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妄想---生き延びる戦略 [探求]

妄想-生き延びる戦略

The brain's capacity to form delusions as an evolutionary strategy for survival.

Edward M. Hundert


in Phenomenology,Language & Schizophrenia


 上記の論文のほぼ4/5にあたる部分の翻訳を以下に掲げる。
 



 あるケース・スタディ:ティモシーG.
  

  私がティモシーG.と呼ぶことにする患者は、32歳、独身、白人、失業中の男性で、その精神病的症状は、ほぼ20歳のときに始まった。その頃まで、彼は成績もよく、彼の高校の通知表は、彼のことを、皆から好かれ、遊び好きな人間と記述している。しかし大学二年のとき、彼の社会生活は悪化し始め、次第に孤立しうつ状態になった。彼には顕著な不眠傾向とパラノイアがあり、地元の幾人かの女性にセクハラ行為を行ったために、最初の入院ということになった。
 

  20歳から22歳の間に、この患者は、ほとんど死んでもおかしくなかったような自殺の試みに続いて、重い鬱の治療のために何度も短期間の入院をした。この自殺の試みには、ナイフで自分の腹を突き刺す(肝臓に障害をもたらした)、ガソリンで焼身自殺を図る、橋から凍った川に飛び込む、手首を切る、睡眠薬の過剰摂取などがあったが、最後の過剰摂取では二日間意識が戻らなかった。最後の自殺の試みの頃に、彼は、自分が「聖霊を冒涜したことがあった」と感じ始めた。23歳の頃、ティムは、その後10年間にわたり強弱の違いはあれど常に存在し続けてきた妄想の体系を抱くようになった。その体系には、自分は、戦争犯罪の償いをするために生まれ変わったアドルフ・ヒトラーであるという信念も含まれていた。彼の言うところによると、自分はヒトラーの墓に5年間埋められていたが、それから多くの自殺の試みや入院の苦しみを味わうために地上に戻ってきたという。比較的病状が安定してるときでも、具体的ではない形ではあるにせよ、自分は今償いをしているのだということを主張し続けた。しかし、何らかのストレスがかかると、ヒトラーの生まれ変わりであるという彼の信念が、多くの詳細を伴って戻ってくるのであった。


  事態を複雑にしていたのは、この患者が12歳のときに多発性硬化症と診断されたことであった。 MRIは、彼の脳のあちこちに多様な白質病斑があることを示していた。彼は、ここ10年間、発病時に見せた神経学的症状が進行していないために、多発性硬化症の典型的な特徴のすべてを持っているとはいえなかった。彼が10歳のときひどい自転車事故を起こし意識を失ったことが、脳のスキャン画像で見られる損傷の原因であり、これが多発性硬化症のような症状を引き起こしているのではないか、という仮説を立てる者もいた。

  ティムの家族の病歴としては、母方の大おばとおじが鬱病を何度も発症したということが目につく位であった。彼は、今更正施設にいて、パラノイアの症状や鬱が深刻になったときだけ、再入院するという暮らしをしている。彼は、約10年間、自傷の試みをしていない。



 臨床的パースペクティヴと進化的パースペクティヴ


 ティムは、それと判る脳の病理と非常に古典的な妄想体系を持っているがゆえに、われわれの議論にとって興味深いケースを提示している。妄想は、患者が自分のことを悪である、罪深い、あるいは何らかの点で世界や周囲の人々を汚していると考える場合には、こういう形式をとるのである。MRIの画像でくっきりと現れる脳の病理的現象が、自分はヒトラーの生まれ変わりであるというティムの固定的な信念の直接の原因であると想定することは魅力的なことである。

 しかし、彼の病気の経過は別の物語を語っている。その物語とは、たぶん彼の脳神経の状態のために、たぶん遺伝的抑うつ的混乱のために、またはたぶん何か別の未知の理由のために、患者が20代の初期に自殺をするほどの欝状態に陥り、そして、彼が知っているような「現実」が彼にたった一つの選択肢、つまり自殺という選択肢しか残さなかった、という物語である。無意味な苦痛による孤立化が、ティムをあれほど印象に残るほど執拗に自分の命を奪おうとする試みに駆り立てたのであり、ティムが今日生き延びていることはほとんど奇跡に近いものがある。


  しかし,彼の生に意味が与え返されたのである。この意味は彼の妄想から生じたのだが、それは、多くの精神病の患者と同様、彼の症状の全体が、彼の継続的生存を組織的に支えたからである。彼の生を終わらせることは、ナチスのホロコーストの犯人に裁きを下すという世界の希望を終わらせることであるだろう。彼の脳がこのことを理解してからというもの、彼の継続的な生存が危機に瀕するようなことはなくなったのである。

  ティムを精神病の患者と呼ぶことで、私は、妄想を精神病という一般的なレッテルのもとに含めているわけだが、これは若干の説明を要する。メルジェスは通常の定義を要約して次のように述べている。「精神病という術語は、欠陥のある現実検討能力を指し示す。簡単に言って、欠陥のある現実検討能力とは、現実的なものを非現実的なものから区別することが困難である、ということを意味する」。ティムの妄想が精神病的なのは、彼が現実的にはヒトラーの生まれ変わりではなく、従って彼が現実的なものを非現実的なものから区別することができないとわれわれが考えるからである。


  しかし、われわれがここで考察していることは、「現実的なもの」との継続的接触は、ティムの生命の終わりをもたらしただろうという可能性である。われわれは次のことを考えてみるべきなのかもしれない。妄想を生み出したのは、MRIの画像に映った損傷を受けた部分なのか、それとも、脳のもっと健康な部分が彼を助けにやってきて、彼に生命を終わらせない理由を与えることによって、彼を生き続けさせているのではないか。


 妄想とは、人間の経験の別の部分が崩壊したことに直面した脳がそれを代替したりそれを修復する努力なのだという考え方は、50年以上前に、ミンコフスキーによって周知のものとなった考え方である。彼の有名な患者は、自分は次の日に処刑される予定であるという固定した妄想を持っていた。この患者の経験と折り合いをつける努力の後で、ミンコフスキーは次のように結論づけた。
 「…妄想は想像力の産物ではまったくない。それは、人の生命の一部である現象に接木されるものであり、生命を総合している部分が弱体化し始めるときに、活動し始める。処刑という観念は、精神の正常な部分が、いま崩れかけようとしている建物の色々な箇所の間に論理的なつながりを打ちたてようとする試みなのである」。


 …進化的パースペクティヴから見ると、なぜ脳が死より妄想を優先するかは明らかであるはずだ。個人の心的な経験は、それが適応性のない行動を生み出したり、生殖に必要な肉体的特長の変化を生み出さない限り、結局、自然淘汰のかかわる事柄ではない。マーハーが言うように、「自然淘汰は肉体の構造と行動に作用するのであって、思考そのものに作用するわけではない」。脳が進化したのは、他でもない生存(サバイバル)のためであった。「現実の」世界が個人に、自殺(または殺人)以外の選択肢を残さないとき、われわれは、当然ながら、健康的な脳がその現実の世界を手放すことを期待するだろう。セムラードがかつて言ったように、「精神病とは…生命を維持するために現実を犠牲にすることである」。「妄想」は脳のより健全な部分(ティムの脳のMRIの画像に映らなかった部分)の代償的努力なのであるという点を見逃して、善意の治療者が患者に、自分の過去のためにいま処罰されているなどということは正しくありませんと言って、患者から、彼らの脳が創造した意味を奪ってしまうとき、われわれは多くの自殺を促しているのではないだろうか。



 ところで一体、誰の現実のことか?


 上でメルジェスがしたように、「現実的なもの」と「非現実的なもの」を区別する能力の欠如という観点から、単純に、精神病を定義することにまつわる周知の問題は、何を「現実的」と見なすかという点についての意見の一致(consensus)がまったくないことである。確かに、生まれ変わりに対するティムの信念を額面どおり受け取る文化は数多くあるだろうし、唯一の問題は、ティムが本当にヒトラーなのかどうか、であるかもしれない。われわれが、妄想を形成する脳の能力を、生存のための進化的戦略としてみなしたとき、われわれが留意しなければならないのは、進化を通して生存し続けるのは、個体のみならず、種であるということである。「適応」性をもつものとは、集団としての全体にとって適応性をもつものなのである。このことは、何を「現実的」とみなすかという問題についてのいかなる見解にとっても大きな意味合いをもっているのである。
 

 われわれが妄想を形成する脳の能力を進化論的戦略として理解できるのは、個体というよりも種という文脈内でのことなので、単一の「真理」が存在するかどうかという哲学的な難問に立ち入る必要はないのである。ミラーが「哲学者は狂気をどう扱えばいいか知らなかった」と書いたとき、まったく正しかったわけではないが、「ここに新しい方向性のための絶好の機会がある」という彼の結論はたしかに正しい。ストローソンは、『意味の限界』で、「客観的の別名は公共的である」と述べている。別の哲学者、カントは、次のように書いたとき、妄想をまさにこのような仕方で理解している。つまり「狂気の唯一の一般的特徴は、万人に共通する観念に対する感覚(sensus communis)の欠如であり、その共通感覚が、自分ひとりに特有の感覚(sensus privatus =私的感覚)によって置き換えられてしまったことなのである」。


 個人的なレベルではなく集団的レベルを問題にすることを難しくしているのは、人間の経験が、現実的であるか非現実的であるかの注目すべき可能性を示していることである。いずれも、人間の経験の「現実的な」部分であり、ティムが自分の経験について間違っていると示唆することはきわめて不適切であろう。現実との接触は、われわれ一人ひとりにとって、流動的なものであって、だからこそ、クラインは、多くの発達心理学の理論がそうしているように、現実検討の段階について語るのではなく、現実検討の「位置」について語るように促しているのである。ボクサーが前進して新たな位置を占めるが、攻撃されて元のもっと守備的な位置に戻るように、われわれは皆、自分の体系へのストレスに応じて、現実との接触の段階も、その時々で変わるのである。この能力が進化論的意味でいかに適応的であるかは容易に見て取れる。なぜなら、それがなければ、必要なときに元のもっと守備的な位置に戻ることができないボクサーと同じ運命を蒙ることになるだろうからである。
 

 別のパースペクティブから見れば、われわれのほとんどは、ほとんどの時間、「妄想」しているのではないかどうかと思案してみることは魅力的である。通常の気分が良いときのわれわれは、現実と最大限に接触している状態にはないのであって、それは、上司によい仕事をしていると思われいるとか、家族は自分のことを愛しているとか等々の思い込みで気持ちよくやって行けているからである。ティムが思い起こさせてくれるように、重い欝状態は、いっそう粗雑な現実の歪曲を生み出しうる。しかし、穏やかな欝状態が、自分が置かれた状態のポジティブな要素とネガティブな要素のいずれをも現実的に評価しているので、現実との接触を最大化するのかもしれない…


 個人個人で経験された現実に劇的なまでの違いがあることを経験的に研究してみればわかることだが、「現実的」ということに関して意見の一致は驚くべきほど欠如しているのである。ウィリアム・ジェームズは「現実的なもの(the real)」と「非現実的なもの(the unreal)」のいかなる区別をも放棄して、その代わりに、「さまざまな現実(the realities)」、つまり、「科学的現実」の世界や、彼が「部族の偶像」(共有された神話、幻想、想像)の世界からなる多様な世界について語らざるを得なかったのである。人類学者のカスタニェーダも、同様に、さまざまな文化の研究によって、現代の科学的精神の思考にとってまったく異質な異なった諸現実(separate realities)が存在しているということを認めざるを得なかった…。しかし、多様な現実の存在という観点から、精神病理学についてわれわれが知っていることのすべてを放棄する必要はない。われわれは、ただストローソンとともに、「客観的なもの」とは、何か単一の統一的な真理ではなく、公共的なものを指し示しているということを認識するだけでいい。「公共的なもの」とは、集団的な全体のことであり、つまり今の場合、その生存が、妄想を形成する脳の能力を含む進化的戦略によって維持される集団なのである。



 現実とサバイバルの政治


   私は、この議論を拡大して、現実とサバイバルの問題の政治的側面を考察することで、結論に導きたい。私は、これまで、個人にとっての妄想の適応的価値を強調してきたが、社会史を勉強してみれば、「皆の意見が一致している現実世界」とは違った現実なるものを知覚した者がいかにひどい代償を払わなければならなかったか、そうした例がどんな時代にも見られることはすぐ判ることである。部族や、共同体や、国家や文化が違えば世界観もひどく違ってくるわけだが、その中の大きな集団が、いつも、自分達とは違った仕方で現実を知覚する人々を非難、迫害、はては殺してきたのである。ガリレオからセーレムの魔女、今世紀ではソ連の反体制派の人々もそうだが、多数が一致してもっている見解を疑問視した人々によって提起された脅威は、文化を強固にしているのが共有された信念であるということを想起させてくれるものだ。火あぶりの刑にされたりシベリア送りにされる危険は、政治的世界にあって妄想を形成する脳の能力が、最終的には、サバイバルに結びつく価値をもつものだというわれわれの見解に対して、重大な問題を提起するものである。
 
  つまり、サバイバルが脳にとって至上命題であるならば、みすみす生命の危機をもたらすような考え方をあえて脳が生み出すということは、つじつまが合わないのではないか、と疑問にもつ人が出てくるかもしれないし、それは、たしかに、もっともな疑問である。

  
 『われわれは現実を必要としているか』という挑発的な論文で、カール・ロジャースは、いかに多くの現実をわれわれは同時に経験しているかを、想起させた。空を見上げれば、天空が私の周りを回っているのが目に入るし、私は、宇宙の運行の中心点であると同時に、そのちっぽけで無意味な一部にすぎない。私は、足元の大地の上にしっかりと立っていて、同時に、息もつかせぬほどのスピードで宇宙を進んでいる。私が握っているペンは、固体であると同時に、原子によって構成されているというよりも空間によって構成されている。こうしたことを考えてみるだけでも、「われわれはみな現実の世界が何であるかを知っている」という安心できる信念が嘘であることが判るのである。


 妄想を形成する脳の能力は、集団が生き延びるための戦略の一部として進化してきた。しかし、その集団としてのサバイバルは、もっと大きい適応的能力、つまり、共有された現実感にあまり依存しない世界で生きていくという能力に依存しているかもしれない。大量の人間が、社会的・文化的現実の本性について完全に意見の一致を見るという贅沢を味わうふりができたのは20世紀で一度しかなかった。これこそ、西欧文明をほとんど破壊したアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツによってもたらされた意見の一致であった。さまざまな現実の違いをよりいっそう受け入れることを通して一つの種として生き延びていくわれわれの集団的能力が、そのような諸現実との接触を生命を守るために喪失するという目的のために元来進化した脳の能力に依存しているとしたら、それは、運命の皮肉といえるかもしれない。


  集団が共有された信念のもとで生きるということが、生物の集団としては理想なのかもしれないが、その理想が現実になった稀な例、つまりナチスドイツの例は、理想とはかけ離れたものであった。そもそも、誰もが一致している現実なるものは疑わしい代物でしかない。進化の法則は集団単位で割り出される現象であるが、それ以前に、個体が、自分の所属している集団がどうであれ、生き延びる能力ということが、一番根本にある能力であるはずだ。つまり、集団全体が、ある特定の現実に突っ走っていても、その中の個人が、その現実を無視して、個人的な妄想を形成するという多様性がないと、逆に、集団も成り立たなくなってしまうのである。ここら辺で、脳の柔軟性というか、自分を取り巻いている環境がどれほど変化しようと、時にはそれに適合し、時には、それを真っ向から否定し自分の妄想世界を形成する(それが場合によっては、サバイバルにつながることだってある)、という脳の柔軟性、可塑性が充分感じられるのではないかと思われる。


 
 「ヒトラーの生まれ変わりだというティムの妄想にははっきりとした皮肉があって、それは、彼が、われわれは二つの危険な極端の間の細い道を歩いているのだ、ということを思い出させてくれるからである。第一の危険は、集団全体と違った仕方で現実を知覚する個人の迫害である。(もしティムの信念は変わらなくても、彼が女性にセクハラ行為をしたり自殺を試みたりしなかったならば、彼は入院させられて「精神病的」というレッテルを貼られずに済んだのでは、とわれわれは思うのである)。もう一つの危険は、われわれの脳の適応的能力が、同胞に対する配慮をしなくなる、それも、同胞がわれわれと同じであることに安心できるからという理由ではなしに、彼らがわれわれとは違うがゆえにわれわれは彼らを評価し尊重するという理由から、同胞に対する配慮をしなくなるならば、それは、われわれが知っているような文明に対する脅威になる、ということである」。

 違うから迫害するという危険と、みんな違って当然だから、他人に対しては無関心でいるのが一番と思う危険。


 「たぶん、ティムの言う「償い」は、われわれ人間の脳―様々な現実を、必要に迫られる範囲で、縦横無尽に移動する能力によって、生き延びるべく適応してきた脳―は、われわれに、共有された現実についての単純すぎる考え方をもはや必要としない新たな時代においてともに生きていくという能力を提供してくれるだろうという一筋の希望である。進化は驚くべき仕方で進む。だからこれからどうなるかは誰も判らない。妄想を形成する脳の進化した能力は、現代の世界においてもわれわれが集団としてもサバイバルすることを請け負ってくれる新たな戦略の基礎を提供することになるかもしれないのである」。








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