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虚構を考え直す(1) [探求]

  何回かに分けて、マーク・フリーマン(Mark Freeman)の論文『虚構を考え直し、現実を取り戻す:自伝、物語の時間、真理の重さ(Rethinking the fictive,Reclaiming the Real:Autobiography, Narrative Time,and the Burden of Truth)』の翻訳をアップしていく。





 「 虚構を考え直し、現実を取り戻す:自伝、物語の時間、真理の重さ

                              マーク・フリーマン

     虚構と現実


     私はこの試論を、自伝的な物語に適用されるものとしての虚構と現実の関係についてのかなり強い主張で始めることにしたい。最初の主張は、虚構の概念が、人生の物語の形成に入り込むプロセスを指し示すために使われるとき、 あまりにも狭い-そして疑わしい-現実についての考え方に依拠していることが極めて多く、その結果として、虚構が一段低いものと扱われてしまう(下の身分なるものがあるとしての話だが)ということである。

    第二の主張は、この虚構の概念が依拠している現実の捉え方は少なくとも二つの根本的な理由によって疑わしい、ということである。一つ目の理由は、そうした捉え方が、加工されていない自然そのものと見なされているもの、解釈も構成も欠いているもの、いわゆる「本物(real stiff)」と同等視されているということにある。二つ目の、もっと複雑な理由は、その捉え方が、人間の世界というよりも、ものの世界に相応しい時間の考え方-根本的に言って、時計の時間、線と瞬間と系列からなる時間-に結びついているということである。もう少し単純に言えば、自伝が虚構という身分に追いやられる-単なる虚構、としばしば言われるように-時に通常浮上する現実の捉え方は、私たちの意向から自由だと想像されている現実、時間のなかでただ生起する一系列の事柄り、私たちが後になって振り返って、そこにある秩序を与えようとするとき偽造してしまうのは避けがたいようなもの、なのである。私は、こうした現実の捉え方を疑問視するつもりである。

    
     三つ目に考えられているのは次のようなものである。 虚構の概念を考えなおすことによって、 現実を取り戻す可能性が開けるばかりでなく-そのことで私が言いたいのは、現実というものにより十全でより包括的な広がりをもつ意味を回復させることなのだが-、人間の領域において真理が何を意味するかについてのより適切な解釈を設定する可能性がひらけてくるのである。


 
      自伝の危険


      「伝記を敵視している人々によれば、あらゆる伝記の致命的な欠陥は」とステファン・ミルハウザー(Stephen Millhauser)が小説『エドウィン・マルハウス』 ( Edwin Mulhouse (1983))で書いているが、「虚構の法則に無力なまま従っていることなのだ。一つ一つの日付、出来事、何気ない発言が、入り組んだ筋立てに貢献し、それらがゆっくりと巧妙に積み重なって予知されたクライマックス、主人公の祝福された行為に至るのだ。実はある者にとっては、自伝というジャンルはすべて「絶望的なまでに虚構的」と見なさざるをえない。「なぜなら、私たちにクエスチョン・マークや抹殺されたパッセージや空白の箇所やアスタリスクの列や省略されたパラグラフやドットが三つ続いてやがて真っ白になる無数のシーケンスを提供する現実とは違って、伝記は完全性の幻想を、全知全能の伝記作家によってディテールを組織して広大なパターンへと作り上げられたものを、提供するからである」。自叙伝の場合は、当然ながら、事情はもっとずっと疑わしい。なぜなら、ミルハウザーが語る全知全能で、全体を俯瞰する事後的な首尾一貫性があるだけでなく、それに加えて、ここでの精査の対象が自分自身であるという単純な事実に結びついた心的な負担があるからなのである。それゆえ、誤った首尾一貫性という問題に加えて、自分に都合の良い思考、防衛、幻想、妄想といった問題があり、そうしたものすべてが自分の物語に忍び込んでくるだろう。

 
   自叙伝の試みには、その他に考えられる多くの問題が含まれている。「徐々に」と、たとえばジョアンナ・フィールズ(Joanna Field)は『自分自身の人生( A Life of One's Own (1981))の中で書いている。「私は、もろもろの事実が」-つまり、彼女の自己説明がそこに基づいているところの事実のことだが-「誰もが拾い上げられるようにそこにある別々のものなのではなく、未知なるものの際限のない背景から浮かび上がる変化してやまないパターンであり、それに対する見方に応じて絶えず変化する広大な万華鏡のようなものであることを理解するようになった」。


  また、ある意味では相応しくないような意味を過去にあてがうという問題もある。「私はここで再構成しているのである」と、ミシェル・レリスは『成熟の年齢』で書いている。

 「私自身の回想によって、その後私がどうなったかの観察を加え、こうした後々の要素を、私の記憶が提供するもっと以前の要素と比べながら、私はここで再構成しているのである。こうした方法にはそれなりの危険が伴う。なぜなら、私が、これらの回想が決して持っていなかった意味をその回想に帰して、それらが指し示す現実の出来事が全く欠いていた情緒的な価値をそれらの回想に事後的に負わせていないかどうか--要するに、この過去を誤解を与えるような仕方で蘇生させていないかどうか、誰にも判らないからだ」。


 いつもは虚構を書く自伝作家に関しては、この手の問題はずっと大きなものとして現れる。例えば、フィリップ・ロスは、「十分劇的でないものを不実にも劇的なものとしたり、本当は単純なものを複雑化したり、さほど意味のないものに意味を負わせたりする衝動--事実が私が想像するものよりも感動的でないときは、事実を捨て去る誘惑に抵抗する」必要性について書いている。同様に、メアリー・マッカーサーは、『あるカトリックの少女時代の回想』(1963)のなかで、実際になかったことを書こうとする誘惑がとても強かった、記憶がぼんやりしていて、ある出来事の実質は思い出せるのに、ディテイル-ドレスの色、カーペットの模様、絵の置き場所など-が思い出せないときは、特に強かった」。事実、彼女は正直に述べている。「ここには半ば虚構的なタッチがある…私は、実際の出来事を、そこから面白い物語を作れるように、アレンジしたのだ。フィクションを書く習慣がある人ならば、この誘惑をのり越えるのは難しい。ほとんど自動的にやってしまうのである」。


  自叙伝を書く際にはまた別の問題が働いている。自分の物語の部分部分が他者に由来する聞き伝えでできているという事実。自伝を書く者がその時々に支配的な文学的なしきたりを使用せざるを得ないという事実。こうしたしきたりが、ジェローム・ブルーナーが述べたように、その時々に支配的な文化的なシナリオや、民衆心理学的な規範(自分の人生を理解しようとするときにそれらを私たちは利用するのだが)から切り離しがたいという事実。それから、当然ながら、各人の人生にかかわる意味深い問題があって、それが加えられる必要がある。たぶん、自伝的物語とは、結局のところ、私たちが分裂していて不均質であることに対する防御反応であり、自分の無目的性に対する、自分の人生には意味など全くないという事実に対する気休めなのである。等々、等々。


 ヘイゼル・バーンズ(Hazel Barnes)は今挙げた問題の多くを自著『私が自分に語る物語』(The Story I Tell Myself (1997))で見事に要約している。


 「自分の人生について書くという私の努力は、自伝とはどの程度まで必然的に小説なのかについての理論的意識を痛いほど確証してくれた。言葉は明らかにするときでも歪曲する、ということだけではないし、経験されたものは語られたものと同じであることは決してないということだけでもない。誠実さの問題、記憶の信頼性、他者の感情に対する配慮は、私が想像していたよりもはるかに複雑なものであった。文脈が別だったら全く文学的なことで済んだ取捨選択の問題がより一層切実な問題となった。自我を形成するときにとても重要なものとしてこれらの要因を選別することは、自我をそうして提示されたものとして形どることである。私が主張できるせいぜいのことは、ここで描かれた虚構の登場人物は、少なくとも私の目には、私が反省的な目に見えたものの真の反映であるということであり、このことを私は断言する」。


 バーンズにとって、このプロセス全体は「痛み」を伴うものであったが、それでも相変わらず「真の反映」ということが語られている。自分自身について書くというプロセスの本質である避けがたい虚構化の只中でも、なぜか、ある種の真理に到達できる可能性は依然として存在していると彼女は言いたいようである。しかし、この可能性こそ、現代の理論家の多くが拒否したものなのである。 」
    





    
     
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