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安楽死がイギリス上院で審議される [海外メディア記事]

 以前3月6日の記事『夫婦そろって安楽死』(http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2009-03-06)で伝えたように、安楽死のためにスイスのディグニタス・クリニックを訪れるイギリス人が後を絶たないという状況の中で、安楽死をめぐる法律改正の審議が今週イギリスの上院で行われるようです。それに焦点を当てた『インディペンデント』紙の記事です。



http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/suicide-is-legal-helping-someone-to-die-is-not-must-the-law-be-changed-1722465.html

 「自殺は合法だが、他人が死ぬのを助けることは合法ではない。法律は変えられなければならないか?
  デビー・パービーとマイケル・ヴェンハムは、ともに末期の病を抱えて生きているが、彼らに、今週行われる上院での審議に先立って、対立する意見を語ってもらった。
 
 生きるべきか死ぬべきか。もっと適切に言えば、個人のための決定なのか、国家のための決定なのか? イギリスでは自殺は合法的だが、他人が死ぬのを助けることはそうではない。過去7年間に、115名のイギリス人が親戚や友人の助けを借りて、自らの命を終えるためにスイスの安楽死クリニックのディグニタス協会に旅立った。ほとんどが癌や運動ニューロン疾患のような末期の病気を患っていたが、ごく少数の人は、関節リウマチのような慢性的ではあるが生命を危険にさらすような病気ではなかったことが先週明らかになった。しかしこれまで起訴された者は一人もいないのである。

 
 上院は、今週、検死官及び司法法案(Coroners and Justice Bill)に対する修正条項を審議して、他人が自らの生を終えることを手助けすることが合法となるような状況を設定しようとしている。

 
 デビー・パービーはこの修正条項を支持している。多発性硬化症の患者である彼女は、自分の夫やそれに類する人が、彼女が自分の生命を終わらせることを手助けした場合、起訴されるのはいかなる状況なのかを明確化してほしいと望んでいる。マイケル・ヴェンハムは、運動ニューロン疾患をわずらっているが、この修正条項に反対である。『インディペンデント日曜版』は二人に、メールでこの問題を論じ合ってほしいという要望を出した。



 デビー・パービー(DP):何千という人が、自分で下した決定が尊重されることを知る必要があるから、あなたの思い通りになるといいわねと私に言ってくれました。だから、私が愛する人の問題だけではないのです。最近BBCが行った世論調査では、自殺幇助が犯罪だと考えている人は4パーセントにすぎませんでした。つまり私の解釈では、96パーセントの人が起訴されるべきではない状況があると考えているのです。ですから、私たちは、そういう状況がどのようなものであるかを明確にしておく必要があるのです。あなたは、法的な明確さが最低限の必要条件であることに賛成ではないのですか?


 マイケル・ヴェンハム(MW):私はその世論調査を違った仕方で読みましたけど、法律と、法律が実施される仕方が明確に理解される必要があるという点についてはあなたと同意見です。しかしあなたが「明確化」を「変更」を表わす別の言葉として理解しているのであれば、私は同意しません。他人が自らの命を絶つのを手助けしたり促したりすることは、法制化すべきではありません。私の理解では、あなたのような人が自分の置かれた状況を知ることができるように、規則に対する例外が書面で明文化されることをあなたは望んでいるのでしょう。私の見解は、どんな状況も漏らすことのないような例外のない規則などというものは作れない、というものです。生や死は、そのようなものではないでしょう。必要とされる明確さは、現行の法とその適用についての明確な説明だけでしょう。


DP: 現在の法によれば、自殺を忠告したり、実行したり、幇助することは違法となりますが、自殺そのものはOKなんです。つまり、私の車いすを押したり、旅行の手配をしたり医学的なデータを集めることも違法だし、安楽死について夫と話し合うことですら違法、ということになりかねません。

 医療機関の助けを借りて自らの命を終わらせるのは自分自身の選択であるという医学的、または法的保証が得られるように患者が申請ができることを、法律は明記すべきです。幇助の事前申請がないならば、公訴局長官(Director of Public Prosecutions (DPP) )は自由に起訴を検討すればいいでしょう。これが、「明確」ということで私が言いたいことです。修正条項が採択されたところで、スイスに行ったり自殺することが「より簡単になる」わけではないでしょう。それはもう合法なのです。修正条項がしようとすることは、これが患者本人の選択であるという事前の保証の枠組みを設定して、患者が期待する手助けを開始することなのです。


 MW:この条項が、病気と闘っている人に圧力が加えられることをどうして防げるのか、私には判りません。がんを患っていて自分が家族の重荷になっている感じている在宅の気弱な老女が、次のように言っていると想像してください。「もう私が終わりにした方がみんな楽になれるわね」。(それに対して周囲の人々が次のように言うものと想像してみてください)。「そうね、私たちはあなたにプレッシャーをかけたいと思っているわけではないのですが、もしあなたが望むのであれば、医者に診てもらうよう手はずを整えることはできますよ…」。ここには利害関係者からの明白なプレッシャーはありません。ただ、あなたが望まれていないという言外に込めた遠まわしな意図があるだけです。いま問題の修正条項は、その老女がスイスに連れて行かれるとき、書類がすべてそろっているからという理由で、連れていく人々を守ってくれるでしょう。現在の法は、弱い人々をひどく扱うことに対する強力な抑止力となるのです。

 こう言っても、あなたの抱えている問題は残ったままです。DPPがきちんと処理するのを信頼しなさいと言っても、あなたにとって十分でないことは私も知っています。あなたはDPPを信頼してないでしょうし。あなたが望む保証に答えがあるのかどうか私には判りません。仮に答えがあったとしても、人生に何か保証があるかどうか私には判りませんけどね。
 
 修正条項の重大な欠陥は、それが末期の患者に対する自殺ほう助が、もし外国でなされるならば、許されると述べていることです。一体、なぜイギリス国内では自殺ほう助は別様に考えられなければならないのですか? 実は、この条項はイギリスの法律に全く新たな原則を持ちこもうとしているのです。

 この点が肝心なのではありませんか? この点こそ、あなたに少しの安心感を与えるとともに、自殺ほう助の合法化に向けた第一歩ともなるのです。


 DP:この国の慣習法では、愛する人が死ぬために外国に行くのを手助けする人は起訴されないことになっています。だから先ほど出た「おばあちゃん」は、現在では守られていないのです。法律は、21世紀のイギリスにふさわしい仕方で、スイスではなく我が国で必要とされる保証をつけて作成される必要があります。「ディグニティー・イン・ダイイング(Dignity in Dying:死ぬ者の尊厳)」を含む、安楽死運動を展開している多くの人々は、この法律が死のプロセスが始まってしまった者にだけ、つまり末期の患者にだけ適用されることを望んでいます。私個人としては、苦しみが耐え難く気力が尽きてしまった不治の病の患者や慢性疾患の患者に自殺ほう助を認めるような法律に賛成したいのです。私たちが必要としているのは、一般社会でのオープンな議論と、条文に書いてあることとその意図に乖離のない法律なのです。


 MW:私ならば、妻のジェーンや家族の誰かに自分が自殺するのを手伝ってくれと頼んだりはしないでしょう。絶対に嫌だと思うのは知ってますからね。私は、自著の”My Donkey Body Inside a terminal illness(ロバのような私のからだ。末期の病の中で)”で、私の状態が悪化して全面的に家族の世話に頼りっきりになるのを見るのは家族にとってどれほど辛いかについて書きました。それは家族にとって地獄の苦しみでしょうが、もし私が自分でそれを終わらせようと決めたら、それはもっと悪いことになるでしょうし、家族に手伝うようにお願いしたら、それは最悪というものでしょう。それは、私が彼らにとってもう何の価値もないこと、彼らが私にとってもう何の価値もないこと、苦痛と苦しみの方が彼らの愛よりも勝っていることを語っているからです。私が失禁したり、よだれを流したり、支離滅裂なことを言ったとしても、私が自分の尊厳を失ってしまったと家族の者たちが考えることはないでしょう。それ以上に悪くなっても、そういうことはないでしょう。しかし、それほど「幸運」でない人もいるわけです――たった一人で苦しんでいる人々がね。彼らは何のために、あるいは誰のために生き続けなければならないのでしょう? これは、私には、私たちの社会の失敗の一例であると思えるのです。


 DP:あなたは、どのような人生を送るか、どのように死に直面するかについて選択をしたわけです。あなたは、最後の息を引き取るまで、運動ニューロン疾患と闘うことに尊厳を見いだされている。しかし、死ぬ時期や死に方を自分で決めることに尊厳を見いだす人もいるかもしれないでしょう。個人の決定に誰か別の人が判断を下す権利があるとは私には思えないのですが、現在の法はそういう判断を下しているのです。

 「幇助された自殺」とは誰かが放棄したことを示唆しています。誰かある人が自分自身に対する自信を失うことは見ていて胸が張り裂けそうな気持になりますし、家族や友人は「何か」をしなかったことで後悔の念で一杯になります。私たちが話題にしているのは、死の確実さや耐えがたい苦痛に直面している人があえて自分で決めようとする時の「幇助された死」なのです。


 MW:私は「あいつらは信仰心があるから、そうじゃない者に自分たちの意見を押しつけようとしているんだ」といった言葉をしばしば耳にします。しかしこれは問題を回避する逃げ口上というもので、真の問題は、社会にとって何が最善か? ということです。誰もが信念をもっています。あなたは神が存在していないと思っている。私は神が存在していると思っています。国民の多数派が神の存在を信じていると言っていることは重要ではありません。問題は、法律は現在その目的を達しているか、それとももっと改良することができるか、という点です。緩和ケアはとてつもなく進歩しました。まだ完璧でもないし一様に良好というわけでもありませんが、しかしそのことは緩和ケアを拡大したり改善したりするための議論とはなりますが、経済的代案として安楽死を提案するための議論とはならないのです」。 

 






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