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私はいっぱい [海外メディア記事]

 少し前のことになりますが、『シュピーゲル』誌が「いかにして私は成立するのか」という特集を組んで、いくつかの記事をアップしたことがありましたが、その第一弾を紹介します。題名は「私はいっぱい」という一風変わったもの。これは‘Ich bin viele’を訳したものです(英語にすれば ‘I am many ’)。

 ちなみに、最後のほうでなぜか「声」が話題になっていますが、これは調和や気分や声が、ドイツ語では‘Stimm’という語幹に関係した言葉であることに由来しています。
http://wissen.spiegel.de/wissen/dokument/dokument.html
?id=65111033&top=SPIEGEL


「 私はいっぱい

 神経学者、脳研究者、心理学者、哲学者――かつてないほど多くの学問分野が、同一性や人格がどのように成立したのかを解明しようと試みている。
 
 人生の事柄は、たいていの場合、一見してそう見えるようなものではない。「なぜこんなに多くのことが上手くいかないのかと自問していらっしゃるんですね? それは人間がいっぱいでいたいと思っているからですよ。文字通りの意味ですよ。たくさんのものでいたいんです。いっぱいでね。いくつもの人生がほしいんです。ただそれは上辺だけのことで、心の奥底ではそうでないことを望んでいる。結局のところ、一つになることをみんな目指しますからね。自分と一つになる、すべてと一つになるのをね」。

 聞いていてイライラするような話をするのは、ダニエル・ケールマンの小説("Ruhm"(名声))に出てくる謎のタクシー・ドライヴァー。この本では、現実の見せかけだけの側面と、男性または女性の「私」がもちうるさまざまな顔が問題となっている。

 「私」を求めているのは物書きだけではない。進化生物学者、医学者、哲学者、心理学者、脳科学者、神経科学者、生物学者――かつてないほど多くの学問分野が人間という謎を追っている。

 というのも、人間は奇妙な生き物であるからだ。人間は、生を色彩豊かにする(同時に複雑にもする)もの―たとえば、銃、精神分析、iPodなど―を休むことなく作り出したり、暗い広間に座って動く画像に感動して涙を流したり、長円形のプラスティック板に乗って山を滑り降りたり、月に行ってそこに小さな旗をたてたりする。

 女性は女性で、靴やハンドバッグを大量に買ったりウェストや目尻のしわを気に病んだりする。

 こうした活動に加えて、人間は、飽くことなく自己の探求に没頭する唯一の生き物である。人間は、今あるような自分がいかにして生じたのかを知りたがるのである。

 急速に変貌する社会にあって、人間は自己の確証を求め、自己自身を探求し、次のように問うのだ。どうして私は私になったのか、と。遺伝子、両親、学校の先生、文化環境や社会環境は、「私」が形成される際にどのくらいの役割をもつのか?

 弱く、優柔不断な「私」を誰も望まない、誰もが、人生に満足し成功し健全でいられるための前提として、強い自己があることを自分に望む。それなのに、なぜ、私たちは、今いるとおりの姿でいるのか? なぜ、おどおどした人がいるかとおもえば勇気ある人もいるのか、そして、思いやりのない人がいる一方で、進んで手助けをして協調性のある人もいるのはなぜか? せっかちな人もいる一方で落ち着いて気長に構えていられる人もいるのはなぜか?

 そして、ヴィネンデン銃乱射事件直後の今は心が痛む問いだが、子供が成長してティム・クレッチマーのような殺人者になるのはなぜか(訳者註――ヴィネンデン銃乱射事件は2009年3月11日にドイツのヴィネンデンで起きた銃撃事件。15人が殺害された。犯人は17歳の少年のティム・クレッチマーと見られるが、彼は自殺した)。赤ん坊が大きくなって近親相姦の父親ジョゼフ・フリッツェルのような犯罪者になるものもいればアルバート・アインシュタインのような天才になるものもいるのはなぜか? (訳者註――ジョゼフ・フリッツェルは娘を24年間地下室に監禁し7人の子供を産ませた)。

 親の教育や影響や手本となるような親の姿があったから?  そんなことは全部でたらめ――教育の終わりをアメリカの心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、数年前、声高に叫んだ。遺伝子と同年代の仲間が子供の発達に最大の影響をもつのだからと。遺伝的素質と友人のサークルからなる産物としてのみ自己を捉える――大抵の人はそんなことは信じないだろうし、それは正しいのである。

 なぜなら、そうなると自己責任とモラルの余地がどこにもないことになるからだ。今日ではアイデンティティー管理とも好んで呼ばれたりしているが、幸福と自己実現の追求が可能なのは、自分の人格に集中して向き合うことがある場合に限られる。

 16世紀の終わりに詩人ミシェル・ドゥ・モンテーニュがすでに見いだしていたように、私とは「たんなるつぎ布やボロキレからひどく乱雑で不恰好に作られたので、いつ何時でも布の一枚一枚が勝手に踊りだしてしまうような」作り事なのだろうか? 多くの人にとってはそうであろう――多くの人は自分自身に対して居心地の悪さを感じており、人と違った点をなくそうとして、その代わりに何らかの美点を得ようと思うのだ。

 自分の性格に満足しない大人は、どの程度まで性格を変えることができるのだろうか? 私たちは、望みさえすれば、別人になれるのだろうか? 限界はどこかにあるのだろうか?  特定の行動パターンや関係のパターンは固定しているが、それ以外は固定していないということなのだろうか? 

 そもそも骨組みがしっかりしていて、はっきりとした輪郭をもつ自己なるものは存在するのだろうか? むしろ、私たちの生を規定している多様な私の状態や役割を考えるならば、「私はいっぱいある」のほうが正しいのではないか? そして、自分自身の自己にいたる道は、それゆえ、終わりのない探求プロセスであり、しかもそのプロセスは現代のテクノロジーによって難しくされているのではないだろうか?

 自分のプロフィールを公開し、最適化し、比較することは、現代の人間に課された義務である。リアリティーTV、TVの安易なドキュメンタリー、結婚紹介所、ウェブポータルやコミュニティーなどが自分のアイデンティティー形成のために混乱するほど多くの機会を提供している。

 ネットやテレビも、自分自身を表現するためのこの上ないほど多様な形式にとってのインスピレーションの源になっている。「ドイツの次のトップモデル」や「ビッグ・ブラザー」(どちらもTVのオーディション番組―訳者註)や、インターネットのFacebookやMyfaceにおける今流行の自己の売り込みやアイデンティティーの演出がどれほど自己に影響力を及ぼすかどうかは、簡単には言えない。人に見られたとき、わずかな注目や認知しかえられない「私」は、どれほど安定できるのか、それとも傷ついて壊れてしまうことさえあるのではないか?

 … 私は何を知りうるか、私は何をすべきか、私は何を望んでいいのか、これらの問いは、哲学者で著述家のリヒャルト・ダヴィッド・プレヒトが彼のベストセラー『私は誰か、そして私はどれくらいたくさんあるのか』で導きの糸とした問いである。

 プレヒトの楽しい哲学的な読み物がベストセラーの一覧に載って約15ヶ月経つが、それはこれまでで最も成功した実用といっていいだろう。いつまで経っても需要がなくならないのは、自分の真の自己に対する人間の渇望がいかに強いものであるかを証明するものである。

 真の自己が見つかったと思っても、それは批判的鑑定にかけられて懐疑の内で改善されなければならない。かくして、何年も前から各種の入門書が書店にあふれ、それと平行してコーチの人材市場がふくれあがった。

 週刊誌『Die Zeit』の試算によると、指導的立場にある人の二人に一人にはサポートしてくれるコーチがついているらしい。ドイツだけでも約35,000人の専門のコーチが活動しているが、専門家によればしっかりしているのはそのうち5,000人程度にすぎないらしい。

 儲かる商売としてのみならず、まじめな問いかけとしての私の探求には伝統がある。19世紀の終わりにはもう、科学としての心理学が発達しており、私たちがいかにして「私」と呼ばれるものになるのか、感情と記憶はいかにして成立するのか、私たちの行動をコントロールしているのは何かを基礎づけようと試みていた。

 近年では、とりわけ神経科学が、人間の精神や意識、性格や人格の成立を基礎づけようという野心に燃えている。「われ思う、ゆえにわれあり」と、17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは言った。それに対して、「存在が意識を規定する」とカール・マルクスは考えた。しかし意識が存在を規定することもあるのではないだろうか? または、「存在は意識の調子を狂わせる」という命題や、ウッディー・アレンが言ったように、「すべては幻想にすぎず何も存在しないとしたらどうだろう。もしそうなら、じゅうたんにお金を払いすぎちゃったよ」という命題も正しいのではないだろうか?

 ジョン-ディラン・ハインズは変わった経験を通して心理学にたどり着いた。彼は、問題に取りかかっているときは問題が解けないのに、まったく別のことに関わっているときに解答が苦もなく意識に現われた、ということが再三あった。

 「それでこう自問したんです。いったい僕の代わりにこの問題を解いたのは誰なんだ?」。ベルリンの計算論的神経科学ベルンシュタイン・センターで研究グループのリーダーをしているハインズはそう言う。

 ハインズの確信によると、私たちの意識は特定の思考プロセスのきっかけを与えはするが、しばしば決定的で創造的な刺激を与えるのは無意識のほうである。そのことが脳の中でいかに行われるかを、ハインズは研究しその発見によって世界的な評価を得た。

 すでに精神分析の創始者であるジグムント・フロイト(1856~1939)は「無意識が指導的特質をもっていること」を確信していた。彼は、「私」の意識を、エス、自我、超自我の三つの部分に分けた。エスの部分には食欲や性欲の衝動や、愛や憎しみといった感情もあり、その対立物である超自我には教育によって内面化された規範、規則、理想像がある。
 
 自我、つまり、私たちが意識している部分であるが、それはうかうかしていられないのである。強力な無意識と厳格な超自我といかにすれば折り合いがつけられるかを考慮しなければならないからである。理性的な自我は感情的なエスに対して勝つ見込みがないこともしばしばある。「私は感じる、ゆえに私は存在する」。アメリカの脳研究者で意識の解明について何冊もの書物を書いたアントニオ・ダマッシオは―哲学者ルードヴィッヒ・フォイエルバッハ(1804~1872)に倣って―自分の信条をそう述べている。

 私たちの感情が行動に影響を及ぼしたり身体的な行為に反映したりするということは確証済みの事柄である。自分の感情を一貫して否認する人は、自分の自己に対していわば裏切りを行っているのである。感情が人格を引き裂いて現われてはどれほど容赦なく人を破壊するものであるかは、すでにジェーン・オースティン(1775~1817)が印象深い形で描いていた。

 『分別と多感』であれ『自負と偏見』であれ、このイギリスの作者は人間の感情をこの上なく巧みに描写した。感情は抑圧されればされるほど、それだけ強烈に表面下では燃え上がるものだし、激しく否定されればされるほど、それだけ勢いよく広がっていくのである。

 感情の研究者ポール・エクマンは、サンフランシスコ大学の心理学の教授だが、世界でもっとも成功した虚言の専門家と見なされている。ずいぶん前から彼は、喜び、悲しみ、怒り、不安、嫌悪感、驚き、軽蔑、好奇心といった感情を顔のうちに認識する授業をしている。

 「私がビル・クリントンをテレビで初めて見たとき、彼の顔の表情が私の注意を引きました」と、エクマンは『南ドイツ新聞』とのインタビューで述べた。「私はそれを「クッキーの缶に手を突っ込んでいる現場を取り押さえられてもママは僕のことが大好きだもんねという顔」と呼びたいものものでした」。クリントンが後に大統領でありながら実習生のモニカ・ルウィンスキーとの情事にのめりこんだことは、エクマンには少しも驚きではなかった。

 色恋沙汰にまめな傾向は顔に出るのかもしれないが――それにしても、ある人間の人格がまさにそのように構成されるのはなぜかという点について識者の見解は分かれている。哲学者、心理学者、神経科学者は活発な対話を交わし、時として反駁しあい、人間の本性をこれ以上はないくらい別様に解釈する。

 たとえばイタリアの医師のヴァレンチン・ブライテンベルグは神経学や精神分析に対して次のように問う。「意識は脳の中に探すことができるのでしょうか? 酔っている状態は? 肥満の状態は? 外国人であることは? 熟睡している状態は? 愚かなことは? みんなそのことをよく考えてみるべきでしょう。それだけでプラスになるのです」。

 ケンブリッジのハーバード医科大学の精神科の教授ジョン・レイティーは脳を生態系として見ている。それは、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画にも、民主主義の創造にも、原子爆弾の創造にも、精神病にも責任をもつが、最初の休暇のときやホットドックの味の記憶にも責任をもつ。 

 「この器官がこれほど多種多様な能力を包括しているなんてどうしてできるでしょう?」とレイティーは問う。

 ライプツィヒ大学政治科学インスティチュートの倫理学、政治学、修辞学の教授で、社会学者のウルリッヒ・ブレークリンクは、一種の多様なる自己としての企業家的な自己について語る。「その自己は、本来は統合できない多くの私を自分のうちに統合しなくてはなりません。したがって、アイデンティティーとは、今日では、競合したり協同したり、相互に争い合ったり相互に結合したり、相互に意思を交し合ったり互いに無視し合う多くのアイデンティティーからなる領野なのです」。

 なにやら複雑なパッチワーク式のアイデンティティーのようにも聞こえるし、内部に駆り立てるものがいて、ゲームの規則に従いながら、絶えずよりよい私を求めているようにも聞こえる。しかし、「私」がバランスを崩し、自分が自分自身と調和していないように感じるならば、どうだろう?

 「声とアイデンティティーは密接につながっています」。そう説明するのは、デュッセルドルフで声や話し方のトレーニングをしているカタリーナ・パードルシャットさん。経済危機以来、個別トレーニングのために彼女のもとを訪れる経営者や企業家が増えているという。彼らは、パードルシャットさんによれば、自分自身に投資をしているのであり、振る舞いや声やボディ・ランゲージを最大化しようとしているのだという。「声は心の聞こえる表現なのです」とパードルシャットさんは言う。声はかすれて、苦しそうで、圧迫され、押しつぶされ、わざとらしくかつ繊細に聞こえることもあれば、明瞭で、堂々として、確信を持って、力強く、自信に満ちているように聞こえることもある。

 「あなたは有能だ。しかしそれは耳に入ってこないのです」。そんな説明を女性の従業員にする主任がいるのだという。パードルシャットさんによれば、こうした女性は大抵呼吸が浅く、自分の能力に不安を抱いていて、特定の屈服のポーズを表わすボディ・ランゲージを習慣的にしてしまうのだという。パードルシャットさんは男性たちに、再び正しく呼吸をして全身を声の器官として利用するように教え込んでいる。 

 肉体的練習と発声トレーニングによって自分の振る舞いをより「調和の取れた姿に」作り上げることは、大抵の人間にとっては、長期間のセラピーにかかるよりも、容易に見える。しかし、自己が欝やバーンアウトや他の心的障害によってぐらついているときは、セラピーに通うことは避けがたいのである。

 わざとらしい自己演出や否定とは無関係の所で、「私」の探求を一生涯の関心事としてした人々がいる。先ごろ亡くなったアメリカの偉大な小説家ジョン・アップダイクは自分のことを自分自身の人生の主催者と見ていた。自己の探求こそ大事なことで、彼は自分が老いることを次のようなものとして体験した。それは、まるで自分が頭の中にいくつもの穴をもっていて、「そこにはかつて電気や物質があったのだが、そして僕はいま自問している、僕の頭にはもう一つしか穴がないことになったら、いまよりも苦痛に満ちた喪失感をもつだろうかどうかと・・・・知らないことは一種の祝福であり、老いることは酒による酩酊のようなものだ。どちらも、当事者以上に、他の人々に面倒をかけるものだからである」。

 





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