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ヴァルター・ブルケルト [探求]

 
 ヴァルター・ブルケルトといっても知らない人が多いと思うが、宗教の起源のようなことに関心を持つ人は彼の『ホモ・ネカンス』は読まなくてはならない書物の一つである。少なくとも、古代の宗教を考えようとする際に、供犠という観点が不可避であり、いや、それを中心に据えなければ宗教の何たるかは理解できないということを一般に知らしめたのであり、こういう考え方が、最近では新約聖書学などにも、ようやく浸透しつつあるようである。私は、原書はなぜか見当たらず、その英訳本を10数年前に買ってひそかに読んでいたが、最近になって日本語訳も出たようである。
 
ホモ・ネカーンス―古代ギリシアの犠牲儀礼と神話

ホモ・ネカーンス―古代ギリシアの犠牲儀礼と神話

  • 作者: ヴァルター ブルケルト
  • 出版社/メーカー: 法政大学出版局
  • 発売日: 2008/01
  • メディア: 単行本



 ブルケルトは宗教学者というより、万来は、ギリシア文献学の人であった。彼の主著『ホモ・ネカンス』という題名は、殺戮するヒトの意味。供犠という殺戮行為が、宗教の原型をなすという考え方である。しかし、その供犠の原型は、旧石器時代のはるか彼方から人間が行っていた狩猟行為に求められるという考え方が、この書物の最も根底にある。

 この考え方の発端は、同郷スイスの先達である考古学者のカール・ムーリの発見にさかのぼる。ムーリは、最初、熊の頭蓋骨と大腿骨を洞穴の中に丁寧に並べたネアンデルタール人の熊の埋葬と、聖なる場所に獲物の骨や頭蓋骨を納めたシベリアの狩猟民の風習との類似性に注目し、そこから古代ギリシア人が獣の骨(とくに大腿骨)を神に捧げた儀式との関連に思いを馳せたのであった。ムーリの知見はシベリアの狩猟民の風習に限られていたが、今日では、骨の扱いに関する狩猟民の風習が地域的にも時代的にも広範囲にわたって存在していることが確認されており、ムーリの洞察の基本的な正しさが実証されることとなった。

  ブルケルトの文章から引用しよう。訳は私の訳。

「 「 民族学的研究が近づきうる狩猟社会では、狩猟民は、殺される動物に対してはっきりと罪悪感を表明したと言われている。儀式は、許しと再生を提供する。…儀式は、死に直面しながら生を継続することへの根本的な不安を露わにしている。血なまぐさい「行為」は、生を継続するために必要なのであるが、しかしそれは、新たな生が再び始まることのできるためにも、必要なのである。だから、骨を集め、頭蓋骨を掲げ、皮を延ばすことは、再生の試み、もっとも具体的な意味での復活として理解すべきである。自分たちの栄養源が引き続き存在してくれるようにという希望と、そうはならないかもしれないという恐れが、狩猟民の行為、生きるために殺すという狩猟民の行動を規定している」。


  想像してみよう。 氷河期の頃のシベリアの状況を。今でさえ想像を絶するようなところがあるシベリアだが、氷河期である。くる日もくる日も雪と氷に閉ざされた生活。食料の圧倒的不足。ときに現れる大型王物。それを狩ることの必要性、と同時に感じられる恐れ。ひょっとしたらもう二度と来ないのではないかという不安。自分達の生を養ってくれる存在を殺す罪悪感(一種の「父殺し」である)。せめて、骨と皮をきれいに洗い、丁寧に並べ飾ることは、また自分達のもとを訪れてくれるようにという祈りであり、「復活(resurrection)」に対する願いである。(ちなみに、「復活」という語は、キリストの「復活」が言われる場合と同じ言葉である)。

  ブルケルトは、こういう状況に、「神」の原型を見ているのである。
  この項続く。

 




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