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並木藪に行く [雑感]

 「巨大な柏の木の葉を一枚一枚、なんともていねいに描いてあるテオドール・ルソーの絵を見ていて、ヴァレリーが「ああ、細かく描いたもんだ。しかし、さぞ退屈だったでしょうね」と語りかけると、ドガが「退屈でなくちゃ、面白いものはできないんだ」と言った」。

 11時ジャストに店の前に着く。まるで計ったように着いたのは、家から計りつつ歩いてきたからで、途中余裕があったので観光センターに立ち寄ったりした。ちょうど、店員の方が暖簾を掛けていた所をくぐって中に入る。一番かと思ったのは一瞬だけで、もうすでに5~6組いた。あ~やっぱり。早く来てもこれなのね。いつ来ても混んでいて相席は避けがたいので、この店について風情や情緒を語るのは難しい、と思う。そういうものを感じたい人は、雨が降っていたり冷え込みが厳しい夜がお勧め。私も、そういう日を選んでしか来ないと思っているので、昼に来るのは久しぶり。
 
 入って左手の一番手前のテーブルに、戸口に向かって座る。すかさずスポーツ新聞を届けてくれるのは相変わらず。しかしこの時期のスポーツ新聞は面白くないね。私は競馬もしないし。ざると玉子とじを頼む。以前は、蕎麦屋では判でおしたようにざる(または、もり、せいろ)しか頼まなかったのだが、最近はそんな肩肘張るようなことはなくなった。寒いので暖かいものも欲しいというだけのことである。ざると玉子とじを頼んだとき、どちらを先にお持ちしましょうか? ときかれた。毛色の違うものを頼む客には、その順番を聞くようにと教え込まれているのだろう。感心なことだ。いつものように割烹着の白が目に快い。

 後から来て私の隣に座った若い男性は酒を注文していた。昼からいいご身分ですねぇと言いたいところだが、服装から判断するにまだ仕事中のような。それっていいのだろうか? しかも酒を飲んでいる割には硬い表情をしている。ちなみに、同じテーブルに座ったもう一人の男性は、ざるを一枚頼んで、ざるが来るとすぐ食べてすぐ出て行った。別に観察していたわけではないが、見るからに若く帽子をかぶっていて、落ち着かないそぶりをしてあたりを見渡していたような気がする。なにか、相席になったご両人とも、食べたくて、あるいは飲みたくて注文したわけではないような気配が濃厚。私も、学生の頃から蕎麦屋に通っているが(そして傍から見れば可笑しく見えたこともあっただろうが)、何と言うか、若さが体から発散しているうちは蕎麦屋には合わないんだよな。などと言っても詮のないことだ。しかしざる一杯じゃ、あの青年、あの後で何かを食い足したろうな、とんだ散財である。


 私の座った正面に額が掛けてあり、「そば」の文字の左側に「弴」の文字が。「里見弴」のことか? と言ってもほとんど誰も知らないだろうし、私も名前しか知らない。誉れ高い文名を尊んで書いてもらったのかもしれないが、里見弴より並木藪のほうが長命を誇りそうであるから、皮肉な額だ。
 
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 まず、ざるが来て、ついで玉子とじ。もう随分前に(本当に、随分前)初めて食べたときは尋常ではない歯ごたえを感じたものだが、そうでないように感じられるのは、店が変わったためか、それともこちらが変わったためか? しかしそんなことは些事にすぎない。要するに、並木のざるであったし、初めて頼んだ玉子とじが、これまた視覚的に快い。帰って、先代の『江戸そば一筋』を読み返してみると、「玉子とじを食べればその店の心掛けがわかる」と書かれている。「本当に汁が煮立ってきた瞬間に溶き玉子を入れなければいけない」らしく、タイミングが少しでもずれると、汁が濁ったり玉子にすが入ってしまって、客に出すわけにはいかない。そんな気の抜けないことは店が立て込んでいるときにはできないから、混んでいるときは玉子とじは断っているそうな。きょう出されたとき、あまりにとじ玉子が綺麗なのに関心したが、そうか、あれは並木藪の良心だったのだな、と今更ながらに納得した。


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 並木藪で感じるもの、それは何かを、具体的的にこうだという風に言うことは難しい。なので、『江戸そば一筋』からの引用で代えることにしよう。冒頭に示したのは、先代が高橋義孝から聞いた話である。それに付け加えて、先代は次のように記している。
 「その話を聞いて、そばを作るのも同じだ、と私は思いました。そばを作るのも退屈です。毎日毎日、同じ仕事を繰り返しているのですから。
 しかし、そのドガの言った「退屈」という心根が大切なのだと思います。簡単なことほど、貫くのはむずかしいものがあります。毎日毎日、同じことの繰り返しを、手を抜かずにこまめにする。そこから、いいものが生まれ出てくるのです」。

 この文章を書いた先代の堀田平七郎という人は、真面目一筋の人だったのだろう。この本の文章は生真面目そのもので、面白いわけではない。藪のそばにも同じことが言えないだろうか? まあ、そばに面白い、つまらないということが言えるとしての話だが 。断っておくが「面白みがない」とは「山っ気がない」ということであり「真っ当」ということである。この店に来たり、この文章を読んだりしたときに感じることを一言で言えば、職人の「心根」ということになるだろう。今日、店を出るとき、私は、従業員から釜前の職人に至るまでの一同の挨拶で送り出された。明治の頃から受け継がれてきた、職人の心根の何たるかが、ここでは本当に具体的に体感できるのである。この店に来るということは、この「心根」を感じることなのだと、そんなことがようやく最近判るようになった気がするのである。





 









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