはそれほど違っていない可能性があることをいつまでも忘れないでいたいと思います。
by MikS (2010-03-11 17:29) 

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