So-net無料ブログ作成
検索選択
ブログパーツ

虚構を考え直す(3) [探求]

ナラティヴ・タイム(物語りの時間)

 
 私はここで小休止をとり、またもやかなり著しくギアを変えようと思う。このエッセイのこの地点までの部分は、この書物{“Narrative and Consciousness”}のもととなった講演会に行くためにヴァンに乗り込んで空港に向かう時にはもう出来上がっていた部分であった。別の部分も書いたが、今皆さんが読んだ部分がその時までに私が印刷に回していたもので、基本的に同じ方向に進んで行こうと私は想定していた。計画としてはそうだった。

 しかし、事態はもっと複雑になった--実際、とても複雑なので、空港に向かう道すがら、私は残りの部分はかなり違うものを書こうと心に決めた。講演会に向けて出発するニ三日前に、12歳になる娘でとても素敵な子どもであるブレンナが朝起きると、ほとんど話すことができない状態になっていた。目が充血していて、肺が悪そうで、少し顔が紅潮していた等々。おそらくウィルス性の肺炎であることが判った。

 私はここで過度に感傷的になろうとは思わないが、自分の子どもがひどい病気にかかっているのを見るのはとても辛いものがある。ブレンナはまず弱々しく青ざめていた。彼女が縮こまって毛布にくるまり、顔だけを出してTVの方を見ているが、目がどんよりしてか細く「おはよう」とつぶやく様を見ると…そんな姿を見て胸が潰れるような気持ちにならないではいられなかった。

 
 肺炎という診断が出てからの二日間、私は四六時中騒ぎ立てていたわけではなかった。医者はとくに心配していたように見えなかったし、概していつもと変わらない生活だった--過度の心配(重要だとはいえ、「物語り」のために苦しんでいる家族を置き去りにすることに対する罪悪感は言うまでもなく)がいつも心に居座っていたが、いつもの日々と大層変わったことはなかった。しかし、翌日の夜、妻と私は、夜10時のニュースを見ていて、ボストン(我が家から車で1時間もかからない)の10歳の女の子が突然死んだということを知った。その子はインフルエンザのような症状があり、前日に病院に運ばれていたのだが--そこでは通常の症状から外れたものは検知されなかった--彼女の若い体が蝕まれ破壊されるスピードを考えると不可思議としか言いようがないのだが、死んでしまった。ニュースキャスターが彼女を運命のおさらいをしている中、彼女の美しい笑顔がTVスクリーン上の小さなボックスに映し出された。それは、多分、学校の集合写真の一つで、みんな日曜日用の洋服にクリップ留めネクタイをしていた・・・


 彼女がかかったのはとても強力なバクテリア性の肺炎であることは明らかだった。他の生徒の体からはほとんど問題は検出されないでしょうと、TVに出演した医師は説明した。また、こうしたことが起こるのは極めてまれです、とも。時にあるこういう悲劇は、ただただ運が悪かったとしか言えないことなのです、とその医師は続けて述べた。受容力のある身体が恐ろしいバクテリアと出会い、ほんの一日前は元気だったのに、約数時間で、少女が死んだ。しかしこれは極めて、極めてまれなのです、とその医師は繰り返した。そして、それはウィルス性ではなく、バクテリア性であることも繰り返した。



 テキサスのラボックの乾燥した平原に向けて旅立つ前日に見るニュースとしては好ましいものではなかった。ブレンナがかかったのはウィルス性であってバクテリア性ではないという医師の見立てはどれほど正確なものだったのか? ブレンナは、言葉では言えないほどの敵意を持った細菌に対してあまりに易々と宿主となってしまうような非常にまれな身体の持ち主でないと、どうして私たちは知ったのか--そもそも、そんなことを私たちは知っていたのか? 等々の疑問が頭をかけめぐった。


 翌日、彼女は少し良くなったように見えた(あるいはそう私は自分に言い聞かせた)。少なくとも悪化したようには見えなかった。実際、前日ほど神経をすり減らような朝ではなかったし、実際以上に劇的にしようなどとはさらさら思わない。しかし、妻とブレンナが玄関のところに立ち、多分私の方を見ている姿を見たわずかな時間の間に、事態は変わった。多分と書いたのは、妻とブレンナが、リムジン型のヴァンのツヤ消しガラスの背後にいる私を見ることができたかどうか私には判らなかったからである。私が手を振っても、手を振り返してくれなかった。妻とブレンナは、ひとりは背が高く血色が良い顔をして、もう一人は背が低く青白い顔をしながら、そこに立っていたが、直に視野から消え去った。

 
 私の心の目に刻み込まれた、あの朝の、あの画像の意味は何なのだろう? 実は、私はそれを知らなかった。知ることはできなかった--つまり、さらなる経験がやってきて、それに一定の意味を与えるまでは、知ることはできなかった。これは、フィリップ・レヴィンが言ったように、一種の原ナラティヴ(protonarrative)、いまだストーリーという形をとっていないストーリー(a not-yet story)、語られることを待っているストーリーなのであった。私が出発したとき、万事は未決の状態で、私としては、私が最終的に語るストーリーがハッピー・エンドになってくれることを願うばかりであった--それでは刺激的ではなくなってしまうだろうけど。そのストーリーがどうなるかは、未来にかかっていたし、それからの数日間に起こるかもしれないことにかかっていた。

 
ガブリエル・マルセルは次のように書いた。

 「私たちが実に簡単な物語り、例えば、自分のちょっとした旅行についての物語りを友人に語るとき、何が起こるか考えてみよう。旅行の物語りとは、その旅行をはじめから終りまで体験した人によって語られるわけだが、その人は、その旅行の最中に得られたかつての経験を、それ以降の経験によって色づけられたものとして見ざるをえない。なぜなら、その旅行が結局どのようなものだったかの最終的印象が、その旅がこれからどうなっていくのかの最初の印象の記憶に影響を及ぼさざるをえないからである。しかし、私たちが実際に旅行をしている最中や旅行し始めたばかりの時、こうした最初の印象は、まだ起こってはいないあらゆることに対する不安に満ちた期待によって、コンパスの針のように小刻みに震えるものとして捉えられているからである。


 マルセルは、現在なるもの-現在の経験-は完全に不確定であるとか無意味であるとか言っているわけではないし、私もそう言いたいわけではない。そんなことはないからである。彼がここで言っていることは、現在は、その意味や意義が見きわめられるには、未来を待たなければならないということである。あるいは別の言い方をすれば、経験の意味や意義は、回顧的に、つまりその経験が進行する物語りにおける一つのエピソードとしての位置を占めるときに、現れたり形を変えて現れることがしばしばあるのである。

 
 時として、われわれの記憶が、われわれを過去のようなものに、過去と感じられるものに、つまり、かつて現在としてあった過去に連れ戻すことがあるが、これこそ追体験(reliving)というものである。しかしながら、それよりも、ある出来事のみならず、自分自身の過去の意味ある期間-いわば、ある章を-を理解しようと試みるときは、かつてあったものを、まだ未決で意味も定まっていない状態のまま「捉え直す」ことを試みているわけではない。むしろ、わたしたちは現在の観点から過去を解釈しているのであり、過去が現在のこの瞬間にどう貢献しているのかを定めようとしているのである。このような規定は、現在のこの瞬間がこない内は、なされることがないであろう。


 このことは、わたしたちが過去を正確に取り戻すことがないという事実のために、過去を歪めたり偽造している、あるいは過去に対してそこに属していないような意味を押しつけているということを意味するのだろうか?  いや、必ずしもそうとは言えない。わたしたちがしていることは、思い出し物語ることであるが、それが意味するのは、過去の経験を、それ以降に生じたことに合わせて、そしてそれとの関係において、物語る行為がなされる今という時点から再三理解されたものとして位置づける-書き換える-ことなのである。デイヴィッド・カーが簡潔に述べたように、「物語りは物語るという行為を要求する・・・物語りの語り手の立場にとって本質的なのは、事後的に判断できるという利点であり、・・・物語られる出来事以降の立場だったり、それを超えた上の立場だったり、その外側の立場だったりを占めることによって確保される現在という制約からの自由なのである」。



 さて、「現実」なるものが直接的に与えられる経験に等値される限り、自伝的回想は現実の「歪曲」として、偽造として見なされるしかない。しかも、真理がこの現実を模倣するものであると理解されるならば、今度は、自伝的回想が虚構と見なされるしかなくなる。最後に、現実も真理も直線的時間によって、あるいは時計の時間--これが起こり、これが起こり、これが起こり、われわれの経験はカチカチ音をたてながら順次進んでいくだけである--によって述語づけられるならば、やはりまたしても、自伝的な試みはすべて、ガザニーガが述べたように「絶望的なまでに創作的」であるという身分に運命づけられている。あの一瞬一瞬カチカチ音を立てながら進む時間に戻って、それがかつて現実にあったように語る可能性はないのだから、自伝-拡大して言えば、自己を反省するプロセスそのもの-は幻想にしか行き着かないだろう。進化論的な言い方をすれば、わたしたちは生まれついての嘘つきであるようだ。またしても、自己意識の存在そのものに責任があることになる。この状況は奇妙としか言いようのないものだ。

 しかし、ある種の混同が働いているのである。物語性(narrativity)は、構成されたものであるがゆえに、虚構性(fictionality)にリンクされるのであり、構成されたもの、詩的なものは真ではないものになるのである。おまけに、解釈というプロセスそのものが、この観点から見れば、理解の手段としては疑わしいものになってしまうのである。


 私がしようと思っているのは、この観点を超えて思考することである。そしてそうするための鍵は、時計の時間(clock time)を超えて、物語りの時間(narrative time)のうちに真理の問題を再考するための突破口を見ることにある。










nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この記事のトラックバックURL: