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戦争・対話・アブラハム(2) [探求]

アブラハムとイサクの物語については、歴史家ならば、先史時代にまでさかのぼる供犠の意義と歴史と関連づけて解釈したりするが、そういう専門家でもない限りそこまで話を広げることはしないし、とりあえず、聖書に書かれていることを額面どおり受け取って、「アブラハムの苦難」ということを中心に据えて考えるのが普通である。
 イサクは、アブラハムにとって、正妻との間にできた独り息子である。それを犠牲にしろという要求は理不尽ではないか? 何の理由があって子供を犠牲にしなければならないのか? 
 しかし神のこの要求の理不尽さ以上に奇妙に感じられるのは、アブラハムが、その要求になんら異議を唱えず、それを、最後の最後まで、忠実に履行しようとしたことである。イサクは愛する独り息子ではなかったのか? 親が子供に手をかけようとするのは何たることか? そこに何の良心の咎も覚えなかったのか? 
 アブラハムは、他の文脈では、神の理不尽な命令に異を唱えていたし、真っ当な判断力がない人間ではない。そういう人間が、愛する子供を殺せという命令に違和感や反発を感じたとしても不思議ではないし、むしろ当然である。だからたいていの人は、「アブラハムの苦難」を推し量るのである。しかし、アブラハムの内面は一切語られていないのだから、アブラハムは苦悩などしていなかったという解釈だってあっていいはずであって、実際アブラハムは神の命令を実行しようと意欲満々だった、というユダヤ教のラビの解釈があったそうであるが(Levensonの書物から知った)、まあ、それは少数派の解釈であって、アブラハムは悩み苦しんだと読むのが普通の感覚であろう。

 こういう読み方をもっとも極端化したのがキルケゴールの『おそれとおののき』だった。彼には、アブラハムが理解できなかった。しかし、そもそも「理解する」ということはまだまだ「悟性」的な(または「倫理的な」)態度にすぎず、「信仰」ではないのだ、とも思ったのである。アブラハムがしようとしていることは、この世の倫理的基準からすれば、殺人である。それは世の掟からすると許されることではない。しかしこの世の掟は最上の掟ではない。「信仰」に比べれば、悟性的な(倫理的な)思考の産物など取るに足らないのである…

 なぜ、キルケゴールはこういう解釈をしたのか? それには個人的な理由があった。彼が、この作品を書く前に、レギーネという娘と婚約をしてそれを破棄するという特異な経験をしたのだが、そこには、自分の父親の忌まわしい過去を知ってしまい、自分の呪わしい運命を悟った等、色々な経緯が絡んでいるのだが、いずれにせよ彼はレギーネを断念したわけだが、その断念した理由を彼女に判って欲しいという個人的な気持ちが働いていたらしい。
 つまり、日常的で「倫理的な」基準に照らし合わせれば、愛し合う男女は結ばれなければならない、ちょうど親たるものがその子供を愛さなければならないのと同じである。しかし、アブラハムがその倫理的な要請を振り切って神の命令を実行しなければならないと感じたのと同じように、自分は、レギーネを断念して、別の道を進まねばならないということを、どうか判ってくれ・・・

 
 そういう個人的な事情もあるし、また、キルケゴールは、アブラハムを解釈するときに、パウロという偉大な先達がいて、それを手本にしたこともあっただろう。

 パウロの解釈は次の通りで、要するに、アブラハムとイサクの関係のうちに、神とイエスの関係を見ているのである(パウロは、イサクが捧げられたこととして書いているが、これはこれで話が通っている読み方であると思う)。

 「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(『ヘブライ人への手紙』第11章第17節)。

 
 キルケゴールが「信仰」というとき、多分このパウロの解釈を念頭に入れた上で、神がイサクを「返してくれる」ことに対する「信仰」のことを言っているのだと思う。『おそれとおののき』から引用してみよう。

 「彼は驢馬にまたがった。彼はしずしずと道を騎行した。その途すがらたえず彼は信仰をもちつづけた。もし神がイサクを要求されるならば、かれはいつでもイサクをよろこんでささげるつもりではあったが、神はイサクを彼に要求したまわらぬであろうことを彼は信じていた。彼は背理的なものの力によって信じていた。そこでは人間的な打算などのかかわる余地はありえなかったのだ。だって、彼にその要求をなした神が、次の瞬間に、その要求を撤回するとしたら、それは背理なことではないか。彼は山を登った。刀がひらめいた瞬間にもなお、彼は信じた―神はイサクを要求したまわぬだろう、と。…イサクがほんとうにささげられたとしてみよう。アブラハムは信じた。彼はいつかあの世において祝福されるだろうと信じたのではなく、ここ、この世において、幸福になれるであろうと信じたのであった。神は新しいイサクを彼に与えることができた。ささげられたイサクをよみがえらせることができた。アブラハムは背理なものの力によって信じたのであった」。


 こうつなぎ合わせてみるならば、パウロ=キルケゴールの「信仰」とは「死者の復活」に対する信仰という正統派キリスト教の信仰となるだろう。しかし、私には、キルケゴールはもっと物騒なことを言っているような気がするのである。

 彼にとって、「信仰」とは「悟性」や「倫理」の段階を飛び越えた、さらにいっそう高いところにあるものとして考えられている。
 そしてアブラハムは殺人者ではなく、「信仰の父」として賞賛の対象となっている。
 そして、キルケゴールは、アブラハムと同様に、「倫理」や「悟性」」から一歩前に歩を進めて「信仰」に移行しなければならない、と主観的に思っている。
 
 しかし主観的に思っただけでは、彼は哲学の歴史にその名を残せなかっただろう。彼は、アブラハム的な「信仰」への移行を哲学的に正当化しようとした。その正当化の試みが『おそれとおののき』のテーマなのだが、その要点を簡潔に述べれば、信仰とは「倫理的なものの目的論的停止」だ、ということになるだろう。

 つまり、アブラハムは、「信仰」という「目的」のために、子供を殺してはならぬという「倫理」的な要求を「停止」した、とキルケゴールは解釈した、少なくとも、そう表現したのである。
 
 この解釈は、ヘーゲル哲学の否定という側面を持っているために哲学史の恰好の対象とされもっぱら高級な次元でしか読まれていないが、しかし、ここには非常に低俗な意味合いも含まれているような気がするのである。つまり、このように言ってしまえば、目的のためには手段についての考慮はすべて「停止」できるのだ、ということになるのではないだろうか? 宗教的狂信行為や政治的テロリズムに走る者を支える論理とどこが違うのだろう? 学者のうるさい議論はともかく、過激な政治的行動に走る若者を鼓舞する、そして彼らを祭壇へと新たに捧げてしまうに足りるものがここにないだろうか? 

 
 ここで、キルケゴールについての哲学的解釈に入るつもりはない。キルケゴールが考えたアブラハムの内に、そして、端的にアブラハムの内に、何か限りなく物騒なものがあることは間違いない。そして、それは、いかなる巧妙な解釈をしてそういう物騒な要素を取り除こうとしても、常にどこかから漂ってくる血生臭さを振り払うことはできないように思われるのである。

  もちろん、こういう側面だけで、ユダヤ教は…とか、キリスト教は…と言うつもりはまったくないのだが、アブラハムを諸宗教の統合のシンボルとして素朴に語られると、ちょっと待ってくれと言いたくなるのである。あるいは、「アブラハムを一神教的宗教の統合のシンボル」として語ることはもちろん可能であるが(なぜなら系譜的にそうなのであるから)、しかし、その場合でも、「一神教」の歴史的起源には、各宗教がまったく望んでいないイメージが常に付きまとうことになりはしまいかと思うのである。まあ、これは余計なお世話というべきものだが。




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