So-net無料ブログ作成
ブログパーツ
 
前の1件 | -

ローマの美について   (総まとめの一文) [探求]

 ( ローマの旅行の雑感をいくつか書いたが、その総まとめのような文章を某所に提出したのを機に、やはりここにもその文章をアップしておこうと思った。以前ここに書きこんだことと重複がいくつもあるが、やはり自分の考えをコンパクトにまとめた形で表現しておくことが必要だと思ったからである。ローマに行って、その体験の核心部分を表現するのにほぼ二か月かかった。ずいぶん時間がかかったが、まだまだ足りないくらいである。この経験は、私の中では、さらに深化していくことになるかもしれない )。




 「   ローマの美について



  ローマには美があった。もっとも、ここでの美とは、美術館や教会の作品の中に閉じ込められた美ではない。そのような美も美には違いないが、それらは生活から遊離した美であり、鑑賞の対象としての美、記念物と化した美である。
 
 ローマの街は、一見、荒(すさ)んだように見える。私たちは、街路沿いの壁の一画にマリア様の図像が突如として出現するという経験を何度かしたのだが、その瞬間、荒んだ街並みが一変するかのように思われた。私たちは、文字通り、目を奪われて、おもわず立ち止まってしまったほどだった。

 Image_eae4736.jpg



 マリア像の周囲におびただしいプレートが貼られている祠(ほこら)もあった。


A small shrine3.jpg



 プレートに書かれているのは、たいていの場合、“Per Grazia Ricevuta” という定型のフレーズである。中には“PGR”と頭文字だけしか書かれていないプレートもある。おおよそ、「おかげさまで(祈りが)受け入れられました」といった意味である。プレートのほとんどは匿名で、定型のフレーズ以外には日付が書かれているだけである。日本の絵馬と違って、個々人の欲望を露骨に記したりはしない。どれもが、言葉少なに謝意を述べて、マリア様の恩寵を讃えるのみである。マリア様だけが光り輝くのである。さきほど、ローマには美があったと書いたが、美というよりも詩と言うべきかもしれない。多くの無言の祈りがあり、それを受け入れる慈愛がある。その慈愛に対する信仰がある。それらが詩情となって、ローマの街並みに漂い出すのである。

 似たようなことは、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の天辺を飾る聖人像を見たときにも感じた。一日の旅程が終わり、私たちはホテルに帰るバスの中にいた。もうじきホテルだというとき、夕陽の逆光の中、聖人像のシルエットが視野に入ったとたん、私たちの誰もが、その文字通り目を奪うような光景に声を上げたのである。


054.夕方のラテラノ大聖堂の聖人像1.JPG



 聖人たちは、各人各様、いろいろな身ぶりで私たちに向かい合っている。私たちの方に手を差し伸べたり、祈る身ぶりであったり抱擁しようとする仕草であったり。ここには無言のメッセージがある。地上に暮らす私たちに向けて、聖人たちは、身ぶりを通して、言葉を発しているのだが、私たちの耳には、言葉になる手前の言葉としてしか聞き取れない。やはり、無言の、詩作品になる手前の詩情が、ラテラーノの大聖堂から、ローマの四方八方へと放射されているかのようだった。


 実は、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の聖人像を見たとき、私は何か既視感のようなものを覚えたのであるが、しばらくの間、それが何であるかを思い出すことができなかった。それを思い出すことができたのは、日本に帰ってからしばらく経ってからだった。それは、4~5年前読んで印象に残ったシモーヌ・ヴェイユの晩年の言葉だった。ただし、それは労働者の悲惨な境遇をどうするかという問題に捧げられたエッセイの一節だったので、私の中で、ローマの経験とうまく結びつかなかったのである。ヴェイユは次のように書いている。

 「民衆はパンと同じくらい詩を必要としている。言葉のなかに閉じこめられた詩のことではない。そのような詩は、それだけでは、民衆にとって何らかの役に立つことはできない。民衆は、自分の人生の日常的な実体そのものが詩となることを必要としているのである」(「奴隷的でない労働の第一の条件」)。


 おそらくヴェイユはある種の理想を述べたのであろうが、ローマにはその理想が現実になっているかのように私には映った。確かに、ローマには、そのような詩があった。しかも、日常のただ中に詩があった。誰もがパンと同じくらい必要としている詩が。言葉のなかに閉じこめられていない詩が街中に漂っていた。


 ヴェイユは、さらに続けて、「このような詩にはただ一つの源泉しかありえない。その源泉は神である。このような詩は宗教以外にはありえない」と述べる。ヴェイユは無神論者だから、これらの言葉の理解には注意が必要である。しかし、確かに言えることは、ヴェイユの考える「神」も「宗教」も「美」を通して現れる、ということである。


 言うまでもなく、ローマは宗教の上に成り立つ街である。しかし、ローマの神は、厳格なプロテスタントの神と違って、美を通して語りかける神である。私たちが泊ったホテルのごく近くにスカラ・サンタ礼拝堂があった。朝、散歩の途中で、初めてその外壁に目をやったとき、私はぎょっとしたものだった。外壁に描かれたイエスが、金色の背景から現れ出てきたかのように感じられたからである。ローマのイエスは、まばゆい色彩に彩られながら、道行く人々に「安らぎがあらんことを(PAX VOBIS)」と語りかけていたのである。



 
016.スカラ・サンタの側壁.JPG


017.側壁のクローズ・アップ.JPG





 「世界は、美的現象としてのみ正当化できる」とニーチェは言った(『悲劇の誕生』)。私には、その精神を最もよく体現したのはローマのキリスト教だったのではないかと思えるのである。



」(おわり)












コメント(0) 
前の1件 | -