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西洋の脳、東洋の脳 [海外メディア記事]

 「 文化神経学(Cultural neuroscience)」についてシャノン・ベーグリー女史が紹介している記事をアップします。

  文化の違いが脳の違いに反映されていることが実証的レベルで示されているわけですが、それが判ったところで何かプラスになるのか、これまで知られていたことを単に別の言葉で言い直したに過ぎないじゃないかという懐疑論――記事の終わりに顔を覗かせていますが――もとうぜん出るでしょう。

  ちなみに、これまで紹介したシャノン・ベーグリー女史の記事をいくつか関連エントリージェネレータでピックアップして、最後に挙げておきました。お時間と興味がある方は参照してください。  



Sharon Begley West Brain, East Brain
Published Feb 18, 201
http://www.newsweek.com/id/233778


西洋の脳、東洋の脳

経験が脳を変化させる実例をまた科学者が発見しても、今では驚きでも何でもないはずだ。私たちが吸収する感覚的情報から身体の動きに至るまで、私たちの毎日の活動は大脳皮質の凹凸部分に痕跡を残すものなので、経験が脳の構造の「ハード・ウェア」の部分を変えることができるほどなのである。脳梗塞で倒れた患者は、リハビリを通して、損傷を受けた領野とは反対側の運動皮質の領野に、ピンチ・ヒッターとして立つよう丸めこみ、失われた運動性を回復しようとすることができる。5日間だけ目隠しされた実験参加者は、視覚をつかさどる大脳皮質が音や触覚を処理するように脳のプログラミングを変えることができるのである。


 それでも科学者たちは、文化――私たちが話す言葉、私たちが吸収する価値観――がいかに深く脳を形作っているかに驚いてきたわけだし、西洋人の研究から引き出された発見を考え直している最中なのである。最近の一例を取り上げてみると、内側前頭前野(ないそくぜんとうぜんや)と呼ばれる額の背後にある領野が自我を表わしている、と脳科学では考えられてきた。私たちが(「私たち」とは研究対象としてのアメリカ人のことだが)自分自身のアイデンティティーや特徴を考えるとき、その領野が活発になるからである。しかし、中国人のボランティアに同じ実験をすると、結果は著しく違ったものになった。「私」回路(The "me" circuit )は、ある特定の形容詞が自分に当てはまるかどうかを考えるときだけでなく、それが自分の母親にも当てはまるかどうかを考えるときにも、活発化したのである。自分と母親との間のそうした重なり合いを示した西洋人はいなかった。自分が、自我を自律的で唯一的なものと見なす文化の中で生きているのか、それとも自我をより大きな全体に結びついていてその一部であると見なす文化の中で生きているのかによって、この神経回路はまったく違った機能を果たしているのである。


 「文化神経学」とこの新たな学問分野は呼ばれているのだが、それはこうした文化的差異を発見することを目指している。「私/母親」回路のような発見のいくつかは、ずっと昔からある文化的差異の概念を裏書きするものだ。たとえば、西洋人は個体に焦点をあてるが、東アジアの人々は文脈や背景に注意を払うということは(個体主義vs集団主義というギャップの一つの現れであるが)、文化の相違としてよく引き合いに出される現象である。複雑で、ものが忙しく動き回る場面を示されたとき、アジア系アメリカ人と非アジア系アメリカ人では動員する脳の領野が違っているのである。アジア系の人々は地と図の関係――全体的な文脈――を処理する部位の活動が活発になったが、アメリカ人は物体を認識する領野の活動が増大したのである。


 タフツ大学の心理学者ナリーニ・アンバディは、同僚とともに、日本人とアメリカ人に服従的なポーズ(頭を垂れ、肩をすぼめる)か支配的なポーズ(腕組みして、顔を前に向ける)をしている人々の絵を見せたとき、似たようなことを発見した。脳のドーパミンに支えられている報酬回路(reward circuit)は、実験参加者のそれぞれの文化がもっとも評価する――アメリカ人にとっては支配的な、日本人にとっては服従的な――姿勢を目にしたときもっとも活発になった、とアンバディは2009年報告した。これは、明らかに、卵が先かニワトリが先かに類する疑問を誘発するが、賢い人は、文化が脳を形作る方にお金を賭けるだろう。


 文化神経学がよく知られている文化的差異に対する神経的基盤だけしか発見しないのであれば、波風は立たなかっただろう。ところがそれは、予測もつかないことを明らかにしつつあるのである。たとえば、2006年のある研究は、簡単な算数の問題(3+4)を解いたり、どっちの数の方が大きいかという問題を解くのに、中国語を母語とする人は、英語を母語とする人とは違う脳の領野を使っていることを発見した(両者ともアラビア数字を使っていたのだが)。中国人は、視覚的・空間的情報を処理したり運動のプランを立てる回路を使っていた(後者はそろばんの使用と関係があるのかもしれない)。しかし英語の話し手は言語の回路を使っていたのだ。まるで、西洋人は数を単なる語として考えるのに、東洋人は数に象徴的で空間的な意味を込めているかのようである。「数学の基本的な計算に関係する神経プロセスは地球上どこでも同じだと考える人もいるだろうが、それはそれぞれの文化で違っているように思われる」とアンバディは述べる。


 パーティーを台無しにするような真似をするつもりはないけれど、文化神経学が、例えば人類学から私たちが得た知識以上のものを明らかにするかどうかと問うことは大事なことだと私は思う。たとえば、東アジアの人々は集団的なものを個人的なもの以上に高く評価し、アメリカ人は個人的なものを高く評価するということはよく知られたことである。こうした価値観の相違が脳のどの領野に関係しているかを突き止めることで、何かそれ以上の洞察が得られるのだろうか? そもそも、こうした価値観の違いが肝臓の中にある何かの結果だと考えた人はいなかった(みんな脳の中の何かの結果だと考えていた。であるならば、文化神経学は目新しいことを何も発見していないのではないか?)。

 
 文化神経学はわれわれの理解力を進化させているとアンバディは考えている。私/母親の発見を取り上げてみよう。それは、集団主義的な文化では自我と周囲にいる人々との重なり合いの強さを、個人主義的な文化では分離の強さを証明するものだ、と彼女は主張する。分析を脳のレベルにまで押し上げることが重要なのである。「人権や民主主義などの「普遍的」な概念が実はそれほど普遍的でないと思えるほど、文化的差異がいかに根本的であるかということを分析が示すときは特に、分析を脳のレベルに押し上げることが重要なのです」。 



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