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虚構を考え直す(4) [探求]

記憶とポイエーシス


 今述べたことをすべて具体的にするためにマルセルの旅の概念にもう一度立ち返ろう。今度は、しばらく前に私がした、そして最近それについて書く機会に恵まれた現実にあった旅のことに言及したい。手短かながら、またしても自伝的な逸話に触れることをご容赦いただきたい。(私は、これが危険な領域であることは十分自覚している)。

 思春期の数年間、私の父と私は、良好ではあるがどこかぎこちない関係にあった。父は、時には厳格で少し我慢しきれないような素振りを見せることもあり、私は、基本的には、髪の毛を伸ばし放題で、権威なんて糞食らえという気ままなヒッピーだったので、時としてそれほど好ましい取り合わせにはならなかった。私の兄たちは年が離れていてしかも非常に成功を収めていたので、それとの比較で言えば私が理想からかけ離れているように見えたことは確かである。ともかく、大学の2年の終りに(その頃までに、私は自分の学業と世界について前よりいく分かは真剣になり始めていた)、父は夏休みのために私が荷づくりするのを手伝ってくれて、私を車で家まで送ってくれた。実に、実に久しぶりに-ひょっとしたら、生涯で初めて-私たちは語り合った。多くの、様々なことについて。楽しい時間だった。私は、その時のことを触れ合いと償いの時であるように考えるようになった。それは、信じがたい出来事だったわけではない。抱擁するとか、過去の罪を詫びるとかそんなことをしたわけではないが、父は、父なりの熟慮した仕方で私の存在を基本的に認めたのであり、私に対してO.K.だよと言ったのだ。私も同じことをした。家についたら、私は外出して、友人たちに会いに行ったと思う。

 一ヶ月後、家から数時間離れたキャンプ場で仕事をするために家を離れたときが、私が父を見た最後の時だった。彼は55歳だった。

 私の父があの運命的な夏以降も生き続けていたならば、あの二人で帰宅したドライブは、一つの出来事として脳裏に刻み込まれることがあったかもしれないが、そうでないこともありえたかもしれない。ドライブで帰宅する機会は別に何度もあっただろうし、別に接触する機会もあっただろうし、すれ違った機会もあっただろうし、おそらくもっとずっとあっただろう。それゆえ、そうなれば、あのドライブは単なる「一つの素敵なドライブ」にすぎなかっただろう。しかし、実際は、それは極めて意義深い出来事だったし--私が遭遇したいかなる出来事よりはるかに意義深い出来事だった。実は、あのドライブは、私の過去における記念碑的な出来事(monument)のようなものになったのだ。

 
 これには何ら幻想的なものはない。記憶は、以前の直接的な経験に立ち戻ることではない。また、出来事に意味を与えるようにして物語りを構成することが問題なのでもない。意味ある出来事を引き出して、それ以降にやってきたもの(当然、やって来なかったものも含まれるが)の結果として初めて現れる意義を仔細に明らかにしようとすることなのだ。いずれにせよ、肝心な点は、わたしたちが時計の時間にのみ生きているわけではないということである。わたしたちはまた物語りの時間にも生きているのであり、この時間を通して、以前には見たり感じられなかった物事を見たり感じたりすることが時として可能になるのである。


 ここで、但し書きを加えておこう。私がこのエピソードやその意義を組み立てることには構成的な側面、想像する(imagining)という側面があることは疑いえない。ヴァレリー・グレイ・ハードキャッスル(Valerie Gray Hardcastle)やキャスリーヌ・ネルソン(Katherine Nelson)に倣って、ポイエーシスという意味での意味制作(meaning making)のプロセスと呼んでもいいかもしれない。フィクションの概念が、単に、構成あるいは意味制作を指し示すものと受け取られるならば、反論すべきことはあまりないのだ。問題なのは、やはりまた、虚構的なものという観念が、非虚構的なテクストに適用されるとき、幻想なり現実的なものの変形という観点から見られるようになるときなのである。


 ハッキングの研究がここでは有益だろう。マルセルと似てないこともないのだが、彼が反省をめぐらしているのは過去の非決定性についてであるが、記憶の非決定性ではなく、「実際に人々がしたことの非決定性」であると、彼は念を押している。問題は、過去についての発見がますます増えるということではなく(明らかに、そういうことも時にあるけれど)、「わたしたちが諸々の行為を新たな記述のもとで提示する」ことなのである。ハッキングは続けて次のようにいう。「わたしたちにとって重要なことは、いまそう思えるほどはっきり定まったことではなかったのかもしれない。わたしたちが自分のしたこと、他人がしたことを思い出すとき、わたしたちは過去を考え直し、記述し直し、感じ直しているのかもしれない。そのような再記述は、過去について完全に当てはまっているだろう。つまり、それらは、いまわたしたちが過去について主張している真理なのだ」。


 この文脈で注意して欲しいのは、これらの真理が現れるのは物語りの時間(過去の風景をふりかえって見やる時間)において、そして物語りの時間を通してであるにもかかわらず、ハッキングが語っているのは、スペンス及びルドウィックその他のような「物語的な真理」ではないということである。彼は端的な真理について語っているのであり、真理とは何であるかについてのわたしたちの感覚を、過去の不連続な出来事を表わしているものの彼方に連れ出すことによって、その感覚を拡大せよと促しているのである。ここで考慮されているのは、過去を語ることに含まれる物語りと詩的なプロセスによって使用可能となる真理なのである。












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