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ローマへ (ティトスの凱旋門 -- 準備編その7)  [雑感]

 3日目の午後にはフォロ・ロマーノに行く予定であるが、私にとっての最大の見所はティトスの凱旋門である。

  
 ティトスの凱旋門


 ティトゥスの凱旋門は、現存するローマ市最古の記念門で、ユダヤ戦争の戦勝記念として81年に建立された。高さ15.4m、幅13.5m。

 ローマの支配を打破しようとするユダヤ人の一派が、66年6月に宣戦布告して以来激戦が繰り広げられたが、70年8月エルサレム神殿の崩壊、同年9月のエルサレムの陥落をもって大勢が決した。

 その勝利を祝う凱旋行進が、71年6月に、盛大に行われた。その模様は、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しく描かれている(『ユダヤ戦記3』(ちくま学芸文庫134~142))。


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 この凱旋式は一大政治ショーでもあった。戦争の場面が再現され、ユダヤ人の捕虜が大量にさらし者にさせられ、最後に、ユダヤ側の指揮官の公開処刑をもってこのショーのクライマックスとした。


「 戦争(の様子)は、個々の部分ごとに、それに思いを致させる多数の物で、目にはっきりと分かるような仕方で示された。
 
  そこでは往時繁栄を謳歌した荒廃した国土、虐殺された敵の大隊、敗走する者たち、捕虜として引かれて行く者たち、諸装置類で破壊された桁外れに大きな城壁、制圧された堅固な要塞、多くの者を配置して防備の万全を期していたが全滅させられた町々、城壁内に雪崩れ込む兵士たち、至る所が血の海と化した地域、抵抗できずに命乞いする者たちの手、火を放たれた神殿、所有者の頭上に落ちる倒壊家屋などを、また大いなる荒廃と悲嘆の後も、耕された土地の上を流れるのでもなく、人間や家畜に飲み水を供するのでもない、まだ各所から火の手が上がっている所を流れる川を見ることができた。まことにユダヤ人たちは戦争に突入したときから、このような災禍をこうむることになっていたのである。

 これらのつくりの技巧と職人技は、その出来事を自にしなかった者たちに、それがあたかも眼前で起こっているかのように見せるものだった。そして、それぞれのステージの上では、陥落した町の指揮官が捕らえられたときの格好をさせられていた。・・・」


 この凱旋式の中心にいたのがティトス。時の皇帝ウェスパシアヌスの子で、ユダヤ戦争の陣頭指揮を任されていた。凱旋門は、ユダヤ戦争勝利を記念して建てられたので、その指揮者にちなんで、ティトスの凱旋門と呼ばれるのである。実は、この凱旋門には、ユダヤ人の精神的なより所である神殿が破壊されたことを示す光景が描かれているのである。凱旋式で数々の戦利品が誇示されるのだが。その中でひときわ異彩を放っていたものに、エルサレム神殿に飾られていた、ユダヤ教の象徴である燭台(メノラー)である。ヨセフスは次のように書いている。


 「 多数の戦利品が乱雑に積み上げられて運ばれて行ったが、なかでもひときわ目立ったのはエルサレムの神殿から押収したものだった。それは重量が何タラントンもある黄金の机と、同じく黄金でつくられていたが、われわれが日常使うものとは異なる細工の燭台だった。燭台は中央の軸柱が台座に固定され、軸柱から細長い枝が三叉の槍のように伸び、各枝の先端には精巧につくられた燭がついていた。枝の数は七本であるが、それはユダヤ人が七という数に名誉を与えていたことを示している・・・」。



・ 凱旋門に浮き彫り細工にされた戦利品。燭台がひときわ目立つ。


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  いちおう、ティトスの凱旋門については以上なのだが、補足を二点ほど。


1. ユダヤ戦争の結果、第二神殿が焼け落ちて以降、新たな神殿が建てられることがなく現在に至っている。エルサレムには、その間、イスラム教とキリスト教が入り込み、収集がつかない状態になっていることはご存知の人も多いだろう。しかし、第三神殿に先立って、燭台のほうはもう完成していて、新たな神殿の再建を待っているのだという。


 新たな神殿が再建されることを待っている燭台(http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201007290432.html)。


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2. 最初の福音書である『マルコ福音書』は、このティトスの凱旋式を目撃したキリスト教徒(多分、マルコという名前のキリスト教徒)が書いたのではないかという説がある。イエスが裁判を終えて処刑場にむかって行く様は、ティトスの凱旋式からインスピレーションを得たのではないかという解釈は、トーマス・シュミットという研究者が最初に唱えた(ちなみに、最近その解釈を支持する研究者が増えている)。真の勝利者はローマ皇帝の父子ではなく、十字架にかけられるイエスのほうだ、という転倒した世界観をマルコは表明したのだという説。最近では、その説を拡大して、福音書全体が、実は、ローマの皇帝に対する対抗意識のもとに書かれたのだという解釈も出てきている。元来、「神の子」という表現はローマ皇帝に対する称号だったのだが、それをイエスに当てはめたのだと。こうして、『マルコ福音書』が「神の子イエス・キリストの福音の始まり」として開始することを説明するのである(私もこの解釈は正しいと思っている)。
 
 キリスト教は政治的には無力だったが、反権力の意識は十分強かったことは確かである。あるいは、抵抗としての無力を貫いたのだと言えるかもしれない。だから、ある意味で、ローマの権力者がキリスト教徒を迫害したのは正しかった。そこに不気味なほどの不服従の意思を感じ取ったに違いないからだ。しかし、長い目で見ると、ローマ帝国は衰退に向かいやがて消滅するのに対して、キリスト教は、無力な抵抗を続けながら、現世的な意味でも一つの権威となっていったのは歴史の皮肉と言えるのではないだろうか?











 


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