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自民党を殺した男(1) [海外メディア記事]

 今回の総選挙は、この記事にもあるとおり、もう先が見えたといっていいでしょうが、なぜこういう結果になったのかを小泉純一郎氏に焦点を当てて説明した『ニューズウィーク』誌の記事の前半部分をお伝えします。

  
By Takashi Yokota | NEWSWEEK Published Aug 15, 2009
From the magazine issue dated Aug 31, 2009

http://www.newsweek.com/id/212119?tid=relatedcl

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「 小泉は自民党でいかに振る舞ったか
 
 政権与党を殺した男はその党のスターだった
 
 政治に死亡記事があるとすれば、8月の終わりに東京では次のような死亡記事が出るかもしれない。「自民党――50年にわたりこの国を支配し、その驚異的な発展と最近の低迷への急落の中心にいた自民党――が、8月30日、政治的硬化症による合併症のために死亡した。享年53才だった」。

 

 日本の総選挙に先立って自民党に死亡宣告をすることは、少し性急に見えるかもしれない。しかし、聞き取り調査で与党が野党の民主党にほぼ9ポイントの差をつけられて負けている現状では、結果はほとんど見えたも同然であり、選挙運動そのものは、かつては尊大であった自民党にとって死の行進のようになってしまった。選挙期間が始まる前から、元防衛大臣小池百合子は自民党の苦境を第二次世界大戦のガダルカナル海戦で日本陸軍が直面した苦境になぞらえたが、その海戦では2万人以上の日本兵が自殺的な作戦の中で死んでいった。伝えられるところによると、麻生太郎首相は最近「品のある敗北」に言及したそうである。


 世間の注目を浴びる殺人事件のケースと同様、すでにこの敗北の原因を割り出そうと試みはじめた専門家もいる。これまでのところ、非難の大半は麻生に集中しているが、麻生は悪化させる要因の一つであるにすぎない。自分ならばフラフラしている党を立て直すことができるだろうという希望を抱いて去年9月に党首に就任したものの、優柔不断さと一連の失言によってなけなしの人気を使い果たしてしまった。今年7月に事態は非常に深刻になり、100人ほどの自民党国会議員が反旗をひるがえし、麻生に退陣をせまった。麻生は生き延びたが、こうした党首――麻生の二人の前任者も一年足らずでタオルを投げた――を生み出した党は生き延びることができないかもしれない。


 自民党体制の死は少し前から避けがたいものであったが、それには二つの理由がある。第一に、その核となる政治モデル――利益誘導型の政治――は、緩やかな経済成長と8兆ドルもの公的債務をもつ国ではもう持続可能ではなくなったからである。第二に、党が、その救世主と思われた元総理大臣小泉純一郎によって著しく弱体化させられたからである。小泉の改革は、そのときは人気を博し日本を益すると思われたのだが、二つの致命的になりかねない、意図せざる帰結をともなった。その二つの帰結とは、その改革が自民党の効果的な統治能力を損なったことであり、その支持母体を遠ざけてしまったことである。



 事態は常にこれほど困難だったわけではなかった。自民党の中核をなす戦略が固まったのは1970年代であったが、当時は、鋼のような総理大臣田中角栄が国のインフラを改造し、都市と農村部を結びつける広範囲にわたる新たな道路網と鉄道網を作り――それらのすべてによって日本の産業の発展が加速され、建設業のような主たる支持母体に利益が配分された。農村部の条件を改善しようとする田中の努力は、日本をより一層平等主義的にしようという受けのよい政治運動の一部であったし、そしてその運動はうまく行き、富を広げ自民党を強くした。それに続く数十年、田中の後継者や日本の官僚は、お気に入りの支持者には気前よく利益を与え続けることによって、このメカニズムを動かし続けたし、農業関係の圧力団体なども党の基盤を支える支柱の一つとなった。自民党のますます強力になっていく戦術の資金は、政府による輸出部門の育成と、内需を刺激する努力によって賄われていたが、それらが成長――と税収――を生み出し、自民党によって誘導される利益をかくも多大なものとしたのである。



 しかし良き時代は1990年代の初頭に破滅的な終わりを迎える。不動産バブルの崩壊が日本の「失われた10年」の始まりの引き金をひいたのである。不動産価格が下落するにつれ、内需はしぼみ、金融セクターは不良債権を抱え込むようになった。しかし自民党はこうした問題にまじめに取り組もうとはせず、利益誘導型の政治に多大な金をつぎ込んだので、低コストのライバル企業が日本の優位を脅かし始めたときでさえも、自民党は新たな輸出産業に投資することはしなかった。経済成長の鈍化という問題に真正面から取り組むかわりに、自民党は、未来の産業を創造するよりも、昔から同盟関係にあった建設業や農村部に金をつぎ込み続けた。その結果として、日本の政府は、1990年を通してGDPの平均年間成長率が2%以下に落ち込んだというのに、あり得ないほど値の張る意味のない道路や橋を作り続けた。不満を抱く有権者はこの党の暗い部分に気づき始めた――つまり自民党が利益集団には甘く、構造的に腐敗しているということに気づき始めた。1993年に自民党は、数十名の代議士が離党するに及び、短期的ではあったが政権の座を失った。


 状況がさらに悪化しても、自民党は昔からのやり方に強情なまでに固執した。1992年から2002年までに、自民党は18回も緊急経済対策を打ち出した。だがこれらの政策はすべて新味に欠け無駄な支出にあふれていた。自民党はまだ権力の座にしがみついていたが、しかしそれは、日本に自民党に替わるような真の政党がなかったからであるにすぎない―――自民党支配のほとんどの期間、それに対立する唯一の意味ある政党は社会党と共産党だったが、両党とも日本の保守的な多数派には魅力的ではなかった。内閣官房長官をつとめた梶山静六は、1996年に「自民党の存在理由は、腐敗は少なくとも共産主義よりはましだという点にある」と言ったと伝えられているが、彼は自民党の成功の秘訣をつかんでいたように思われる。


 その後2001年に、小泉純一郎がさっそうと舞台に登場したが、すると突然、自民党は救世主を見つけた、つまり、党の実効性のない旧弊と手を切り新たな発想に満ちあふれた現代的な戦術を創造する人を見つけた、というふうに思われるようになった。小泉は、首相になったときは59歳だったが、スタイルという点でも実質という点でも異例な自民党員だった。髪は長めで、ヘビーメタル好き、因習にとらわれず対立も辞さない戦術の持ち主だったので、党の穏やかで高齢の政治家たちとは好対照をなしていた。有権者は彼のカリスマ性に酔いしれ、評論家も大衆も「構造改革なくして経済成長なし」という彼の主張を賛美した。すでに日本は、自民党が優遇する産業に税金をつぎ込み支持基盤に富を広げる一党独裁体制となっていた。今やその体制は化石化し、成長は過去のものとなっていた。小泉はそうした体制をすべて破壊し、その過程で市場競争を導入することを約束した。


 党をさし置いて直接有権者に訴えることによって高い支持率を築き上げた後で、小泉は個人的な資質を使って自民党の悪名高い派閥体制を攻撃し始めた。その体制は腐敗や裏交渉を促進するものとして当時批判の対象にされていたのである。組閣に際して、彼は閣僚を、派閥に頼んで当選回数に基づいて割り当ててもらうかわりに、自分一人で任命し、民間から選ぶこともあった。そして、ライバルとなる強大な派閥を、改革に反対する「抵抗勢力」として公然と攻撃したのである」(つづく)。
   










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コメント 1

今郎

面白いですね。是非とも続きが読みたいです。
by 今郎 (2009-08-22 23:31) 

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