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虚構を考え直す(2)  [探求]

真理の問題

 
 しばらくギア・チェンジして、いま挙げた論点をナラティヴと意識の問題にもう少し近づけてみよう。「私たちは、私たちの人生という虚構については実際知っているし、知りたいと思うべきなのだ」と、マイケル・J・ガザニーガ(Michael S. Gazzaniga)は『精神の過去(The Mind's Past)』で書いている。「だから私は、この本で、私たちの精神と脳が自分の過去を構成するという驚くべき偉業をどのようにして達成するのか、またそうするとき、いかに自我の幻想を創造するのかについて書いたのである」。「出来事の再構成は」と彼は続ける。


 「知覚に始まり、方々を経由して人間の推理に達する。精神は物事を知る一番最後のものなのだ。脳が出来事を算出したあとに、「わたしたち」という幻想(つまり、精神)がそれに気づくのである。脳、とくに左脳は、脳がすでに加工したデータを解釈するために作られている。左脳には特別なデバイスがあり、それを私はインタープリター(interpreter)と呼ぶのだが、それは莫大な数の自動的に起きる脳のプロセスが完了するやさらにもう一つの活動を実行する。脳の情報連鎖の最後をなすデバイスとしてのインタープリターは、脳内の出来事を再構成して、そうしながら、知覚や記憶や判断からはっきり誤りと判るものを作る。我々がいかに作られているかという問いに対する手がかりは、こうした諸機能を成し遂げる驚くべきほど堅固な能力にあるのみならず、再構成の際にしばしばなされるエラーにもあるのである。伝記は虚構である。自伝は絶望的なまでに創作的である」。


 インタープリターは「わたしたちの個人的ストーリーがバラバラにならないよう」にしている、とガザニーガは続けて説明する。「それをするために」と彼は主張するのだが「わたしたちは自分自身に対して嘘をつかなければならない」。

 ここで提示されている心理的機能の離人症的ヴァージョンと虚構化というテーゼ、それどころか嘘をついているというテーゼとの関連に注意しよう。それにまたパラドクスめいたものが働いていることにも注意しよう。つまりわたしたちを惑わして、「わたしたち」が、自我が現実のものであると想定するように仕向けているのは、わたしたちの意識そのものであり、自分の存在をわたしたちが自覚しそれを理解しようとわたしたちが試みていることそのものなのである。


 しかしながら、このことが問題なのではない。「確かに、人生は虚構である」とガザニーガは言う。「しかしそれはわたしたちの虚構なのであり、それは心地よく感じられ、わたしたちはそれに責任ををもつ。それは、自動的に脳が紡ぎ出すお話に聞き入るときにわたしたちが皆感じる感情である。わたしたちはゾンビのようには感じない。わたしたちは、責任ある意識的な存在のように感じる」。しかし実はそうではないのだ。「インタープリターが、絶えず、わたしたちの行動、感情、思考、夢などの途切れることのないナラティヴを設定しているのである。それは、わたしたちのストーリーを統一化し、全体的で理性的なエージェントであるという感覚を創り出す接着剤のようなものである。それは、個体の本能が詰まったバックに、自分は実際とは違う存在なのだという幻想を持ち込むのである」。

 
 この観点から見ると、換言すれば、意識をもつ自我としての「わたしたち」なるものは、自分の運命の少なくとも一部分に責任をもっているのは見かけだけで、虚構的であるばかりではない。わたしたちは、自分がそうであると思われるものとはまったく別のものなのだ。自己意識とは、かなり厄介なトリックとなり、人生に意味を求めることは、インタープリターの命により生ずるわけだが、ゲーム以上のものではなくなり、楽しめるが、現実とは何らの関係ももたないものとなるのである。


 ガザニーガの描く筋は、誰もが認めるように極端なものだ。しかし実のところ、彼が語る際の基本的・哲学的な立場は広く共有されている立場である。ここには、記憶の研究による「魂の世俗化」とイアン・ハッキングが呼んだ以上のことが起こっている。わたしたちがいま考察していることは、魂の内奥の言い分の全面的な暴露であり、究極的には、魂の解体なのである。


 ここで注意すべきことは、こうした問題のいくつかは、記憶の失敗や歪曲の意義等に関する現在の研究と多くの共通点を持っている、ということである。D.L.シャクター(D. L. Schachter)が述べた言葉を使うならば、「人間の記憶のアウトプットはインプットとはしばしば-時にはかなり著しく-異なっている。記憶の失敗がありうるのは、情報が時間の経過とともに忘れさられるからというだけではなく、情報が変えられ歪められるからなのである」。彼は急いで付け加えるのだが、このことは、記憶の中にはさほどの正確さが存在しないということを意味するわけではない。なぜなら、それはしばしば存在するからである。それにもかかわらず、シャクターにとって手近な大問題は「記憶が概して正確なのはどのような条件下で、歪曲が起こりやすいのはどのような条件下なのか」なのである。それゆえ、ここで導きの糸となる術語は、「正確さ」と「歪曲」、現実に対応する「真の」記憶と、現実を歪めてしまう「間違った」記憶なのである。ここで含意されていることは明らかだ。自伝的な回想は、それが無益に回復しようとする「過ぎ去った現在」のうちで、「現実にあった」ことから乖離してしまう限り、必然的に経験を偽造しなければならない、ということである。


 シャクターに公平を期して言えば、彼は『記憶を探して(Searching for Memory)』(1996)でこのスタンスを疑問視しているように見える。とりわけデイヴィド・ルービンの研究に依拠しながら、彼は、例えば次のように述べている。「自伝的記憶としてわたしたちが経験するものは、一生を構成する諸々のピリオド、一般的な出来事、具体的なエピソードなどの知識から構成されている。わたしたちがこれらの情報をすべてまとめるとき、わたしたちは自分の一生の物語を語りはじめるのである」。ここで働いているのは嘘や偽造というよりも、総合、歴史的意識に特有の俯瞰的な物の見方である。彼はまた次のようにも述べている。「記憶は真か偽かという二つの状態のうちの一つに存在しているわけではない」。しかし、それにもかかわらず、彼は急いで付け加えるのだ。「重要な仕事は、記憶が現実といかに、どのような仕方で対応しているのかを吟味することである」。では、シャクターによれば現実とは何か。それは、記憶が想いのままに進む前に、そのドッシリした直接性のすべてにおいて存在するもの、でしかありえない。私のここでの目的は、シャクターや、それをいうならガザニーガでもいいのだが、それらの人々を非難することではない。実は、現実と虚構、正確さと歪曲といった手頃な術語を使う限り、彼らの問題の立て方は、彼らなりに最善を尽くしていたのだ。しかし、これらの術語は、少なくともこれまで使われてきた限りのものとしては、再考される必要がある。すぐあとで私はそれを試みるつもりいる。


 いまは、この一連の問題を、関連する方向に進むことによって追求し続けてみたい。アーノルド・ルドウィック(Arnold Ludwig)は自著『自分がだれであるかをわたしたちはどのようにして知るのか(How Do We Know Who We Are? (1997)』の中で次のように述べていた。
  

 「重要な、幼年期の経験を暴露することで成り立つ洞察重視のサイコセラピーの重大な問題の一つは、調査がどれほど徹底していようと、また治療がどれほど長期にわたっていようと、あなたの記憶や想像や夢についての通常の解明を通して歴史的真理を達成するのは不可能とは言わないまでも、困難であるということである。そうである理由は多数ある。一つには、あなたの記憶や知覚はあなたの偏向を支持するように仕向けられているからである。あなたは取捨選択してある種の情報を思い出したり抑止したりするだろうし、あなたの経験の多くは記述不可能であるか、言葉に翻訳するのは困難である。あなたの記憶は、あなたを受け持っているセラピストの理論的立場によって形作られがちだ。それを打ち消すような経験を、あなたは説明に含めないようになりがちだ・・・これらの理由から、あなたが歴史的真理として見なすようになるものが実際に表わしているのは、もっともらしさなのである。このもっともらしさに含まれているのは、あなたの説明がどれほどうまく自分の経験に関係する要素をすべて包括しているか、そしてそれがどれほど首尾一貫しているかということである。


 気づいていただきたいのだが、ここでルドウィックが述べている基本的な状況は、ガザニーガやシャクターを通してわたしたちが考察した状況と異なっているわけではないのである。ルドウィックにとって、歴史的真理とは、わたしたちの偏向、わたしたちの取捨選択と防衛の諸行為に先立って存在するものである。さらにそれは、「前解釈的な」レベルにあり、言語と理論化に先立ち、したがって十全な仕方で捉えたり包含するのが困難であり、不可能ですらあるのだ。ドナルド・P・スペンス(Donald P. Spence)が数年前精神分析と歴史的真理を求めようとする精神分析の誤った(とされる)主張に関して述べたことに似て、もうそんなものは捨てて、「もっともらしさ」とルドウィックが呼ぶもの(それは、基本的には、スペンスの物語的真理の考え方のルドウィックなりの捉え方なのである)でやっていくしか選択肢はないと、ルドウィックはわたしたちに語る。実際、はっきりとスペンスに依拠しながら、ルドウィックは続けて次のように述べるのだ。

 
 「サイコセラピーを通して、患者は、真実だが記述し難いもの-つまり、純粋な記憶-と、記述はできるが部分的に真実ではないもの-つまり、隠蔽記憶-との間の葛藤を処理する。選ばれた言葉はイメージを損なって伝えるかもしれないし、翻訳は、それがどれほど優秀であれ、オリジナルにとって代わってしまうのだから、元来の記憶を翻訳しようとする試みは、それを破壊してしまうのである」。


  しかし、このことは嘆き悲しむべきことではない。

  
 「過去の再構成がまったく想像的なものであるときでも、もし患者が、それによって、自分の個人的な諸々の物語のうちに関連性と意義を見出し自分の混沌とした経験を了解するのであれば、それは真理という資格を得たのである。そしてそれは、分析家のような権威ある人物がその物語に承認の印を与えるとき、晴れて真なるものとなり、時には実際の歴史的真理よりも現実的なものとなるのである」。


 
 ここでの問題は、スペンスの研究を特徴づけている問題とまさに同じである。歴史的真理と物語的真理との間に分岐、分裂があり、以前私が言及したあの依存関係がある。つまり、物語的真理は虚構的なものの領域であり、歴史的真理は現実的なものの領域で、分析家が何をどれだけ言おうが指一本も触れられない領域である。スペンスが実際言っているように、後者の領域に到達できれば素晴らしいだろうが、そんなことはできないのだから、われわれとしては、それが劣ったものであるとしても、前者の方で我慢しなければならない。それゆえ、望みうるせいぜいのことは、結果として出てくる物語が、歴史的には虚偽であるのは避けがたいものであるにしても、問題となる人物が頑張って続けていける手助けとなることだけなのである。
 」









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