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ニーチェとトルストイのイエス像 [探求]

 しばらく論文の執筆に没頭していて更新ができなかった。

 ニーチェのイエス像について書いていたのである。ニーチェが読んだルナンやトルストイやドストエフスキーなどを読み比べることをしていた。その一部を紹介しよう。ルナンの『イエスの生涯』はニーチェにとっては「安っぽい物語り」にしか映らなかった。その点を論じた後で、トルストイとニーチェの関連性に触れる箇所である。

 ここら辺は、クリスマスも終わった後の昨年の暮れ、一人で伊東の宿に泊まって、書き進めていた。ホテル暮らしの孤独なニーチェになったかのような気分になって。ついこの間のことだが、なぜか懐かしい気持ちになる。
 


 


 「 …  「「悪人に逆らうな」は福音書のもっとも深い言葉であり、ある意味でそれを解く鍵である)」 。

  ニーチェの『アンチクリスト』の一節である。

 『アンチクリスト』の注釈書を書いたゾマーによると、1888年の初頭にニーチェは、トルストイが自身のキリスト教理解の経緯を記した書物の仏訳を手に入れ、それを詳しく検討したらしい 。『アンチクリスト』にトルストイの名前が出てくることはないが、その読書の成果が同書に反映されたことは疑いえない。トルストイの書(それは、仏訳では『わが宗教(Ma religion)』、邦訳の全集では『わが信仰はいずれにありや』と題されている)から、ニーチェの記憶に痕跡を残したと思われる部分を取り出してみよう。同書は、福音書を何度読んでも理解できなかった経緯の叙述から始まるのだが、多くの無駄な努力の挙句に、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)という言葉に逢着するにいたって、突然すべてを悟ったとトルストイは述懐する。


 「私が悟りえたのは、自分がなんとかして巧妙に、深い思慮を思いめぐらせて言葉を置き換えたり、比較対照したり、解釈をし直したりしたためではなく、むしろ反対に、私が一切の解釈を忘れ去ったことによって、すべてが私のために開かれたためであった。私にとって一切の鍵だったのは、マタイ伝第5章39節の「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない」という箇所だった。私はいきなり、しかも一度でこの一節をじかに、すなおに理解できた。キリストは言葉通りのことを言っているのだということが分かった。するとたちまちにして、何か新たなものが現れた、というよりむしろ、真理を曇らせていたものがことごとく脱落して、真理が文字どおりそっくり私の前に立ち現れたのであった」 。


 これは、ただここだけを取りあげるならば、子供のようなまなざしで福音書を読み直した結果、ついにイエスの真意を理解することができたということを語っているだけに見える。しかし、トルストイの批判のまなざしが、実は、「目には目を、歯には歯を」を制度化した警察・司法・軍事に向けられることが判明し、キリスト教の信仰をもちながらそうした制度を受け入れることはできないということがトルストイの主張なのだということを理解すると、ほとんどの人はここに受け入れがたい形態の信仰があることを知るのである。この世界の秩序はこうした警察・司法・軍事の制度によって守られていると考える人々にとっての善は、トルストイのイエスにとって、途端に、一種の悪に変貌する。彼らにとって、トルストイのイエスは、ルナンの「アナーキスト」をはるかに凌駕する危険思想の扇動家と映ることだろう。だが、トルストイによれば、悪をもって悪に対処したところで、これまでの歴史が教えてくれるように、悪は一向に減ることはないのだから、それは悪に対する適切な態度ではないということを証明している。トルストイのイエスにとって、警察・司法・軍事は世の中の悪に手向かう存在の代表であり、その限りで、それ自体悪の存在である。それらは、悪そのものと同じくらい、関わってはならない存在である。しかし、そうした存在によって世界その存立が可能となり、世界の善悪が規定されているとするならば、トルストイのイエスは世界全体に関わらない生き方(「善悪の彼岸」にあるよう生き方)を選ぶように求めていることになる。「悪人に逆らうな」とは、悪に対して悪をもって報い、それによって秩序を保とうとするこの世界の道徳性のあり方に対する拒絶の意思の表明なのである。


 「「悪人に逆らうな」は福音書のもっとも深い言葉であり、ある意味でそれを解く鍵である」とニーチェが述べるとき、彼はトルストイのイエス解釈に対する賛意を記している。もちろん、それは無条件の賛意ではなかっただろう。なぜなら、方向性の違いは明白であるからだ。トルストイは理想主義を極限まで追い求めた末に、一切の悪に加担することを拒絶するイエスの姿を見た。しかし、ニーチェはそこに別のものを見出したのではないだろうか? トルストイの解釈は、理想主義を極端に推し進める結果、世界内のほとんど一切の価値の剥奪を招来せざるをえない。ニーチェは、トルストイの解釈のうちに、ある種のニヒリズムを見たのではないかと私は推測する。「無抵抗のモラル」は、善悪の基準を否定し、それに基づく世界内の制度全体を否定するからである*。



 (*註: 『アンチクリスト』のための草稿段階で、ニーチェはルナンが言う「聖なるアナーキスト」を「ニヒリスト」と言い換えていた(Friedrich Nietzsche : Sämtliche Werke. Kritische Studienausgabe in 15 Einzelbänden(=KSA)13, hg. von Giorgio Colli und Mazzino Montinari,Berlin 1999,11))。
 
                         … (以下省略)            」
 


 
 (後記) : 1888年初頭、ニーチェの脳裏の中で、アナーキスト、無抵抗のモラル、ニヒリズムが混然一体となって、混沌としたイエス像が徐々に形成されつつあった。それらは、結局のところ、『アンチクリスト』に反映されるのだから、それを読めばいいわけであるが、むしろ、私にとっては、そうした混沌状態を想像するほうが楽しいのである。       









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