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宗教―生き延びるための戦略 [探求]

  「妄想―生き延びるための戦略」と題して、精神病理学の分野の論文を少し見てきたが、似たようなことを、民族的な、あるいは宗教的なレベルでも確認することができる。ただしその場合、「妄想」という言葉は使わない。「宗教」、しかも、特に「一神教的な」体系あるいは世界観というべきだろうが、実質に違いがあるわけではないと思う。ブルケルトの言葉に「神経症は一種の私的な宗教であり、聖なるものとされた儀式は集団的神経症である」という言葉をもじれば、「妄想とは私的な宗教であり、宗教は集団的妄想である」と言えるのだから。そして何より、このことが明瞭となるのは、古代イスラエルの民の宗教である。(専門家的に言えば、「ユダヤ人」という言い方はしない) 。

 たぶん、信者でもない限り「聖書」なんて読む理由がないじゃないかと思う人がいるだろうが、これはこれで非常に面白い(もちろん、古代のものだから、読んですぐに理解できるという代物ではないが)。私は、4~5年前から、何冊か現代の研究者の解説書を読んでみて、この分野がおよそ牧歌的なものでも、信心深い雰囲気でもないことに驚いた。むしろ、どこよりも偶像破壊に満ちているのである。そして、聖書の至るところで嘘・偽りが暴き立てられる様を見て驚嘆した。

 いま見られる旧約聖書がいつ頃に成立したのかということは判っていない。多分永遠に判らないだろう。一応、出エジプト記は紀元前10世紀よりだいぶ前のこととして描かれているが、奴隷だった人々がモーセに率いられてエジプトを脱出し、カナーンの地に入って、そこで連戦連勝の勝利を収めた結果、王国を建設するに至った、という「お話」を信じている研究者はほとんどいない。むしろ、山賊行為のようなことをしながら、徐々に山岳地帯のやせた土地を少しづつ分捕っていった、というのが実情らしい。王国誕生も、イスラエルの民の力というよりも、周囲の大国が内政の緊迫によって一時的に弱体化してしまった、その隙をついて、おこぼれを預かるような形で手に入れた、というのが正しいようである。したがって、強国が国内問題を収拾してイスラエルに向かうや、非常にあっけなく崩壊するに至るわけだが、これはイスラエルにとって分相応の出来事だったと言っていいだろう。要するに、イスラエルにはそれだけの国力しかなかったのである。

 問題は、バビロン捕囚、祖国喪失、民族の分裂状態に直面したイスラエルの民のうち、もっとも知的な階級に属していた(多分、僧侶階級であろうが)のある者達が、自らの民族的アイデンティティーを救うための戦略として、書物の編纂を企てた、ということから始まる。膨大な数の文書や各種の言い伝えが、時系列的に整理・分類され、可能な限り統一的な体裁に収まるように改変されたのである。

しかし、こうした作業は、民族的アイデンティティーをどのように救うかという、優れて実践的な目的に役立つための作業だったので、この編纂作業は、およそ客観的なものではなかった。一応古くからの伝承が集められたとはいえ、それらは非常に強力なバイアスが懸けられる形で再構成されたのである。僧侶階級の言い分は、イスラエルが滅んだのはイスラエルの民が充分信心深くなかったためである、ヤハウェとは違う神に色目を使ったり偶像崇拝をふんだんに行ったために、神の怒りがわが民族に向けられたのである、したがって、これから、神の戒めを充分守る生活をするならば、わが民族がいつかは祖先の土地に帰ることができるようになるかもしれない。ちょうど、かつて、エジプトから奴隷状態のわが祖先たちを神が救ってくれたように・・・。
 
 こういう観点から、編纂作業が行われたわけだが、そこには『出エジプト記』も含まれている。そこで描かれたモーセによる脱出劇が実際のできごとであったことを疑う研究者は多い。何十万単位の奴隷が逃亡したならば、そういう記録がエジプトにあるはずなのに、そういう文書が一切ないのだから、というのがその理由である(何しろ、数人単位の逃亡の記録が残っているくらい、エジプトは役人の文書が多い国だったのだ)。かりに、それに類する出来事があったとしても、それはきわめて小規模な(数十人程度の)集団の脱走劇だったに違いない、というのが一番穏当な考え方であろう。しかし、肝心なことはそこにはない。つまり、イスラエルの民のエジプト脱出劇は、過去にあった出来事というよりは、「これから起こらなければならない出来事」として描かれたということである。編集作業と称して僧侶達がしたことは、これから起こらなければならないことを示すために、過去を創造することだった。
 同様に、ユダヤ人=一神教という固定観念を抱いている人は多かろうとは思うが、過去のイスラエルの民の信仰が一神教的だったかといえば、およそそんなものではなかったことを示す発見が20世紀の後半に続出したことから、この点についても研究者の方向は大きく様変わりを遂げざるを得なかった。つまり、一神教というのも、過去の事実なのではなく、国家喪失の反省から、神の怒りを買わないようにするための戦略であり、やはり、「これから起こらなければならないこと」に属することなのである。
 
 もういちど有名な、ヤハウェがモーセに語った十戒の最初の言葉を見てみよう。
 
 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の国から導き出した神である。
 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記第20章)」。

 これは、神がモーセに言ったという体裁をとりながら、分裂状態に陥ろうとしているイスラエルの民に向って、一つの民族として生き延びるために、僧侶達が心がけよと呼びかけている言葉なのである。



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