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眺望をめぐる日暮里の戦い [海外メディア記事]

 日暮里という場所は、いろいろな意味で歴史を感じさせてくれる場所ですね。私も自転車やバスで何度も行ったことがありますが、 一瞬、 「ここは日本?」 と思ってしまう所もあってとてもエキサイティングな場所です。しかし、戦災を免れたため古い家並みが残っていて雑誌などでも取り上げられる風情のある一帯は、「谷根千」とは呼ばれることはあっても、たぶんほとんど「日暮里」とは呼ばれないのではないでしょうか? 可哀想な「日暮里」・・・。吉本隆明が愛した場所だったけれど・・・ しかし、嬉しいことに、この度『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長マーチン・ファクラー氏が取り上げてくれました。

  台東区在住の私にとっては隣の区の出来事なのに、遺憾ながら富士山の眺望については知りませんでした。こんなささいなこと、どうでもいいじゃないかと思う人もいるでしょうね。しかし、こういうささいなことが積もり積もって、およそ歴史の面影のまったくない今の平板な東京ができあがったのです。たとえば、浅草に由緒あるものを求めて多くの外国の人がやってくるわけですが、彼らが目にするのは何でしょう? コンクリートとアスファルト以外何が目に入るか?  (まあ、そこには戦災という別の大きな理由があるわけですが)。 東京都も観光に力を入れ始めたのだから、古いものの保存にはもっと熱心になるべきではないでしょうか?  「日暮里富士見坂を守る会」には諦めずに頑張ってほしいと思います。その会のHP(http://fujimizaka.yanesen.org/)を見ると、富士見坂の現状がよくわかります。
 
  ちなみに、下の写真に富士山のシルエットが見えますが、まるで時代の推移とともに消え去りつつあるかのような寂寥感を感じさせます。それとともに、日没の風景が昔から変わることのない日の暮れる「日暮里」の姿を伝えていて、趣のある写真だなと思いました。




Taking On Skyscrapers to Protect View of an ‘Old Friend’

By MARTIN FACKLER Published: October 11, 2009

http://www.nytimes.com/2009/10/12/world/asia/12fuji.html?partner=rssnyt&emc=rss

12fuji.xlarge1.jpg







  「古くからの友人」の眺望を守るための高層ビルとの戦い  




  戦前の東京で育ったカネコ・マコトの思い出の中では、完璧な形をした、雪を山頂にいただく富士山は、いつも一緒にいてくれる友人のようだった。富士山は、高台にあって労働者しか住んでいない界隈の狭い通りから地平線上に見えた。親しみをこめて富士見坂(「富士山が眺められる坂」)と呼ばれた険しい坂道からは、もっとも威厳のある姿を見ることができた。


 今日、カネコ氏の80年目を迎えた手狭な店(醤油で調理した食べ物を売っている店)は、この地にひっそり佇む古い木造の商店や仏閣の中の一軒なのだが、コンクリートばかりが広がる東京にあって、日暮里界隈を古めかしい魅力に満ちた得がたいオアシスのようにしている。だが、遠くに見える活火山、日本の最高峰にして並ぶもののないこの日本のシンボルの眺望は、超高層ビルやスモッグによってますます遮られるようになってしまった。


 カネコ氏によると、彼や他の住民は富士見坂からの眺望が楽しめるし、富士見坂は観光客にもちょっとした人気スポットになっていたので、そんなことは気にならなかったという。ところが、10年前のある日、住民は富士山の眺望を部分的に遮ってしまう14階建てのマンションが1マイル離れたところに建設される計画が持ちあがったことを聞かされたのだ。


 「不信のために頭の中は真っ白になりましたよ」とカネコ氏(83歳)は言う。「その時になって、何が失われつつあるのかが判ったのです」。


 ある大学教授の助けを借りて、日暮里界隈の(その大半が高齢である)住民たちは「日暮里富士見坂を守る会」を結成し、カネコ氏がそのリーダーに就いた。そのグループはデベロッパー、地権者、区議会と交渉を開始したが、彼らの努力は保存にかかわるある問題にぶち当たった。つまり、ある建物や公園を守るというのなら一理あるだろうが、どうして眺望を保護できるのか? という問題である。 富士見坂からの眺めを救うには、住宅が密集している界隈で縦3マイル、横は最大で1000フィートまでの細長い扇型の回廊地の中にあるビルの高さを制限することが必要となる。これまで、この会は都の役人やデベロッパーからの頑(かたく)なな抵抗に見舞われてきた。東京の不動産が戦後の塵灰からすぐに立ち直れたのは、部分的には、建築に制限がないためであった。


 「東京都のアプローチは、まず建ててしまって、景観や保存についての心配は後回し、というものでした」。そう語るのは、富士見坂の会の結成に尽力した早稲田大学の都市計画の教授チバ・カズテル。「こうした姿勢は、富士山のようなわが国の象徴となるものが問題であっても、変わりませんね」。


 しかし、この界隈の運動は、東京でも徐々にではあるが支援を得るようになった。東京に残された名所を保存しようという、まだわずかだが次第に大きくなりつつある掛け声のおかげであった。日暮里界隈は歌川広重から恩恵を得た。広重は、19世紀の最も有名な日本の芸術家の一人だが、日暮里からの眺めを木版画で描いていたからである(原文では、この箇所をクリックすると、広重の『富士三十六景』が観賞できるようになっている――訳者註)。

 
 地元のメディアによる報道は、東京都心には富士見坂という名前の坂が16もあるが、日暮里の富士見坂は富士山がまだ見える最後の坂として際立っていることを強調した。この坂の名前は、最近の地番に基づく町名システム以前の街路表示のあり方として、中世にまで遡るものだという。坂の名前の歴史を記録に残そうとしている民間の団体の日本坂学会(the Slope Society of Japan)のリーダーであるイデ・ノリコによると、富士見坂は最も頻繁に使われた名前であったが、このことは日本固有の神道においてこの山が聖なる地であったことを反映しているとのこと。


  「こうした坂の一つが残っているのは奇跡です。だから貴重な文化遺産なのです」とイデ氏は言った。


 この坂は、また、日暮里という土地に伝わる言い伝えにもその際立った姿を見せる。第二次世界大戦の終わりごろ、ある土地の女性が、坂の上に立っていると富士山のすぐ右側に閃光とおかしな形の雲が見えたと言い張った――それは、まさに最初の原爆が広島に落とされた時刻だった、と地元の獣医のノザワ・ノブユキが語ってくれた。


 彼は「富士山はわたし達を守ってくれる古い友人みたいなものです」と言った。


 保存運動を行っている別の人々は、眺望を守ることは他の場所での先例がないわけではないと指摘する。


 ブリティッシュ・コロンビア州のヴァンクーヴァーは、1980年代の終わりに、街を取り囲む山々がよく見える道(view corridors)を交差点や公園の計画から守る条例を制定した先駆的な都市だった。アメリカの沿岸地域の共同体では、海の眺めを阻むような背の高いビルを制限しているところもある。


 二年前、東京は、国会や赤レンガの東京駅を含む四つの傑出した歴史的建造物の周囲の景観を守る計画を発表して、その方向に第一歩を踏み出した。しかし、都の当局者は、自分たちには私有財産権を制限する権限はわずかしかありません、と言う。多くの場合、当局者は地権者に対して、ビルの高さを自発的に低くしてくれるようにお願いするしかないのだという。


 富士見坂の会と区の関係者が14階建てのマンションのデベロッパ―と協議を開始したとき、彼らはデべロッパーの協力を求めることしかできなかった。そのデベロッパーは、今は鉄鋼メーカーのJFEホールディングスとなっている会社の不動産部門なのだが、1,600万ドルのビルから上の5つの階を削減する見返りとして1,200万ドルを要求した。


 そのような金額は会が到底払えるものではなかったので、デベロッパーは工事を続け2000年にビルは完成した。そのビルは、今、富士見坂から見える富士山の左側3分の1を覆い隠している。


 (行政の)管轄も問題だった。坂のある荒川区は眺望の保存に熱心だったが、14階建てのビルが建てられた文京区は、開発の見直しによって税収を失うことを恐れたのである。


 都庁の役人によれば、彼らが割って入ることはできたが、ただしそれは、坂の眺望を守れという都民の熱意があると彼らが感じられる場合に限られる、とのこと。


 「たった一つの地点から見たときの眺めを守れなどという主張は聞いたことがありません」。文京区役所の都市計画課課長のタナカ・マサフミはそう言う。「なんといっても、所有権は無視できませんからね」。


 チバ教授によると、14階建てのビルの建設をストップできなかったことで住民たちは意気阻喪してしまい、富士見坂の会も解体寸前だった。「そこで気がついたのです、まだ3分の2の眺めが残っているじゃないかと。それで決めたんです。その3分の2を守ろうじゃないかってね」と彼は振り返った。


 富士見坂の会は、残りの眺めを隠してしまうようなビルが建てられそうになるとその地権者に接触することで、一般の人々の意識の高まりを喚起しようとした。彼らはまた、一年に二度、太陽が富士山の左右対称の円錐の頂上に沈むときの「ダイヤモンド富士」と呼ばれるイベントを組織し始めた。前回のダイヤモンド富士が一月にあったときは、300人も集まりました、とカネコ氏は言った。


 しかし、ほとんどの住民と同様、カネコ氏も決して楽観的ではない。


 「富士山の見えない日暮里なんて想像もできません」とカネコ氏は言った。「でも、別のビルが現われて残された眺望を遮(さえぎ)ってしまうのは時間の問題かもしれません」。
  
 



」(おわり)






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