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広島というロールシャハ・テスト [海外メディア記事]

 8月6日は「原爆の日」でしたが、海外の反応はいかにと思い、グーグル・ニュースのアメリカ版を見てみたら、このイベントを取り上げているところが結構多いことを発見。その中から『ウォール・ストリート・ジャーナル』の記事を取り上げます。
 これは、原爆投下に対するアメリカ人の意識が、徐々にではあるが、変わりつつあることを示唆した記事です。あの戦争に直接参加した人々が消え、新たな世代が登場するにつれて、あの出来事の評価も少しは変化していくのだろう、ということを推測させる記事です。アメリカ人もそれほど意固地ではないのかなあと一瞬思わせ、その限りで後味が悪い記事ではありません。


 それとは関係ないのですが、一番最後にあるように、この記事の著者は最近「カーチス・ルメイ将軍」の伝記を上梓したばかりだとのこと。さて、「カーチス・ルメイ将軍」とは? と思って検索したら…、あら、あの東京大空襲の立案・実行した人だとは…

 たとえば下にあげるサイトを参考されたし。そのサイトの最後の部分にも書かれてますが、このカーチス・ルメイ将軍に対して、1964年、当時の佐藤内閣が勲一等旭日大綬章を授与したなんて私には信じられませんね。1964年といえば東京オリンピックの年。どうです、あなたが丸焼けにし、粉々にしたこの都市で、オリンピックができるようになりましたよ!  すべてあなた様のお陰です、有難うございましたという倒錯した感謝の念からなのでしょうか? これ以上に「自虐的」な振る舞いがあるとは思えませんね(私は個人的には、「自虐史観」だの何だの言っている人々に与する気持ちはないので、あまり「自虐的」という言葉を使うこともありませんが、あえて使うならば、戦後の「自虐的」な歴史を作ってきたのは自民党なのでは? と思ってしまいます)。

http://yantake-web.hp.infoseek.co.jp/page18.html

 


By WARREN KOZAK AUGUST 6, 2009


http://online.wsj.com/article/SB10001424052970204619004574324373352808620.html?mod=googlenews_wsj



 「 広島というロールシャハ・テスト

  アメリカ人が原爆をどのように見るかは、その人が自国をどう見るかについて多くを語るものである。


 64年前のこの日、エノラ・ゲイと名づけられたアメリカ軍の爆撃機B-29が広島市に原爆を落とした。8万人もの日本人が一瞬にして死んだことを私たちは知っている。広島市が粉々になったことを私たちは知っているし、放射線の被爆で推計で10万人以上の人々が後に亡くなったことを私たちは知っている。私たちはまた、広島の原爆と、三日後に投下された長崎の原爆が原爆時代の先駆けになったことも自覚している。

 原爆投下当時、ギャラップの調査によると、アメリカ人の85%が原爆投下を支持した(反対は10%)。あれから歳月がたち、態度にも変化が生じた。2005年、ギャラップの調査によると、原爆が必要だったと考えるアメリカ人は57%にすぎず、反対は38%に達した。調査の対象になった人々のほとんどは、原爆投下以降に生まれた人々だった。

 1945年8月、世界の多くは、6年にわたる全面戦争と数千万人の死者のために疲弊していた。あの夏、ほとんどの人は広島の出来事がどのような意味をもつのか全く理解していなかった。人々が知っていたことといえば、原爆が、トップシークレットの計画が生み出した新しく、きわめて強力な一種の兵器であるという位のものだった。それは、合衆国の驚くべき科学技術の優越性を証明するもので――24年後の月面着陸に似てないこともなかった。

 しかし、原爆が広島に落とされる以前から、その使用についての疑念が、その生みの親である物理学者のグループの中に浮上していた。アルバート・アインシュタインは、最初、原爆設計に尽力したレオ・シラードと一緒になって、原爆をフランクリン・デラノ・ルーズベルトの注意を引くように仕向けたのだが、彼らは二人ともそれを日本の民間人に対して使うことには反対だった。

 時が経つにつれて、原爆使用に懐疑的な人の輪は大きくなった。これらの批判者たちは、1945年の8月ごろ日本はほとんど敗北も同然で、原爆は不必要であると主張した。彼らによると、焼夷弾による爆撃はすでに日本の都市の大半を破壊していたし、内陸の水路の破壊によって軍需品はほとんど無に帰していた。市民は栄養不良で、国内には燃料もほとんどなければ、そのほかの原材料も残っていなかった。このように考える人々のグループによれば、日本は、連合国から最善の取り引きが出されるのを待っているにすぎない疲弊した国だった。

 他方で、原爆投下は必要と信じていた人々は、最後の日々は壊滅状態だったナチス・ドイツと違って、日本人は、アメリカ軍が本土に近づくにつれてますます勇猛に闘うだろうと指摘した。ほとんどすべての日本人が天皇のために喜んで死ぬだろう、そのことは沖縄侵攻作戦で証明されていたし、史上最大の水陸両面の上陸となるだろう本土侵攻作戦でも同様だろう。陸軍参謀総長のジョージ・C・マーシャル将軍は、日本本土への侵攻が長く、犠牲の多い戦闘になることが判れば、アメリカの兵士たちは士気を保つことができなくなるのではないかと心配したほどだった。

日本人もまた長い戦闘になることは覚悟していた。原爆が投下されたとき、百戦練磨の米兵たちはヨーロッパから合衆国に戻され、その後太平洋の中間準備地域に送られた。ダグラス・マッカーサー将軍の指揮の下での侵攻の第一陣は1945年11月に、第二陣は1946年3月に上陸する予定であった。予想される何千という負傷者を収容するための病院が、マリアナ諸島に急いで建設されつつあった。アメリカ人が降服後の日本に見出したものは、日本が、軍人による決死隊のみならず民間人の決死隊を組織することによって、アメリカ軍の侵攻を迎え撃つ準備をしていたということを十二分に証明していた。

 原爆をめぐる議論は、14年前スミソニアン博物館が回顧展を開き、それに退役軍人のグループが抗議したときクライマックスを迎えた。退役軍人たちが抗議したのは、その回顧展があまりに犠牲者に焦点をあわせていて、原爆使用の理由には焦点を合わせていなかったためだった。この展示会は最終的に中止された。その後、今年の春、コメディアンのジョン・スチュワートがハリー・トルーマン大統領を、原爆投下の命令を下したことで「戦争犯罪人」と呼んだのだが、そのとき彼は猛烈な非難を引き起こした。スチュワート氏は後に謝罪した。

  戦争を速やかに終わらせたことで、アメリカ軍の日本本土への上陸・侵攻が避けられ、それによって原爆による死者以上の多くの人命が救われたという言い分は、詳しく見るまでもなく捨てられるべきだと考える批判者もいる。彼らは、膨大な数の死傷者を算定する根拠が何もないと言う。しかし当時、驚くべき数のアジア人が日本人の手中にあって死につつあった。毎月25万人もの人々が死んでいった。この異常なまでの死の発生――総計で1700万人が死んだ――が、帝国陸軍がついに本国に帰還せざるを得なくなるとピタリと止んだという事実はめったに言及されることはないのである。

 原爆投下に対するたぶんもっとも単純でもっとも説得力のある言い分は、トルーマン大統領が真っ先に投下しようと決心した主たる理由に求められるだろう。つまり、原爆は日本が降伏せざるを得なくさせるほど狼狽させることをトルーマンは願ったのである。まさにその通りになったのである。


 今日、広島はアメリカ人にとってのロールシャハ・テストになった。私たちは同じ絵を見て同じ事実を聞く。しかし、私たちが自分の国や自国の政府や世界をどのように見るかによって、私たちはこれらの事実をとても違った仕方で解釈するのである。

 かつてのアメリカ兵で、ヨーロッパでの戦争を生き延び太平洋に送られる寸前だった90歳の人間ならば、原爆が自分の命を救ってくれたことをとてもはっきりと理解する。彼の孫たちはこの出来事をとても違った仕方で見るかもしれない。


 この記事の筆者コザック氏は『ルメイ:カーチス・ルメイ将軍の生涯と戦争』(LeMay: The Life and Wars of General Curtis LeMay (Regnery, 2009) )の著者である」。








 


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