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ニーチェの道徳・政治哲学(その7)  [探求]


スタンフォード大学・哲学百科事典の「ニーチェの道徳・政治哲学」(ブライアン・ライター執筆)の紹介の第7回目。この箇所で興味深いのは、ニーチェの反-リアリズム(反-実在論)がニーチェ自身の価値判断にも適用されなければならないという当然の理由から、ニーチェの道徳自体も何らかの事実を反映したものではないということである。つまり、これまでも頻繁に使われた「高次」と「低次」などの概念も客観的事実を言い表しているというよりも、ニーチェの趣味判断のようなものである。それに同意することは、ニーチェと趣味を同じくするということを認めることである。ちょっとだけ引用しよう。

「つまり、「Xは低次である」と言うことは客観的事実を記述することではなく、むしろ、一定の価値評価的な感性あるいは趣味を共有するものとして自分自身を識別することなのである」。

 道徳についての議論が、最終的に、こういう結論に行き着くのを目にすると、何か肩透かしを食らったような気持ちになるが、まあ、所詮、道徳について論じるというのはその程度のことさ、と思っておけばいいのかもしれない。

なお、本文はニーチェに政治哲学はあるかどうかについての論述が続くのだが、その点については興味が涌かないので、この3.2で紹介を打ち切ることにする。




Nietzsche's Moral and Political Philosophy . By Brian Leiter.
http://plato.stanford.edu/entries/nietzsche-moral-political/




3.2ニーチェの反実在論



ニーチェは、価値についてリアリスト(実在論者)でないならば、反-リアリスト(反-実在論者)でなければならない。彼は、自分の価値評価の観点に対してその批判対象を優越する特権を与えるような何らかの客観的な事実があることを否定しなければならない。(実はこれこそ、ニーチェに関する二次的な研究文献の外側で最もなじみ深い読み方である。ニーチェのメタ倫理についてのこうした見解は、たとえば、社会学者のマックス・ウェーバーと道徳哲学者のアラスデア・マッキンタイアーに見出すことができる)。この反-リアリズムが適用されるような判断については慎重でなければならない。道徳批判において、ニーチェは、たとえば、 「畜群」道徳は畜群にとっては善いものだが、高次の人間にとっては悪しきものであると考えているらしいことを思い起こそう。 彼は、たとえば、「畜群の考えは畜群の中で支配すべきだが、それを超えてはならない」と言っている(WP 287)。別の個所では、奴隷の道徳を単に「もっとも低い次元の打算」と記している(GM I:13)。幸福や打算的善――特定の個人にとって善かったり悪かったりするもの――に関する価値判断については、ニーチェは、客観的な事実――人間のタイプ-事実に相対的な善ではあるが――があると考えているように見える。しかし、これは正しくない。ニーチェの信念によれば、様々な道徳は様々な種類の人間にある種の影響を及ぼすことは客観的に正しいが、こうした影響が「善」であったり「悪」であるということそのものは、反‐リアリズム的に解釈できる( Leiter 2015: 119 )。しかし、それよりはるかに重要なことは、ニーチェの反‐リアリズムは、様々な道徳が及ぼす影響についてのこうした判断に対してなされる「価値転換的」判断にも適用されるのである。つまり、畜群道徳は畜群には善いが高次の人間には悪いのであるから、畜群道徳(あるいは、畜群道徳の普遍的支配)は悪い(あるいは価値がない)という判断にも、ニーチェの反‐リアリズムは適用されるのである。

ニーチェは、確かに、価値の客観性を否定しているように聞こえることを多く述べている。ツァラトゥストラは「本当に、人間は自分自身にすべての善と悪[Gut und Bose]を与えた」と語っているし(ZⅠ:15I)および(Z II:12)、「一時的ではない善悪は存在しない」とも語る (Z II:12)。『悦ばしき知識』でニーチェは「われわれの世界で価値をもっているものは何であれ、それ自体として、自然に従って、価値をもつことはなく――なぜなら、自然はつねに価値を欠いているからである――、ある時点で価値を与えられたのである」(301; cf. D 3)。実は、ある種のラディカルな反-リアリストのように、彼は価値評価の問題を趣味の問題に同一視しがちである。「今日キリスト教に対して決定的に反対の態度をとるのはわれわれの趣味[Geschmack]であって、もはやわれわれ理性ではない」(GS 132)。同じ著作の後の方で、彼は「正義とは…どう考えても、趣味の問題であって、それ以上のものではない」と述べている(GS 184)」。

価値についての反-リアリズムを展開するニーチェの論証の核心部分は説明的である。経験の「最良の説明」の中には道徳的な事実は現れないし、だからそれは、客観的世界の本当の構成要素ではない。道徳的価値は、要するに、「説明されることによって消去」できるのである。このような結論はニーチェの自然主義から帰結する(この後者の点については、Janaway 2007とLeiter2013年の競合する見解を参照されたい)。ニーチェの道徳批判の文脈で見たように、ニーチェは、ある人間の道徳的信念は自然主義的な観点で、つまり、その人間についてのタイプ-事実の観点から説明できると考えている。だから、ある人間の道徳的判断を説明するためには、客観的道徳的事実の存在に訴える必要はない。その人間に関する精神-物理的な事実だけで十分である。だから、価値評価に関係しないタイプ-事実が説明のための第一次的事実であり、説明の力をもつということが客観的事実の指標であるのだから、価値の事実というものは存在しようがないように思われる。道徳的判断や価値評価は「イメージ」や「空想」であり、主体についてのタイプ-事実の結果にすぎないとニーチェは言う(D 119)。

これまでは、ニーチェを道徳的な反-リアリストとして記述することは、彼に形而上学的見解、つまり、道徳的に善いとか悪いことに関する客観的事実は存在しないという形而上学的見解を帰しただけだった。さらに、ニーチェに道徳的判断の意味論についての特定の見解を帰して良いかどうかは、解釈上少し厄介な問題である。このトピックスに関しては、20世紀以前で、きちんと熟考した見解をもつ哲学者は一人もいなかった(Hussain 2013)。たとえば、(上で引用した個所から)明らかなように、ニーチェは価値についての形而上学の中心問題については独自の見解をもっていたが、意味論の問題に対して満足のいく答えをニーチェに帰すに足るだけのテキスト上の資料が不十分にしかないということも同様に明らかであるように思われる。彼の見解のいくつかの要素を見ると、非-認知説、とりわけ表明説(expressivism)と呼べそうなものに彼の見解を同化させたくなる。たとえば、主人の道徳とキリスト教の道徳を「価値[Werthe]の光学においては対極にある形態」として記述するとき、ニーチェは続けて、対極にある「光学的」形態として、「それらは…理性的推論をも反駁をも受けつけない。キリスト教は反駁できない。眼の疾患は反駁できない...。「真」と「非真」という概念は、光学では意味をもたないように私には思われる」(CWエピローグ)。この一節――ニーチェにおける表明説と思われる個所の中でも典型的なものだが――は、しかしながら、曖昧である。なぜなら、この箇所は、「真」と「偽」が無意味なのは、価値評価の判断が本質的に非認知的なものであるためではなく、むしろ、競合する価値評価の見解が、理性的推論の影響を受けつけないからである、ということを意味するとも考えられるからである。一方の見解を他方の見解よりも良いと考えたり、一方を真、他方を偽と考える合理的な根拠はあるかもしれないが、理性的推論はこの文脈ではほとんどインパクトをもたないので、真偽の問題をたてても(要点を外しているという意味で)「無意味」なのである。

最近になって、フセイン(2007)は、ニーチェを道徳的価値についてのフィクショナリスト(fictionalist)として読むべきだと主張した。ニーチェは価値については反-リアリストであることは認めるとして(価値をもつものについての客観的な事実は存在しない)、フセインは、「価値を創造する」人々は自分がいったい何をしたと理解できるか、と問う。このニーチェ的世界で、価値を与えるということは、一種の「ふりをすること(make-believe)」、実際は、何ものも価値をもっていないことを知りながら、物事そのものに価値があるかのようなふりをしている(pretend)のだと、フセインは主張する。ここには急を要する哲学上の問題がある――価値について「ふりをする」ことが本当に「価値評価」にとって十分なのか――だけでなく、解釈上の問題もある。ニーチェは、道徳的判断が本当に信念(belief)――つまり、真偽が問える命題的態度であり、(価値についての言明が成り立つには)信念に加えてフィクション説的な処理が必要となる――を表明していると実際に考えていたのだろうか? 19世紀の哲学者がこのような問いに対して明確な答えもっていたとしたら、それこそ驚くべきことだろう(Hussain 2013はこの見解に同意するようになったようだ)。

ニーチェは、言語的・文法的慣行がどれほど形而上学的思い込みや問題を生み出すかを認識した最初の哲学者だったが、彼は、形而上学的な問題を、特定の表現領域の意味論についての問題(たとえば、ある語は、純粋に首尾よく指示的なのか、それとも「単に」感情を「表明」しているにすぎないのか?)として定式し直すのが最良だとは見なさなかった。だから、倫理の言語は第一次的には認知的か非-認知的といった微妙な問題についての見解をニーチェに帰する充分な理由があるとするのは疑わしい。それは、明らかに、記述的な表現と規範的な表現のいずれの側面も表明しているのである。



しかしながら、ニーチェの著作の二つの側面が、価値の反-リアリズムと衝突しているように見えるし、それを形而上学的理論として理解しても、そう見えることには変わりない。第一の側面は、「高次の」タイプの人間と「低次の」タイプの人間の区別に依拠していることである。そして第二の側面は、彼が自分の価値評価的判断を提示する際の力強さと生真面目さである。

上で見たように、ニーチェの道徳批判は、高次のタイプの人間と低次のタイプの人間の区別を前提している。しかし、誰が「高次」で誰が「低次」であるかについての客観的事実はあるのだろうか? もしあるとすれば、そのような見解は反-リアリズムと両立するのだろうか?

「高次」と「低次」についての客観的な事実があると仮定しよう。ゲーテは本当に高次のタイプの人間で、畜群動物は本当に低次のタイプの人間である。しかし、MPSは客観的に見て高次のタイプの人間の繁栄を妨げる効果があるからという理由だけで、MPSは非-打算的な意味で無価値であるかどうかについては、やはり客観的事実があるわけではない。「高次」と「低次」についてのリアリズムは、非打算的価値についてのリアリズムを含意するわけではない、という論証も可能であるかもしれない。

このような答えは、二つの理由からうまくいかない。まず、「Xは高次の人間である」という判断には、重要な評価的要素が含まれている。「ゲーテは高次のタイプの人間である」は、「ゲーテは平均よりも背が高い」という仕方で価値中立的ではない。ある人は高次のタイプの人間であるというとき、われわれはその人間に対する積極的な価値評価の態度をとっているように思われる(たとえば、あんな人がそばにいたら良いのにと思う態度)。「Xは高次のタイプの人間である」という客観的事実があり、MPSが高次のタイプの人間の繁栄を阻んでいることが事実であるすれば、MPSは、それが及ぼす効果のために無価値であるというニーチェの立場には少なくともある程度の客観的な重さが帰されなければならないように思われる。
第二に、ゲーテが高次のタイプの人間であり、たとえば、ヒトラーは畜群の動物であるということが客観的事実であるならば、次の反事実的言明は真であるように思われる。


(C)ヒトラーがゲーテのようであったならば、彼はもっとマシな人間になっただろう(If Hitler had been like Goethe, he would have been better off)。


彼は、低次のタイプではなく、高次のタイプの人間であっただろうから、彼はもっとマシな人間になっただろう――高次のものは本当に高次で、低次のものは本当に低次であるということは客観的事実である。しかし、この一見客観的な判断 ――ヒトラーはゲーテのようであったならば彼はもっとマシな人間になっただろうという判断 ―― は、非打算的な意味での価値判断である。それは、その時々のヒトラーにとって何が善いものかについての判断ではなく、その時々の状況がなくても、ヒトラーをもっとマシな人間にするものは何かについての判断なのである。一般的に言えば、「高次」と「低次」の客観性を認めることは、「高次のタイプの人間の善は低次のタイプの人間の善よりも優れている」といった客観的で非打算的価値判断を下すことを可能にするのである。

これらの理由から、ニーチェが非-打算的な意味での道徳的価値について反-リアリストであるならば、彼はまた、「高次」と「低次」の判断についても反-リアリストでなければならないことになる。MPSが、ニーチェが高次のタイプの人間と見なす人々の繁栄を妨げていることは客観的事実であるかもしれない。しかし、そのような人々が本当に高次の人間であるということは客観的事実ではないのである。

実は、これこそまさにニーチェの見解であることを示すテクスト上の証拠がある。たとえば、『ツァラトゥストラかく語りき』でニーチェは次のように書いている。「善と悪、富と貧困、高次と低次[Hoch und Gering]、および価値を表すすべての名称 ――それらは武器となり、生が再三自らを克服しなければならないことを示すしるしとなるのである」(Z II:7)。ここでニーチェは、「高次と低次」は、「善と悪」と同じように「価値を表す名称」すぎないことを明記している。しかし、すでに見たように、ニーチェは、後者の価値評価の概念について反-リアリストであるのだから、彼は前者の「高次と低次」についても反-リアリストであることは、ほとんど驚くべきことではないはずである。

ニーチェが「高次」や「低次」といった言葉で特徴を記す実際の文脈も同じ読み方を引き出すのである。たとえば、奴隷道徳は「最低次の打算」である(GM、I:13)とはどう意味かを述べた『道徳の系譜』の個所(I:14)を考察してみよう。ニーチェによると、奴隷道徳は「最低次」特有のある種の特徴を取り上げ、それを道徳的に賞賛すべき観点で記述しなおす。だから、たとえば、彼らの無力は「心の善良さ」になり、彼らの不安に満ちた下劣さは「謙虚」になり、「攻撃的でなく」「ドアのところでぐずぐずしていること」は「忍耐」になり、報復に対する欲求は、正義に対する欲求になる。ニーチェが本当に「下劣さ」の概念についてリアリストであるならば、われわれは、あるものがそのおかげで本当に下劣となるような客観的事実を見極めることができるはずである。しかし、ニーチェは、あらゆる忍耐を「ドアのところでぐずぐずしていること」にすぎないものと記述し、あらゆる謙虚さを単に「不安に満ちた下劣さ」にすぎないものとして記述しようとするとき、そこにあるのは、「下劣さ」についての「客観的事実」ではなく、ただ単に、論争的で、価値評価を満載した特徴の記述だけである。と考えるのが自然である。あらゆる謙虚さは本当は「不安に満ちた下劣さ」である考えることは、自分自身をニーチェの価値評価の感性を共有する者であるとして、「その耳がわれわれの耳につながっている」(GS 381)者であるとして、「生まれついて」ニーチェの洞察に「向いており運命づけられている」(GS 381)者として識別することにすぎない。要するに、ニーチェが実際に「高次」や「低次」について語っている仕方から見て、ニーチェのメタ倫理の立場は、これらの言葉(「高次」と「低次」)を次のように特徴づけるものとして理解されるべきである。つまり、「Xは低次である」と言うことは客観的事実を記述することではなく、むしろ、一定の価値評価的な感性あるいは趣味を共有するものとして自分自身を識別することなのである。


解釈上の最後の困難がまだ残っている。ニーチェは、自分の価値評価の判断が単に自分独特な好みにすぎないと考える人のようには書いていないからである! ここで考察されているメタ倫理の立場に立てば、「人間というタイプにとって実際可能な最高度の力と輝きが、事実上一度も到達されなかったのは、道徳のせいである」(GM Pref:6)というニーチェの論点に応じて、誰かが「だからこそ道徳は有り難いのだ!」と言ったとするならば、その人には何も言うべきことはなくなるだろう。せいぜい、ニーチェは背を向けて、「そうか、僕の価値評価の趣味を共有してくれないのか」と言うだけだろう。しかし、こうしたメタ倫理的見解と両立できず、ある種のリアリズム的な解釈を要求しているかなりの量のニーチェのレトリカルな発言があるように思われる(BGE 259; TI V:6 & IX:35; EH IV:4, 7, 8) 。しかし、ニーチェのレトリックから、彼は価値のリアリズム的形而上学を構想していたという結論を推論的に引きださないためには、以下のような三種類の考察をすればよい。
第一に、レトリックは強力だが、真偽の言語は目立って欠落している。上で引用した個所のいくつかが示唆しているように、ニーチェは、多大な力と情熱をもって、MPSに反対することを書いた。しかし、顕著なことに、そうした文脈で、ニーチェは認識上の価値を表す言葉――真と偽や、現実と非現実という言葉――を使ってはいないのである。もちろん、このことは注目すべきことではないかもしれないが、たとえば、キリスト教の宇宙論や自然の事象についての宗教的解釈に対してやはり同様に強力な攻撃をするとき、彼は、つねに、真理と虚偽、真理と嘘、現実と仮象といった概念装置を援用するという事実には注目すべきだろう ( Leiter 1994, pp. 336–338)。だから、たとえば、彼はキリスト教の宇宙論を「たった一点でも現実との接触」(die Wirklichtkeit fälscht) (A, 15)を欠くものとして、「現実を…偽る」「純粋なフィクション」と風刺する。こうした認識の価値を表す言葉が、価値についてのニーチェの発言には、目立って不在なのである。このレトリック上の違いに対する一つの自然な説明――彼の反リアリズムを証拠立てるかなりな量の発言を考え合わせると自然な説明――は、道徳の場合、何らかの事実があるとはニーチェは考えていないということである。

第二に、「あらゆる価値の価値転換」を試みるとき、すでに見たように、ニーチェは、「高次のタイプの人間」に対して、MPSが、実は、彼らの繁栄に資するものではないという事実に警戒させる。彼は 彼の読者に相応しい人間――その「耳が自分の耳につながっている」人びと――に、MPSの危険に「目覚め」させる必要を感じる。これは、「道徳そのもの」であると称するMPSの主張によってそれだけ困難な仕事となる。ニーチェのターゲットが高次の人間のある種の誤解であるとして、この誤解の中に登場する規範(MPSの規範)を何か別のものに取り代えることの困難を考えると、ニーチェが情熱と力をもって書くことは驚くべきことではなくなるはずである。彼は、高次の人間を、2千年の道徳的伝統に対する直感的な義務感から振り払って、切り離さなければならない! おまけに、ニーチェの自然主義や、それが非意識的な欲動やタイプ-事実に割り振る優越な役割のために、彼は理性や論証の有効性には懐疑的になってしまうのである。しかし、理性的な説得の有効性について懐疑的な人間は、それ以外の修辞的な手段による説得を選ぼうとするだろう。

第三に、そしておそらく最も重要なことだが、ニーチェのような修辞的なトーン ―― 彼の人生の文脈の中で見られたとき ――が示唆しているのは、実は、その内容に関するリアリズムではなく、ますます遠くなり無関心になる聞き手に到達しようとする筆者の必死の素振りなのである。病気が知性を消し去り正気を奪う前の数年間ほとんどまったく黙殺されたニーチェが、ますます声高で暴力的になる修辞に訴えかけたのは、聞き手のいない状況に対する失望のあまりだったのであって――彼がリアリストであったためではなかっただろう。実際、価値リアリズムを証拠立てる明確なテキストがないので、この点が、このセクションで重要なほとんどの個所をもっとも説得的に説明するように思われる。
これらの様々な理由から、ニーチェのレトリックの性格は、価値についての彼の反-リアリズムと両立可能なものとして理解することができるのである。



」 (おわり)












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